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南瓜 相田ともみ 電話の呼び出し音が二回で切れた。彼からの合図である。弓子は夕食の仕度で湿って いた 手をエプロンで軽く拭くと、玄関に急いだ。靴箱の横に据えてある姿見で身を整える。暮 れきれ ぬ夕日の中に映る弓子の顔は、生き生きとしていた。 商店街のアーケードを抜けると、いつものように晃司の車が幼稚園の建物に横付けされ てい た。 「弓子さん、今日は映画見よう。もうビデオ借りてあるんだ」 運転席から晃司が顔を出し、得意げに親指を立てて見せた。 「『ジョーズ』、『サタデーナイトフィーバー』」 弓子は訊き返し、助手席に腰掛けた。 「ジョーズ」 晃司は口を大きく開けて、人に襲い掛かるサメの動きを真似た。弓子もわざと首をすく めて笑い、驚く振りをした。晃司といると、弓子は身体がむず痒くなるほど幸せだった。 「だんなに気付かれてないよね」 晃司はいつも、弓子に対して同級生と話す口振りである。十八も年かさの弓子は、そこ がまた 嬉しかった。 「多分ね」 答えながら弓子は、台所の食卓に作り置いて来た皿一杯の南瓜の煮つけを思い浮かべ てい た。 晃司の安アパートに着くと、家々の門灯に明かりが灯る時刻であった。弓子は鉄階段を 先に登る晃司の背中を見た。 毎週金曜の夜、晃司と会うようになった。今日は丁度、十度目の密会である。最初に顔 を合わせた喫茶店で、 「俺、一目惚れなんだ」 と,晃司は切り出した。晃司は小さな出版社でアルバイトをしている,二十三歳のスマート な青 年である。親戚の女の子が下敷きに挟んでいた、ピンナップの若俳優に面影が似てい た。 晃司は、会社の倉庫で眠っていた既に廃刊になっている七十年代の少女雑誌から、弓 子を見つけた。 興奮した声で電話をかけてきた晃司から事情を聞いた弓子は、しばらくの間小首を傾い だあと、顕微鏡のピントが合った瞬間のように記憶を探り当てた。 一九七七年、昭和五十二年。当時高一の弓子は、少女雑誌の文通希望コーナーに写真 付き で住所を載せていたのである。手紙が一ヶ月に二百通近くも来てしまい、辟易した覚えが 確かにあった。 弓子は、男と女のそういう方面には無頓着な母が、はいそうですかとすんなり晃司に嫁ぎ 先の電話番号を教えたのがきっかけだった、今こうして自分が晃司の背中を見上げているの は 母のせいだと、思いたかった。 実際は、喫茶店を出た軒先で、 「ほんと、写真と同じ。変わってないよ」 と晃司が弓子の瞳を見つめて言った時から、全ては始まったのだ。 南瓜が鍋の中で柔らかくなっていく。今日のは色が悪い。弓子は菜ばしを刺して煮え加減 を確かめる。南瓜の煮付けは唯一弓子の得意料理と言えるメニューで、夫の大好物でもあっ た。お互い二十ニの時結婚して十九年、いったい幾つの南瓜を煮たのだろう。 弓子は今まで自分の落ち度を、南瓜で帳消しにしてきた。応接間に飾ってあった複雑な 戦艦のプラモデルを掃除機で壊した時も、夫婦茶碗を割った時も、夕食に南瓜の煮付けを作 った。 自分の中に生じた夫への引け目を、黒板消しでスーっと消すのだ。 南瓜が効いたのか、夫はどちらの時も怒らなかった。プラモデルは、一週間がかりでやっ と作 り上げた夫の宝物であった。茶碗は、夫の母が結婚祝いに当時習い始めの陶芸で拵えた この世に二つとない物だった。 「からだ、少しは柔らかくなった」 不意に夫が、広げた夕刊越しに訊いた。弓子は菜ばしを落としそうになる。 「そんなすぐにはね」 振り返って答えると、夕刊の下欄に載っている"特集妻の不倫"と書かれた週刊誌の宣 伝広告が目に飛び込んできた。 晃司と会う金曜の夜、弓子はカルチャーセンターのクラシックバレエ教室に通っているこ とになっている。 「明日もバレエの日か」 夫は新聞の端から手だけ出し、食卓の漬物をひとつつまんでのんびり言った。 弓子は、鍋の栗むし色の南瓜を見た。今玄関の姿身の前に立ったら、きっとこんな顔色 をしているに違いないと思った。 おもちゃを壊された子供が火のついたように泣き出したものの、大好きなおやつを目の 前に すると途端に機嫌を直し、おどけた仕草で笑い出すことがある。夫はそれと違う。弓子が "大好 きなおやつ"を出さなくても、夫はプラモデルの時も茶碗の時も怒らなかったのではない か。弓子が何をしたって怒らないのではないか。 「明日もまた、煮付け作っとこうか」 弓子は殊更に明るく言った。嬉しそうに頷いた夫は、テレビニュースの六時の時報を汐 に、夕 刊を畳んだ。 晃司と会っている時、弓子は必ず傍らにもう一人の自分を連れていた。 高一の弓子である。夕方になれば部活動帰りの高校生で満杯になるこんな定食屋兼甘 味屋で、あんみつを食べながら友達とクラス担任の噂話に花を咲かせたり、片思いの恋に心 をとき めかせていたあの頃、昭和五十二年の弓子である。 「もっとその頃の話し聞かせてよ。だって、弓子さん楽しそうだもん」 が、晃司の口癖である。流行っていた音楽、テレビ番組、アイドル歌手について弓子が脈 絡な く話すのを、晃司は目を輝かせて熱心に聞いている。 弓子は話が調子付いて進んでいくにつれ、傍らにいた筈のもう一人の自分と同化でき た。まるで、幽体離脱していた分身が身体に戻るように、高一の弓子が四十一歳の弓子に入っ てくる のである。 話の途中で、注文していたジュースが来る。古色グラスの中に、どんよりと曇った赤が映 って いる。氷イチゴのシロップを水で薄めた、独特のジュースである。晃司の方は、それに炭酸 が入ったスカッシュだ。 「晃司くん、あなた、私と会ってて楽しい」 「楽しいよ」 晃司が答えたのは、狭いアパートの布団の中だった。弓子は、晃司の腕枕でうとうとし始 めていた。 「よかった」 弓子は天井を見つめた。もくめに見覚えがあった。晃司の安アパートとは勿論材質は違う が、 こんなもくめが夫の実家の客間にもあった。 新婚の当座は、年に何度か二人して夫の郷里宇都宮へ出かけていたのだが、ここ十年 はぱ ったりとやめてしまった。 夫の弟夫婦に子供が生まれてから、弓子に対する姑の態度が明らかに厭味のあるもの になったのも原因の一つだった。結婚二年目の検査で子供が生めぬ身体と判った時、涙ぐん で弓子を励ましてくれた姑も、やはり"夫の母"であった。 Uターンして実家を継ぐのは長男の夫であり、あの広い田舎屋敷の台所を我が物顔で 歩くの は、弓子の筈であった。 足が遠のいた決定的な原因は、十年前のお盆のことである。義弟の嫁が膝に抱いた生 まれ たばかりの息子に話しかけるように、 「おかしいわね。あなたの鼻ににきびができても、弓子おばちゃんには赤ちゃんが生まれな い わね」 と言った言葉が、弓子の胸を突いた。宇都宮には、甥や姪の鼻ににきびができると、その 伯 母に赤ちゃんが生まれると言う言い伝えがある。 その一件以来、弓子は夫の実家へは一度も行っていない。 義弟の嫁の勝ち誇ったような口調が腹立たしくて、自分の身体が憎らしくて、一晩中天 井を 見つめていた。あの客間のもくめに似た模様が、今顔の上にある。 「弓子さん、涙目」 いたずらっぽい口振りで、横の晃司が呟いた。我に返った弓子は、そっと目尻の涙を拭 う。 「それにしても晃司くんの部屋、私の高一の頃と同じ感じだわ」 晃司の部屋の調度類は、全て会社の同僚からの貰い物だという。サイドボード、ステレ オ、ど れを取っても昭和五十二年頃の若者が好んだヒット商品である。 「貧乏だからさ、俺」 晃司が引け目に感じている部屋の雰囲気を、弓子は嬉しくてたまらない。 夫は弓子が義弟の嫁に言われている時、傍で一部始終を聞いていたのである。にもか かわ らず、弓子のために怒ろうとはしなかった。黙って縁側将棋をする舅の所へ行ってしまっ たの だ。 晃司といる時弓子は、もう一人の自分を連れている。そして自然に同化し、高一の弓子 になれるのだ。女としての責任もなく、怒らぬ夫もいなかったあの頃。 晃司は、弓子にとってタイムマシーンであった。横で目をつぶった晃司は、優しい表情で ある。 この若い青年を利用して、自分は少女雑誌で微笑んでいた自分に会っているだけなの だ。晃 司を好きなことは確かだが、街で声をかけられたのなら交際はありえなかった。 釣り糸の先に"少女雑誌"というエサがついていたから、弓子は食いついたのだ。 「ごめんね、晃司くん」 声にはならなかった。今ごろ夫は、直接会社から実家へ向かっている。姑の神経痛が酷 いらし く、見舞いがてら泊まってくると今朝出がけに言っていた。 弓子は晃司の寝息を聞きながら、頭の中ではスティーリーダンのエイジャを口ずさんで いた。 高一の弓子が好きだった洋楽である。確かこのレコードのジャケットになっていたのは山 口小 夜子で、ほんの少ししか顔が映ってなかったなと思っているうちに、寝入ってしまった。 弓子は水道を出しっぱなしにして、鍋底にこびりついた黒焦げをかなだわしできつく洗い 取っ た。はがれた焦げが水面に浮かび上がり、鍋の縁から流しへ落ちていく。南瓜の煮つけを しくじ ったのだ。 夫の前で感情を剥き出しにして慟哭したら、こちらの負けである。弓子は止めどなく鼻の 奥に 押し寄せる切ない波を必死でこらえ、かなだわしを動かした。 夫は話を続ける。 「ここは忍ちゃんの顔を立てて、もう一度検査だけさ」 忍ちゃんとは義弟の嫁の名である。不妊治療の権威を見つけた忍が、帰省中の夫に入 れ知 恵したのだ。弓子は、その時の忍の勝ち誇った顔が思い浮かんだ。 「でも、どうせ私もう年だし」 そう答えるのが精一杯であった。喋るだけ弓子が不利になる。 なぜ十年前のあの時、忍を咎めてくれなかったのか。忍は、度を越えた皮肉で弓子の命 綱を ぷつりと切った女である。その忍の紹介で弓子がのこのこ検査に出向くと、どうして考えら れる のか。もし今そう泣き叫んだら負けになる。弓子は思った。頭の中でエイジャを口ずさんで、 淀み きった気持ちを何とかやり過ごした。 弓子は湿った手をエプロンで拭き、もう南瓜の煮付けは今日でしまいにしようと誓った。 そして 元気良く夫の方を振り返って、 「ちょっと、新しい南瓜買ってくるから」 心とはちぐはぐなセリフを言い残し、弓子は玄関に走った。夫が食卓の椅子から動く気配 はな い。きっとまた、黙って夕刊に手をのばすだけだ。 姿身の中の弓子は、しおれていた。このまま役所へ行き、離婚届を貰おう。夫にはあとで 郵送 したらいい。幾つ南瓜を煮ても、弓子の身体の落ち度は帳消しにはならない。 晃司と暮らすのがいい。晃司と昭和五十二年頃に流行った映画をビデオで見、甘味屋で 古色 グラス片手に喋り、心地良い調度類に囲まれた晃司の狭いアパートで暮らすのがいい。 弓子を真剣に求める晃司の気持ちは、二の次である。しかし、徐々に晃司を愛していけ る自 信はあるのだ。弓子は不思議なほど前向きな自分が可笑しく、今頃になって溢れてきた 涙を拭 いながら、つっかけの音をいたずらっぽくアスファルトに響かせた。 鉄階段を登りつめ、すぐ手前が晃司の部屋である。まず始めに何を言おう。弓子が散らか った 言葉のピースをパズルの要領で組み立てていると、横の部屋のドアが開いた。 「関さんなら、今朝引っ越したよ」 顔を出した不機嫌な老婆は、手にごみ袋を携えている。 あとワンピースで完成するパズルが、瞬時に飛び散った。弓子は無表情のまま、佇む。喋 り終 わった老婆が、愛想笑いを見せながら部屋に戻った。 弓子は鉄階段の最上段に腰掛け、老婆の話を反芻する。暗闇の中で、どこからか聞こ える 救急車のサイレンの音階がドップラー効果で変調する。 晃司が小説家志望だったこと、今回バイト先の文芸誌でデビューを飾ったこと、そしてデ ビュ ー作のテーマが"昭和五十二年の高校生カップル"だったこと。 晃司にとって、弓子は資料であった。 弓子が晃司と親しかったと判ると、老婆は態度を一変して嬉しそうに文芸誌をよこした。 同じ アパートから著名人が出たことが得意らしかった。弓子は冊子を老婆の郵便受けに戻 す。 内容は察しがつく。弓子と過ごしたこの三ヶ月間を脚色して、素敵な物語に仕上げている に違 いない。 弓子の家の門灯だけがついていなかった。十時を過ぎていた。部屋には夫の姿はない。 弓子 は、ぼんやりと食卓を見やる。瞬間、熱いやかんを誤って触ったような驚きが弓子の身を 貫い た。 投げやりな置き方で、数枚の写真とネガがあった。むさくるしいアパートから肩を組んで出 てく る二人。甘味屋で微笑み合う二人。幼稚園に横付けされた車に乗る二人。全ての写真に、 不愉 快な感情を露にした大きな×印が書いてある。 ネガに添えられた"調査書"には、二人の行動が芸能人のスケジュール並みにこと細かく 記し てある。 夫は知っていた。 それらをゴミ入れにほかすと、電話が鳴る。弓子は相手の声にはっとした。 「弓子義姉さん」 忍であった。反射的に弓子の指はフックを押していた。 「待って、切らないで聞いて」 機械の構造上、まだ電話はつながっている。弓子は受話器を強く握り、珍しく弱気な忍の 声を 聞いた。 「今更だけど、本当にごめんなさい。お盆の日、あのあと私義兄さんに平手打ちされたの よ。以 来十年、口も聞いてくれなかった...。病院をだしに仲直りできたらと思って。でも、さっ き義兄 さんに電話で断られた」 忍の泣き声に重なって、弓子の瞳に熱い涙が滲んだ。そして、ポタポタと流れ落ちた。 夫が袋一杯の南瓜を買ってひょっこり帰って来たのは、電話を切ってすぐのことだった。 夫はちらりと食卓の上をさりげなく見てから、陽気な声で、 「これから一週間、南瓜の煮付け作れよ」 と言った。流しには、夫婦の代わりに駄目になった鍋がある。 「じゃあ、新しいお鍋も買わなきゃね」 泣きはらした瞳で弓子は精一杯明るく答え、袋からひとつひとつ南瓜を取り出した。 了 |