〜TOPICS〜   2011/4/11

震災から一カ月が経った。桜が咲き芽吹きが始まっている。被災地はどうか。

テレビからは繰り返し、「日本の力を 信じてる」などと、教祖か独裁者のお言葉のようなメッセージが流されている。 日本の力とは何なのか、信じてるとはどういうことなのか、なんの定義もなく、ただ洗脳のためのような。

4月5日の朝日新聞の写真に目が吸い寄せられた。雪の降る中、若い僧が海のほうの瓦礫の山に向かって手を合わせている。そうなのだ、この死体の溢れた混沌の塊の前で、今は暗く静まっている巨大な海の前で、この一人の青年にいったい何ができるというのか。仏の道をめざしながら、しかし無力なひとりの「わたし」には、ひたすら祈ることしかできないのだ。

生き残った人たちの生活を一刻も早く取り戻さなくてはならない。しかしそれに安易に「復興」という言葉を使ってはいけないのではないか。
私たちは、今までのように、多種多様な生きものや人のすみかを破壊してアジアやアフリカから資源を持ちだし、大量に生産し大量に消費し大量の廃棄物をまたアジアやアフリカに捨てるといった行為をいつまで続けるのか。そのための石油の大量消費や、コストと効率を口実にした原子力発電。そこへ「戻る」ことを「復興」といってはいけない。

原子力発電は、原子爆弾をゆっくりと「燃やす」ことによって、高圧の水蒸気を作り発電機を回すということだ。その燃料は、つまりは核兵器を作るときの副産物なのだ。
世界には約500基の原子力発電所があって、そのそれぞれが「フクシマ」のような危険性を内部にもっている。 さらにさかのぼれば、世界には、なんと27,000発の核兵器が存在する。その一つ一つが「フクシマ」よりさらに危険をはらんでいる。

私たちは今、「福島第一原子力発電所」におびえているが、では500の原子力発電所はどうなのか、27,000の核兵器はどうなのか。「フクシマ」を解決することは、500の原子力発電所の問題を解決することであり27,000の核兵器の問題を解決することにまっすぐつながっているのだ。

いったい、そんなことができるのだろうか? しかし「フクシマ」のほんとうの復興とはそういうことなのだ。何年、何十年、何百年かかって復興できるのだろうか、それとも、次から次へと「フクシマ」の悲惨はつづき、拡がっていくのだろうか。



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