ペリー艦隊が見た下田

[ ハイネ筆]

18世紀後半の日本沿岸では、頻繁に諸外国の軍艦が出没するようになってきました。

下田に於いても1947年のロシア船、1949年イギリス軍艦マリーナ号が姿を現しました。

そして1954年には米国のペリー艦隊の軍艦7隻があいつで下田に入港し、港内の

測量をし、日米和親条約付録下田条約の調印を成し遂げました。

その間、艦隊の士官や乗組員たちは、暇をあかしてあちこちを歩き回り、克明精細

膨大な、記録やスケッチの四巻になる「ぺりー提督日本遠征記」を書き残しました。

よってここでは簡単に、当時のスケッチを引用し今の下田とを比較して見ました。




[銭湯]

下田のきれいな町並みと清潔好きな国民性には好感を抱いたが、この男女混浴の

公衆浴場の画は、淫蕩な国民であるとの誤解を、艦隊員や多くのアメリカ国民に与

えた衝撃的なものでありました。

しかし後のハリスは、「裕福な人々は自宅に湯殿をもっているが、労働者階級は全

部、男女、老若とも同じ浴室に入り、全裸になって身体を洗う。私は、何事にも間違

いのない国民が、どうしてこのように品の悪いことをするのか、判断に苦しんでいる。

けれども、それが女性の貞操を危うくするものと考えていないことは確かである。

むしろ反対に、この露出こそ、神秘と困難とによって募る欲情の力を弱めるもので

あると、彼らは主張している。」と書き残しています。

                  詳細関連ページ (リンク)






 
[船着き場 1 ]

城山公園下の妙見宮の社であろう。現在はペリー艦隊来航記念が立っています。





 

[船着き場 2 ]

現在の弁天橋から新波止場方面の絵と想像される







 

[街道と大社への入り口]

現在ペリーロードとして整備されています。

中央左に了仙寺山門が見えます。




 

[了仙寺におけるアメリカ兵の訓練、境内と本堂に当時がしのばれる]






    

[八幡神社、面影を残す近年新設された太鼓橋]



[Back]