ボーダー

池内トオルは、常々、予知さえできれば病死以外の死は避けられるはずだと考えていた。
その彼が、ある朝、奇妙な"線"を見たのだ。
通勤途中、歩道で信号待ちをしていた彼は、何の気なしに自分の足元をみた。
(何だ、これは?)
トオルのつま先10センチほどのところに、"線"があった。
それは、トオルの前に立っている一団をぐるりと囲んで不定形を作っていた。
その中にいる人々が、なにやらセピア色がかって見えている。
トオルはためしに、その中に踏み込んでみた。
背筋がゾクリとした。
あわてて後ろにさがる。
信号が変わった。人々は、先を争うようにして横断歩道へと踏み出した。その途端、
「ぎゃあ」「うわあっ」
あたりは地獄絵と化した。
暴走トラックが交差点に飛び込んだのだ。
血だらけになって倒れていく人々を前に、トオルは呆然と立ち尽くした。
「やあね、そんなの気のせいよ」
夕方会ったルリは、けらけら笑ってトオルの背中をたたいた。
「あたしたちでさえ、新婚旅行に月へ行こうって時代なのよ。そんなオカルトチックな話、信じられないわよ」
不思議な"線"の内側でセピア色に見えていた人たちだけが死亡したなどという話は、誰に言っても信じてもらえるものではなかった。
「とにかくさ、トオルちゃんが無事でよかったわよ。月行きのクーポンが無駄になっちゃうもの」
ルリはくったくなく笑った。
トオルもあいまいに笑った。
が、そろって映画館に入ろうとした時、ふたたび"線"が見えた。
「早くおいでよ」
その"線"の中で、ルリもセピア色に見えていた。
「ルリ……」
"線"が見えると言い出したトオルに腹をたてて、ルリはひとりで映画館に入っていった。
そして、事故は起こった。
映画館の地下で漏れて充満していたガスが爆発したのだ。
ルリはあっけなく死んでしまった。

トオルは、"線"の意味をはっきりと悟った。
("線"が見えたら、急いで外側へ逃げ出せばいいんだ。やったぞ。僕はもう、事故で死ぬことはないんだ)
不死を手に入れたような気分だった。
ある日、またそれが見えた。
「ああっ」
トオルは思わず声をあげた。
"線"に囲われた人々の姿がセピア色に変わったかと思うと、みるみる、その領域は広がっていった。
それはすごいスピードで広がり続けた。
(大地震でも起こるのか?)
真っ青になって逃げ惑う彼を、セピア色の人々が、不思議そうに見ていた。
(どこもかしこも囲まれている)
彼を含めて、すべてがセピア色に変わってしまった。
(そうだ、月だ)
ルリとの新婚旅行で使うはずだったクーポンがまだ使えた。
トオルは地球を飛び立った。
月のドームに降りた彼は、再び叫び声をあげた。
「地球がっ」
月の中天にかかった地球は、青ではなくセピア色をしていた。
(地球全部が……。まさか?)
その"まさか"が起こるまでに時間はかからなかった。
地球上の一点で明るい光が輝いたかと思うと、まもなく、全世界で、核爆弾の炸裂する光がいくつもいくつも瞬いた。
数時間のうちに、地球は死の星に変わっていた。
(僕は助かったのか……。ううっ、あれは……)
地球から染み出したようなセピア色が、じわじわと宇宙空間を渡ってくるのだ。月へむかって。
(そうか……)
全身から力が抜けた。
もはや逃げ道はなかった。
月は地球からの補給なしではやっていけない。
その地球は、すでに帰れぬ場所となっている。
(こんなことなら)
知らないほうがよかった、とトオルは思った。
トオルの思いをあざ笑うように、生と死の境界線は、ゆっくりと月に迫ってきていた。

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