誰もいない

 友人と3人で喫茶店にいた。
 それは確かだ。
 いや、確かというのは正確という意味じゃない。正確という意味では、川田と横井は友人というより悪友だし、喫茶店というのは、いわゆるメイドカフェなのだが、そんな事は、この際あまり問題じゃない。
 とにかく、3人で、人気メイドのユウちゃんをどうやったら誘い出せるか、なんてくだらない事をこそこそと話し合っていた。1杯840円のコーヒーを飲みながら。
 で、オレはトイレに立った。
 カフェのトイレは男女兼用で個室は一つしかない。男用がないので、便座に座って用を足した。こんな時、立ってするヤツもいるが、オレは座ってする。別に、立ってすると飛沫が飛んでトイレを汚すから、とかそんなんじゃない。ジョボジョボと音がするのがイヤなのだ。
 まあ、そんな事もどうでもいい。
 とにかくオレはトイレに行った。無事に小用をすませて立ち上がり、水を流そうとしたら水が出なかった。レバーを何度か動かしたがウンともスンとも言わない。あきらめた。手を洗おうとしたら、今度はこちらの水も出なかった。接客業失格だな、と思いながら、ペーパータオルで手を拭くマネをしてから店内に戻ると……
 誰もいなかった。
 悪友2人が勘定をオレにおしつけて逃げてしまった、というのではない。もちろん、2人もいなかったが、店にいた他の客たちもメイド服のウエイトレスも、誰もいなかったのだ。
 耳がキーンとしたので気がついた。BGMもない。そればかりか、完全な無音だ。
 オレがいたテーブルには、飲み差しのコーヒーが3人分乗っている。
 何かの冗談かと思い、通りに面した窓から外をみて心臓が凍りつきそうになった。
 カフェはビルの2階にある。その窓から見える限りの歩道にも、交差点にも、向かいのビルの窓にも、人影がないのだ。
 車の姿もない。
 空を見ると太陽もない。さっきまで午後の日差しが照っていたのに。かといって曇っているわけでもない。空の色は青かった。
 店の外に出ようとして勘定が気になった。このまま出て行ったら無銭飲食になるのだろうか。
 財布をあけると千円札しか入っていなかった。つり銭はどうすればいいのだ?
 とりあえず、レジ横の皿に千円を置いて、オレは通りに出た。

 「誰かいませんかー」
 思い切って声に出してみるまで何分かかかった。何分かかったのかは時計が止まっているのでわからなかったが。
 携帯電話の時計も止まっていた。電波も圏外だ。
 街の真ん中で圏外だとは。
 誰もいない通りを横切った。習慣で、横断歩道の手前で立ち止まってしまったが、信号は点灯していなかった。だいいち、車など来ないのに何を待っているんだ、と思ったらちょっと笑えた。
 通りを渡って、左に曲がった。駅に向かい、電車に乗ってアパートに戻ろうとしたのだ。家に戻って落ち着こうと考えた。
 が、左に曲がると、そこは、いつも通っている商店街ではなかった。
 見たことのない町……いや、見たことはあった。道の右側に小学校がある。オレの母校だ。飯塚第二小学校。
 ちょっと待て。
 飯塚第二小学校は、オレの生まれ故郷にあるのだ。オレはそこを8年前に卒業、少し離れた飯塚中学校に入学、3年後卒業、それから通学にバスで30分かかる高山東高校に通い、そこも3年後に卒業、で、大学に合格して、親父に車に乗せてもらい 高速道路を4時間走って、この街に越してきたのだ。同じアパートに2年間住んでいる。
 つまり、飯塚第2小は、メイドカフェからは、少なくとも250kmは離れているはずだ。親父は高速道路でも時速85キロ以上はめったに出さない、ある意味危険なドライバーだ。だから、到着するまでに4時間もかかった。もちろん、1時間ごとに休憩も取る。これは運転マナーとして正しいし道交法上も正しいのだが、どの車も、迷惑そうに追い越していく。
 いや、そんな事もどうでもいい。問題は、メイドカフェの向かいの通りを左に曲がったところには、飯塚第二小学校は存在しないという事だ。小学校のそばにメイドカフェがあっていいはずがない。
 だが、それはそこにあった。懐かしい運動場。正面のポールには、校旗がしおたれている。そこで気がついた。風がないのだ。子供たちの気配もない。
 「誰かいませんかー」
 さっきよりも大きな声で呼んでみた。だんだんと不安になってきた。ここはどこなのだろう。人もネコも犬も見えない。風も吹かない。何の音もしない。なんで、こんな所にオレはいるのだ……。泣きたくなってきた。
 「あなた、誰?」
 突然、そばで女の声がした。オレは驚いて、文字通り飛び上がった。
 「ひゃっ。だだ、誰? 誰? どこにいるんだ?」
 声はすぐそばで聞こえたのに、周りには誰の姿もない。
 「私は安西レナよ。あなたは?」
 相変わらず声だけが聞こえる。
 「オ、オレ、いや僕は西川テツヤ。君、どこにいるの? 姿を見せてくれないかな」
 「無理よ。私にもあなたの姿は見えないもの。声が聞こえたから、思い切って呼びかけてみたの。聞こえるとは思わなかったわ」
 「え? どういうこと? さっきまで人が大勢いたのに急に誰もいなくなっちゃったんだけど。しかも、道を曲がったら実家のそばの小学校に出た。オレ、いや僕は東京にいたのに、道を曲がったら田舎に……」
 現象を言葉にしてみたら、急に実感がわいてきた。いったい何が起こったんだ。
 「私は名古屋よ」
 レナの声がさえぎった。
 「私が迷い込んだのは名古屋の地下街の出口だったの。階段を上がったら誰もいなかったのよ。今は静岡の実家にいるわ。独りぼっちになって怖くなって、実家のお母さんに電話しようと思ったら、もう実家の前にいたの。ねえ、西川さん、あなたのところは今何日? 私が栄にいたのは3月20日だった。ここは時間のない世界だから、何日いても変わらないの」
 「今日? 今日は3月28日だよ。君、8日間もずっとひとりでいるの?」
 「違うのよ。言ったでしょう。ここは時間が存在しないの。だから、動くものがないのよ。何日いても、たぶん何年いても、一瞬前と変わりはないのよ。お腹もすかないし眠くもならない」
 「だって、僕たちは動いているじゃないか。動けばカロリーを消費する。お腹がすかないなんて事はあり得ないよ」
 「ありえなくてもそうなのだから仕方がないわ。ねえ、3月28日には何か事件が起こらなかった? 地震とか、爆発とか」
 「事件? あ、大地震があったよ。海外だけど。それがどうかしたの」
 「私がここに落っこちた日にも地震があったわ。きっと、それで空間に亀裂ができて、たまたま私たち落っこちちゃったんだわ」
 「じゃあ、あのメイドカフェのトイレの空間に亀裂が? そんなばかな……」
 「ねえっ!」
 突然、耳元の声が叫んだ。オレは耳をふさいだ。が、聞こえる声は小さくはならなかった。
 「それって、ついさっきよねっ?」
 レナの声は興奮していた。何か考え付いたらしい。
 「え、え、な、なにが?」
 「あなたがトイレに行ったのが、よ。何分くらいたってると思う?」
 「わからないなあ。時計が止まっているから。でも、道を渡って来ただけだから、10分は経っていないんじゃないかなあ。それって関係あるの? さっき、ここは時間のない世界だって言ったじゃないか」
 「そうよ。時間はないのよ。でも、私たちは存在するわ。人間は時間を計る生き物でしょ。計られなかったら時間は存在しない。だって、時間を意識する存在がいないのだもの」
 「は、はあ? 君、理系?」
 「時間のない世界に、私たちみたいな時間を計る存在がいるのは不安定に違いないわ。だから、ここに落ちたときのような亀裂がみつかれば、元の世界に戻れるかもしれないと思うの。でも、私の落ちた亀裂は、元の世界では8日間も経っているから消え てしまった可能性が高いわ。実際、一度、栄に戻って試したことがあるのよ。亀裂がないかと思って」
 「ダメだったんだね」
 「だからまだここにいるのよ」
 レナの声は、ちょっと怒ったようにとがった。
 「でも、あなたの亀裂は、まだあるかもしれないわ。その店の場所を教えて。急いでいけば間に合うかもしれない」
 「え、でも君、静岡だろ? あ、そうか。場所は関係ないのか」
 「そうよ。この落とし穴は、完全にパーソナルなものなの。だから、隣り合っているみたいなのに、あなたと私は会うこともできない。でも、声は聞こえた。それはきっと、あなたが落ちた亀裂を通じて、ふたつの世界が繋がっているからだと思うの。それなら、私の世界のカフェのトイレにも亀裂があるかもしれない。さあ、教えて。どこなの」
 「あ、ああ。東京都……3丁目の交差点角、ナガミビルの2階だよ。名前はメイドインカフェ」
 言いながら、オレも急いできびすを返した。急いで戻らなきゃ。小学校には今年の夏に帰省したら寄ってみよう。
 「ありがと。また会えるといいわね」
 声が消えた。
 走り出すと、なんだか、周りの何かがいっせいに、オレと同じ方向に動き出したような気がした。

 祈りながら角を曲がると、3丁目の交差点だった。ありがたい。
 階段を駆け上がって店に入り、まっすぐにトイレに向かった。
 レジ横の皿には、さっき置いた千円札がまだあったので、オレは通り過ぎざまお札をポケットにねじこんだ。戻れたら払うさ。
 トイレに飛び込んだ。
 が、亀裂とやらがどんな形をしているのかわからない。目に見えるのかもわからない。一瞬、途方にくれた。
 さっき、トイレに行ってやったとおりにやってみることにした。どこかで亀裂に触ったのだろうから。
 ズボンをおろし、便座に腰を降ろす。すると、目の前がモヤモヤしているような気がした。握りこぶしくらいの大きさの空間が、夏のアスファルト道路みたいにモヤモヤとゆれて見える。
 これが亀裂か?
 オレは、そのモヤモヤに向かって頭をつきだし、頭が中心を通るように気をつけながら立ち上がった。
 何も起こらない。
 いや。
 聞こえる。ざわざわした街のBGM。
 オレはトイレの外に飛び出した。

 「きゃっ」
 人気メイドのユウちゃんが叫んだ。
 「なにやってんだ、西川。ファスナーッ」
 川田が怒鳴っている。前ファスナーをあげずに飛び出てしまったのだ。いやいや、そんな事はどうでもいいじゃないか。
 「会いたかったよ、川田、横井」
 「ばかか、おまえは。やけに長いトイレだったな。大か? おまえ、完全にユウちゃんに嫌われたぞ」
 「まったく、なにやって……え?」
 横井が目を丸くしてオレの後ろを見た。
 バタン。トイレのドアが閉まる音がした。
 「西川さん?」
 さっきまで耳のそばで聞こえていた声、レナの声が後ろで聞こえた。
 「え、レナちゃん? 」
 振り向くと、安西レナがにっこりと笑って立っていた。かわいい。
 「帰れたみたい。8日間も行方不明で、警察沙汰になってるかもしれないけど……」
 「なんとか言い訳できるよ、きっと」
 「なんだなんだ。トイレで女の子と一緒だったのか? いつのまに? オレもトイレ行こ」
 川田がトイレのドアに手をかけると……。
 「うわっ」
 バタン、とドアが思い切り開いて、中から、ギターをかかえた若い男が出てきた。
 「えっ?」
 男の後ろからはスーパーの袋をさげた主婦。
 「ええっ?」
 主婦の後ろは鋤をかついだ農夫の男。
 「えええっ?」
 農夫の後ろからは甲冑をガシャガシャいわせた武士……。一人出ると、また一人、続いて一人、もう一人……。いろいろな人種、いろいろな時代の服を着た老若男女が、トイレからぞろぞろぞろぞろ、ぞろぞろぞろぞろ……。
おわり

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