その旅は長く退屈だったので、恒星船には、専属のパフォーマーやバンドや歌手が大勢乗り組んでいた。オーケストラの演奏からサーカス、大道芸、大掛かりなイリュージョンまで、何でも楽しめたが、私の一番のお気に入りは、小さなクラブの専属歌手、長い黒髪の歌姫だった。
彼女は私に何かを思い出させた。それが何なのかはわからなかったけれども。
長い日々の間に、私は彼女とテーブルを共にするほどには親しくなった。彼女は優雅に食べ、知的に話し、優しく微笑した。私はそんな彼女を見ているのが好きだった。客と歌手、それ以上でもそれ以下でもない関係。
旅行参加者にはひとつの特徴があった。彼らは物静かで、争いをしない。あらゆる欲望から開放されていた。もちろん私も彼らの1人だった。その夜までは。
その夜まで、私は幸福な存在だった。そして、その夜までの私は、自分が幸福な存在であることを知らずにいた。
その夜……船長から、明日は港に入港するという放送のあった夜のこと、歌姫が私の部屋を訪ねてきた。
港に入るのは、銀河間の長距離連続跳躍に備えての整備・点検のためだ。30時間、港のドックに係留された後に出港したら、次には別の銀河に向かうのだ。長く退屈な旅の中での最大の楽しみ、跳躍。ただひたすら宇宙を飛び続けることがこの企画の目的で、従って、たまに港に入るほかには立ち寄る惑星もない。スクリーンには変わり映えのしない闇と星が映し出されるだけ。1日の大半を、デッキの椅子に座ってそのスクリーンを眺めて過ごし、時々立っていって食事をしパフォーマンスを楽しみ、歌姫の歌を聞き、夜と定められた時間に部屋で眠る。退屈な退屈な旅程。平和で幸福な時間。
その退屈な日々の中での輝く宝石、黒髪の歌姫が、今、私の部屋の中に立ち、別れを告げている。
港に着いたら恒星船を降りるという。10年の契約が切れたから、と。
更新は? ないの?
しないんです。ちょうど故郷の近くだし、子供たちを残してきたから。
10年もたったら大きくなっているね。
いいえ。受精卵のままなの。帰ってから生むのです。女の子の双子。
そう。すると、私ももう10年くらい船にいるんだろうか?
もっとですわ。わたしが来たときには、もういらっしゃいましたもの。
そんなに長く? 思い出せないよ。君がいなかったころの事なんて。
大丈夫ですわ。わたしがいなくなったら、わたしのことなど、すぐお忘れになるでしょう。
控えめな、普段着の化粧がにこりと微笑んだ。突然、胸か胃が痛んだような気がした。既視感が頭のどこかを横切った。昔、どこかでこんなふうに……。
私もいっしょに……
一緒に恒星船を降りようかな、と、たぶん私は言いたかったのだろう。言葉が左脳ではなく唇で生まれて、そのまま出て行こうとしていたので、私は、自分がしゃべっているという事すら意識していなかった。
その言葉も、彼女が優しくさえぎった。
いけませんわ。
さえぎられた想いには出口がない。
あなたにはあなたの道。わたしにはわたしの道。
冷えた唇が、最後に私の頬に触れた。
ボンボヤージュ、ムシュー。
君も、元気で。
彼女は去った。
私は、ひとりベッドに横たわり、眠ろうと努力しながら、長い長い旅で初めて、自分自身の欲望の事を考えていた。彼女がいなくなり、彼女を欲している自分に気がついたのだ。それは不幸な気分だった。幸福な人々には欲望がない。何かを望んだ時に初めて、彼らは自分の不幸に気付く。それは、自分に欠けているものがあることを知るからだ。自分の中の暗い穴を見つけてしまうからだ。
私は泣く。
穏やかで満ち足りた日々が、すみやかに去っていくのを感じて、私は泣く。
彼女は何処へ帰っていくのだろう。
私は何処へ還ればいいのだろう。
眠りにおちる寸前に、闇の中でランプが灯った、ような気がした。あれは跳躍を知らせる光。今は灯るはずのない光だ。まぶたの向こうで明滅しているのが、その光のわけがない。
睡魔が意識を奪い去り、そのまま、私は眠りについた。
「お目覚めですね、━さん」
まぶしくて、なかなか目を開けられなかった。身体が重い。
「無理しないでください」
白い男と白い壁。男の手でペンライトがちかちかと光っている。カーテンが引かれて、部屋の中は暗くなっているようすだが、まぶしくて仕方がない。
「ようこそ」男が言った。「おかえりなさい、現時間へ。ちょっと長い昏睡でしたね」
「どの…くらい?」
私の声は、喉の奥でごろごろ言うだけだったが、男は何とか聞き取ったようだ。
「ざっと20年。大丈夫、もう還ってきましたからね」
「20…。いったいどうして」
「すこしずつ思い出せますよ。今は口をきかないで」
「お願いだ…教えてくれ」
男はしょうがなさそうに苦笑した。
「あなたは自殺を図ったんだそうですよ。20年前、ある女性に失恋なさってね。皮肉な事に、その女性は、10年前に事故で同じような昏睡状態におちいり……昨日、亡くなられました。さあ、教えたんですから黙って」
ボンボヤージュ。
目を閉じると、歌姫の微笑が浮かんだが、もう二度と、あの深い眠りの中に戻る事はできないと、わかっていた。
おわり