幸福な人生

(さあ、そろそろ行こうか)

夢を見たことがあるだろう、君。そう、寝て見る、あの夢だ。
で、空を飛ぶ夢は? 子供のころには見ただろう? そうだろう。
じゃあ、誰かに追いかけられる夢はどうだ? そうだよ。逃げようとするのに、足がうまく動かないってやつさ。怖い夢だよな。誰でも見るんだ。ほんとうだよ。
それでは、と。落ちる夢、これもあるだろう? あっと思うと、ベッドの上から頭が半分落ちかかっていたり、まくらから滑り落ちていたりしている、あれさ。
うん、そうか。見たことあるんだな。
ここまでくれば話は早いや。
じゃあ、自分の毎日の生活を、夢のようだと思ったことは? 
え? 飛躍してる? 
そんなことはない。これが本題なんだ。
ニューイヤーパーティをやってから今朝までの何ヶ月、いや、生まれてからこれまでの日々が、あっという間に過ぎてしまって信じられないという思いを抱いたことは? 夢のように過ぎていくって表現が浮かんだ事は? 
あるだろう、君。うんと言えよ。そう、それでいい。
認めてしまえば気持ちも楽になるはずだ。
さあ、そろそろ、ちゃんと目を覚ましてくれないかな。そうでないと魂を引き取りにくい。
え? 
忘れたなんて言わないでくれよ。ほら、契約書。
“夢のような人生を要求します。死ぬ時は、魂を差し上げます。”
このサイン、君の字だろ。
まだ思い出さない? 
あの時だよ。君がビルから飛び降りようとした時、オレが現れて……。
思い出しただろう。
そうさ、オレさ。悪魔だよ。
君は、この契約書にサインして、自殺を思いとどまり、別れた彼女とヨリをもどして結婚した。君が、会社の金を使い込んでまで貸してやったのに、卑怯にも逃げちまった友人は、改心して戻ってきた。それから、君はトントン拍子に出世して、子供も大きくなり孫も生まれ、定年退職した年には、愛する妻と世界一周旅行にも行った。その後は悠々自適。
たしかにそうだったろ? 
だけど、残念ながら時間切れだ。今度、飛び降りるときには(今度があったらの話だが)、もうちょっと高いビルにするんだな。そうすれば、98歳の大往生までいきつけるってもんさ。
そうだよ、そのとおり。
自殺を思いとどまったっていうのは夢さ。そのあとも全部。
なにしろ、オレが来た時には、ちいっと遅かったんだ。あんたは、もう飛び出してた。オレは、あんたの上着の裾をつかんで、かろうじてあんたをぶら下げて、思いとどまるように言ったんだ。それで、あんたは契約書にサインした。
ところが、オレは見たとおりの痩せっぽちだ。非力なんだよ。あんたときたらすごく重くてさ。
それで、まあ、手が離れちまったんだな。
だから、オレは、急いであんたの感覚を外界から遮断して(つまりは眠らせて)、夢を見させたのさ。幸福な人生の夢をね。
詐欺? 人聞きが悪いこと言うなよ。
ほら、もうすぐ地面だ。歩道のレンガ模様まで見えてきた。
夢とはいえ、ちゃんと幸せな人生をすごしてきたんだ。満足しただろ? 一瞬だなんて文句言うんじゃないや。実際に生きたって、同じようなもんだよ。
さ、はっきりと目を覚まして覚まして。大丈夫だよ。痛かぁない。即死するだろうから。ほら、地面━。

じゃ、もらっていくから。

END

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