サトコは、いつの頃からか、その窓を怖れていた。
24棟ならぶ公営団地のK棟4階に、サトコが一家で越してきたのは4ヶ月前のことだ。
夫ミチアキは会社員で、昼間はもちろん、夜も遅くまで帰ってこない。息子のアキラは生後10ヶ月。どこかに預けて働きに出るのはまだ早い、とミチアキに言われていたし、サトコ自身もそう思っていた。
入居したのが9月の始めで、冷夏の続きの冷たい秋がすぎ、さらに寒い冬にはいっていた。
アキラは気管支が弱くすぐ咳こむため、冷たい空気には敏感だ。だから、外に連れて出ることもあまりなく、サトコは、団地内に友人も作れずにいた。
その窓は、K棟の南側の、O棟4階にあった。
団地は4棟が6列にならんでいる。東から西へと第1列目がA,B,C,Dと並び、2列目はその南側にまた4棟、3列目4列目と続く。サトコの住むK棟は3列目の3棟目、ほぼ真ん中だ。
各棟は平行して建っているので、当然、窓も向かい合った位置にある。サトコの家、K-404の向かい側はO-404。その窓が、サトコには不気味だった。
部屋の間取りは南側にダイニングキッチンを含む3部屋があるから、ほぼ一日中、サトコは南側にいることになる。北側は6畳の和室と浴室などがあり、日が当たらないから昼間でも寒い。
アキラと一緒にテレビを見たり絵本を開いたりしているときも、アキラが昼寝をしている間に片付け物やらなにやらをしているときも、サトコはその窓から誰かの視線を感じるのだ。そっと見ると、その窓は昼間もカーテンがとじていて、ゆらりとも動かない。誰かの姿を見たこともない。それでもサトコは視線を感じる。サトコは昼間はレースのカーテンを閉じているから、外から家の中が見えることはないとわかっているし、夕方になり、レースに重ねて厚いカーテンを閉じれば、こちらからもその窓は見えなくなる。それでも、サトコは、その厚い遮光性の布地をとおして、誰かの視線が背中にあたるような気がして落ち着かなかった。
「私、外に仕事をさがしてもいいかしら」
めずらしく夕食時に帰宅したミチアキに、サトコは言ってみた。
「働く?」
案の定、ミチアキはうるさそうに、テレビから目も離さず聞き返した。
「もちろん、アキラが1歳になってからのことよ。1歳児から預かってくれる保育園があるから……」
「よせ」
一言のもとに言うと、ミチアキはまたもくもくと箸をはこんだ。
サトコは黙って、汁をまきちらしているアキラのテーブルを拭いた。
「でもね」もう一度、おそるおそる口をひらく。「私、一日中、ここにいるのが嫌なの。いつも誰かに見られているみたいな気がして。ほら、あのO棟の……」少し迷ってからうちあける。「O棟の窓から、いつも誰かが見ているような気がするの」
「ばかか、おまえは」
ミチアキはあきれたように顔を上げた。
サトコは夫の顔を見た。正面から向かい合うのは久しぶりだ。不思議な感覚がサトコに芽生えた。
(この人は誰かしら)
記憶の中で凝り固まっていた"夫の顔"の映像が、どうしても、目の前の顔と一致しない。ぶれてしまう。
その、ぶれた映像が口をひらく。
「そんなヒマ人がいたらお目にかかりたいもんだ。それとも、O棟の男がおまえに惚れているとでも言いたいのか? 結構じゃないか。せいぜい、悩ましいポーズでもしてやるといい」
それきりミチアキは、サトコの顔から目をはなした。食事といっしょにテレビのニュースを飲み込んでしまうと、さっさと1人で寝てしまった。
サトコは、ミチアキの帰宅が遅い日と同じように、1人でアキラを風呂にいれて寝かしつけた。アキラは時々夜泣きをするので、ミチアキはひとりで北側の部屋で寝起きしている。
O棟に面した部屋で、明かりを消して窓に近寄ると、サトコは細くカーテンをあけた。O棟の窓には明かりもなく人影もなかった。
サトコはほっとため息をつくと、アキラの隣で布団にもぐった。
しだいに、サトコは昼間でも南側の部屋のカーテンをあけなくなった。暗い部屋に電灯をつけて、アキラと2人、ひっそりと隠れるようにすごした。が、そうやっていられたのは最初のうちだけで、そのうちに、厚いカーテンを通しても家の中のどこに自分がいるのか、O棟の誰かに見透かされているような気がしてきた。どこにいても、背中がピリピリと痛いのだ。それは視線のあたる痛さに違いなかった。
サトコは、アキラと一緒に、日の当たらない北側の部屋で時を過ごすことにした。そこはジメジメと暗く、カビのにおいがした。
ある日、サトコはふと、窓からG棟を見た。K棟の北側に建つ棟だ。正面に見える窓にはカーテンが引かれていた。昼間は留守なのだろうか。
サトコは、窓際に座ってその窓をみつめた。不思議と気持ちが落ち着いた。入居前に役所で聞いたところでは、住人には比較的若い夫婦が多いということだった。夫婦に子供が1人か2人。
(同じ間取りに同じ家族構成。たぶん似通った収入の同じような生活……)
Aから始まる24棟に、同じような人々が住んでいる。その考えはサトコを安心させた。
ミチアキをうまく説得して、サトコは、アキラと共に北側の部屋で眠るようにした。
夜、明かりを消してからそっと窓の外を覗くと、G棟の窓から、カーテンのすきまを通して明かりがもれて見える。それを見ると、サトコはふっと微笑んだ。
毎日毎晩、サトコはG棟の窓を見続けた。人の家を覗き見している、という罪悪感は多少あった。が、
(でも、昼間も夜もカーテンが閉まっているし、人の姿を見たこともない。私は、別に覗き見しているわけじゃないわ。ただ、窓を見ているだけだもの)そう自分に言い訳した。
もう、O棟の窓を怖がることはなかった。もっとも、サトコが南側の部屋にいくのは、キッチンに立つ時と、どうしても用事がある時だけだったから、サトコは、久しくO棟を見たことさえなかった。
G棟を見始めてから数週間がたった。サトコは、昼寝をしているアキラのそばで、窓辺に座っていた。こっそりとG棟の窓を見ていると、突然、その窓のカーテンがすごい勢いでひらかれた。
おや、と思いながらも、サトコはぼんやりと眺めていたが、窓の中に立ってこちらを凝視している人物の姿を認めると、悲鳴をあげそうになった。心臓の鼓動が頭に響いた。
何かがサトコの中ではじけた。
サトコは立ち上がると、南側の部屋へ飛ぶように向かった。ひきちぎるように窓のカーテンを引きあける。
サトコの頬が凍りついた。
久しく見ることのなかったO棟の窓。その窓に。
G棟の窓から目を見開いてこちらを見ていたのと同じ顔が、うつろにサトコを見ていた。無気力であきらめきった空虚な女の顔。サトコの顔が。
目と目が合った。
O棟のその顔に、次の瞬間、恐怖がはしった。

おわり

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