クマちゃんの毛布

「あたし、やるわ」
断固として、敦子は言った。
「たとえ、どんなに泣きわめこうとやってやるわ」
夫の優介は、ひらいた新聞の上から目だけ出して、敦子を見た。
「決めたのよ」
固い決意のまなざしが、キッとにらんだ。
「だけどねえ…」
優介は情けない声を出した。
「あの子はねえ、ちょっと、むずかしいんじゃないかなァ」
「何言ってるの」
敦子が叫ぶ。
「あの子だって、もう四歳なのよ。いつまでも…」ぶるっと身震い。
「いつまでも、クマちゃんの毛布を抱いて寝るくせを、許しておくわけにはいかないわっ」
かくして、敦子は作戦を開始した。

「さあ、ねんねの時間よ、まなみちゃん」
敦子は、猫なで声でまなみに呼びかけた。
毛布は、押入れの奥にかくしてある。
「くまちゃんのもうふ…」
「さあさあ、ねんねしましょうね。ご本を読んであげるわ」
「…くまちゃんのもうふ」
まなみはベッドを降り、家じゅうを探しまわる。
「くまちゃんのもうふっ」
とうとう、押入れにもぐりこんで、宝物を探し当てた。
あとは、ベッドに一直線。
敦子が手にしていたシンデレラ姫の本をけとばし、毛布を抱いて、ぐっすりと眠り込む。
敦子はため息をついた。
一日目、失敗。

「さあ、ねんねの時間よ、まなみちゃん」
敦子は甘い声でまなみに呼びかけた。
きょうは大丈夫。敦子はほくそえむ。
毛布は、マンションの隣の部屋の田辺さんの奥さんに預けてある。
「くまちゃんのもうふ」
「ご本は何がいいかしら。白雪姫?」
「くまちゃんのも・お・ふっ」
ガラッ。
いきなり、ベランダの窓がひらいた。
「た、田辺さん…?」
隣家の奥さんが、真っ青な顔をして立っている。
「こ、これ」
田辺さんの奥さんは、クマちゃんの毛布をさし出した。
「お、お返しします。なぜだか、急に返したくなって…」
まなみがすっ飛んで行って、毛布を受け取ると、田辺さんの奥さんは、くるりと向きを変えて、ベランダの手すりによじのぼった。
手すりづたいにやってきたらしいが、ここは六階。
「あ、あの、よろしければ玄関から…」
敦子が言いかけた時、彼女の姿は闇に消えた。
あとには、短い悲鳴とクシャッという小さな音。
ベッドでは、まなみがぐっすりと眠っていた。
二日目、失敗。

「さあ、ねんねの時間よ、まなみちゃん」
敦子は震える声でまなみに呼びかけた。
きょうこそ大丈夫。敦子はゴクリと喉をならす。
毛布は、マンション一階の焼却炉で燃やしてしまった。
「くまちゃんのもうふゥ」
「ほら、新しいご本よ。眠り姫。読むわよ」
「くまちゃんのもーふっ」
「まだそんなこと言ってるのっ」急に怒りがこみ上げた。
「もう、ありませんよ、あんなもの。ママが燃やしてしまいましたからね」
まなみは、半べそをかいて、大きく口をあけた。
「く・ま・ち・ゃ・ん・の・も・う・ふ・っ」
ドカーン、と大音響がとどろいて、床や壁がビリビリ震えた。
窓がガラッっとひらいたと思うと、半分焼け焦げたクマちゃんの毛布が飛び込んできた。
「まあっ」
焼け残っていたのだ。
まなみは幸せそうに、焦げた毛布を抱くとぐっすりと眠った。
三日目、失敗。

「さあ、ねんねの時間よ、まなみちゃん」
敦子は硬い声でまなみに呼びかけた。
今日は完璧。敦子は自信を持っていた。
毛布は、はさみで切り刻み、埠頭へ行って海にまいた。
「マンションの焼却炉が爆発して、主婦まきぞえですって。こわいわねえ」
岸壁のわきを通り過ぎる人々の会話が聞こえたが、無視することにした。
もう安心。毛布は、今頃、太平洋の底だ。
「くまちゃんのもうふ」
「強情言ってもだめですよ。白鳥の湖、読んであげますからね」
「くまちゃんのもうふっっ」
「だあぁぁぁめぇぇぇっ」
敦子が叫ぶと、まなみも叫んだ。
「くーまーちゃんの、もうぅぅふぅぅっ」
ズゴゴゴゴゴ……。
地鳴りともとれる不気味な音が、海のほうでおこった。
マンションからは見えなかったが、その時、水平線がぐわっと盛り上がった。と思う間に、それは連なった山脈のように陸に近づき始めた。
埠頭にいた釣り人やカップルたちは、あっというまに波に襲われた。
それから、JRの駅や駅前商店街、学校や市役所が、波にのまれるまで数十秒とかからなかった。
大多数の市民が死に、街は壊滅した。
まなみは、崩れかけたマンションのベッドの中で、塩水に濡れた毛布の細片の寄せ集めを抱いて、ぐっすりと眠った。

「ほらね」
優介が情けない声を出す。
「言ったろ、無理だって」
四日目も、失敗したのだった。
おわり


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