同居している父親の清太郎は、近頃物忘れがひどくなってきたが、その他は、89歳にしては元気だ。1人で散歩もするし、歯も悪くない。耳も年の割によく聞こえるようだ。
が、それでも、輝明は父のことが気になりだしていた。
朝、起きると、部屋の窓やフスマを開け放つのが清太郎の昔からの日課だが、最近、部屋を開けたとたんに、何か臭うのだ。
たずねると、清太郎自身も気付いていた。これがいわゆる年寄り臭かと思っていたという。
体の具合をたずねると、特に悪い所があるようには思わない、と答えた。
答えた先から、清太郎は、だがなあ、と言葉をつないだ。
ちかごろ聞こえないんだよ。
耳が遠くなるのはしかたがないよ、と輝明が言うと、清太郎は首をふった。
耳はよく聞こえる。むしろ前よりもいいぐらいだよ。
じゃあ、何が聞こえないんだい、と輝明がきくと、清太郎は、妙な表情でこう答えた。
心臓の音が聞こえないのさ。
輝明は清太郎を医者に連れて行った。
医者は清太郎の胸に聴診器をあてた。それから、手首をにぎって脈をはかった。そのあと、奥のベッドに清太郎を寝かせて、胸にペタンと吸盤をはり、機械のスイッチを入れた。
それから、あれあれまっすぐだ、とつぶやいた。
まっすぐって何がですか、と輝明がたずねると、医者は、心電図ですよ、心臓が動いていない、フラットラインだ、脈もうっていない、ハハハ、これはまいったな、と笑った。
親父は死んでいるんですか? と輝明は目を見開いた。
うーん。そうねえ、心臓が動いていなければ、血液が送られなくて、脳も内臓も活動できないから、普通は死んでいるんだけどねえ。
医者は困り顔で、清太郎を見た。
清太郎は、胸の吸盤を自分ではずして起き上がっていた。
これこのとおり、お父さんは動いているし喋っているし、こちらのいう事もわかるし、食べたり飲んだり排泄したりもしていますよね? と医者。
はあ、たぶん、前より食は細くなったように思いますが、それでも食べてますね。酒も好きです。排泄は……確認した事はありませんが、たぶん……
輝明が言いよどむと、清太郎は、憤然とした表情で、失礼な! と言った。毎日ちゃんと出ているわい。
医者は、機械のスイッチを切って振り向いた。
つまり、こういう方は、死んでいるとはとても言えません。かといって、心臓が止まっているので、生きているとも言えません。まあ、それ以外はすこぶる元気なようです。問題ないでしょう。では、そういうことで。はい、次の方どうぞ。
何か腑に落ちない気がしたが、輝明は清太郎を連れて帰宅した。
それから、ふと気がついた。
……では、毎朝、親父の部屋から臭うのは死臭なのだろうか? 寝ている間は意識もなくて死に近い状態だから、身体が、自分が死んでいることを思い出すのだろうか? そうか、親父は、最近物忘れが激しかった。それで、自分が死んだことを忘れてしまったんだなあ。
そう思うと気が楽になった。
人間、生きているあいだの楽しい事とイヤな事を比べたら、イヤな事のほうが多いような気がする。では、どちらを覚えていたいかと聞かれれば、もちろん楽しい事のほうに決まっている。だというのに、しつこく記憶に残るのは、楽しい思い出よりもイヤな事辛い事悲しい事ばかりだ。そういった記憶のほうが、印象が強いから記憶に残りやすい。おまけに、何かの拍子に思い出してしまう。思い出すから記憶が強化されて、さらに強く残っていく。まったく、やっかいな事だ。
それなら忘れたほうがマシではないか。そのほうが幸せだ。親父は元気そうだし。なによりも、もう死んでいるのなら、これからは病気の心配をしなくてもいい。ただちょっと……。
輝明は眉間にシワを寄せた。
……毎朝のあの臭いが、だんだんと強烈になっていくような気がするのが、ちょっと問題なのだが……。
おしまい