世界は変貌する

 ある日、世界が変わり始めた。何の前触れもなかったが、僕はあわてたりはしなかった。多少、戸惑いはしたが。
 その変化は連続的で無秩序だった。
「それは、つまり……」
 僕がそのことを打ち明けると、朝倉由佳はきどってポーズをとりながら言った。
「あくまで主体の変化であって、対象の変化ではない、ということね。客観的な事実ではないのよ」
 くるり。
 古風なおさげ髪をはねあげて、朝倉由佳はターンした。
 セーラー服のひだスカートが花開いた。それは見事な大輪の菊になった。
「客観的な事実など存在しないのよ。わかるでしょ? 人によって記述される時、対象は三重に歪められるの。まず観察者の目によって、それから彼の言葉によって、そして、その言葉を聞く人の耳によって、ね」
 おさげ髪がほどけた。パラリと肩に落ちたそれは、うねうねと八方に伸びてミミズになった。
「だから、誰も対象をありのままに記述する事はできないし、見ることすらできないのよ。従って……」
 ミミズは朝倉由佳の頭部からちぎれて地面に落ちた。それはあとからあとから生まれてくる。朝倉由佳は、うるさそうに、ほほにかかるミミズをはねのけた。
「従って、誰かにとって世界が変わって見えるようになったってことは、世界が変わったのでもなんでもないの。その人間が変わったって事なのよ。ね? 対象に対する主体の心理の変化。純粋に心理的な問題なのよ。世界は、常に、ただ在るだけ、よ」
 日暮れ時の公園は人の姿が多かった。僕の視界のあちこちを、人の形の黒い塊が歩いたり走ったりしている。
 人馴れした鳩が足元に舞い降りた。極彩色の、極楽鳥みたいな鳩だ。
 朝倉由佳はしゃべり続けていた。
「だいたいね、同じものを同時に見ても、人によって印象はまちまちなのよね。それって、なぜだと思う? 街なかでひったくりが起きたとしてよ、目撃者は大勢いるのに、みんな証言が違うのよ。ある人は犯人は中年の男だと言い、ある人は若い学生だと言う。ある人は背の高い男だったと言うかと思うと、別の人はずんぐりした男だったと言ったりするの。それはなぜかと言えば、みんな自分の主観を通して見ているからなのよ。たとえばね」
 池の噴水から、紙くずが飛び出してきた。
 シュレッダーにかけられたテスト用紙だ、と僕は思った。噴き上がる紙くずが落ちていくところは、すでに池ではなく、ウナギが泳ぐ大鍋だった。僕は身震いした。ウナギが大嫌いなのだ。
「たとえば、ユング。彼は、一人の患者に対するフロイトとアドラーの見解が違っているのはなぜかというところから、人間のタイプというのを考え出したの。でもそれは、ただ単に、ユングがそう考えがちな人間だったっていうこを示すだけの事なんじゃないかしら。事象はひとつなのに、人の見方がたくさんあるってわけじゃないのよ。一つの事象なんてないの。何もないの。何もないところになら、思い通りの絵が描ける。人は誰でもそうやって世界を見ているのよ」
 言いながら、朝倉由佳はどんどん変わっていった。ホラー映画もまっさおだ。
 眼球がずり落ちて、ブランコのように風に揺れた。毛穴という毛穴から、にょろにょろした細い虫が這い出てくる。それらは外に出ると急に大きくなって、ぽとぽとと地面に落ちた。開いた口の奥からは、赤い舌が、その二股の先っぽをチロチロと覗かせている。さっきミミズになった髪は全部抜け落ちて、つるつるの頭から鹿のツノがにょきにょきと生えてきている。
 僕は、そんな朝倉由佳を飽きもせずに眺めていた(実際、いくら見ても飽きなかった)。
 注視しすぎたためか、そのうち、朝倉由佳の姿はぼやけて、かえって見えにくくなってしまった。
 ぼやけた朝倉由佳の向こうで、極楽鳥みたいな鳩が、内臓をぶら下げた犬に吠えられて飛び上がり、その瞬間に脱皮した。極彩色の抜け殻が地面に残ったが、それも、数秒の地には自力で空へ舞い上がった。抜け殻なのに。
 僕には飲酒癖はない。マジメな中学生だ。だから、アルコール中毒の症状を起こしているわけではない。もちろん薬物もやっていないし、過去にやったこともない。フラッシュバック現象でもないことは確かだ。
 だいいち、僕は、ぞろぞろと目の前を歩いていく虫たちが何であるのかを知っている。彼らは、隊列をなして帰宅途中の幼稚園児たちだ。みなおそろいの帽子に園服を着て、ショルダーバッグをさげている。先頭を行く巨大なガチョウは先生だろう。
 僕の意識ははっきりしている。震顫せん妄でも幻覚でもない。変わり続ける世界を気味悪いとも思っていない。だとすれば、これは、朝倉由佳の言うとおり、純粋に精神的な変化の産物なのかもしれない。
「科学にだって限界はあるわ。不確定性原理。誰も、自然をありのままに見ることはできないのよ。だから、世界がいくら変わって見えても悩む事なんか何にもないわ。誰が世界の真実の姿を知っているものですか。自分が何なのかだって知っちゃいないのよ。ワタシが朝倉由佳なのは、みんながソレを前提にして、そうである事を期待して行動してくれるからであって、もしも、みんながワタシをクレオパトラと呼んで、その名にふさわしく扱い続ければ、ワタシはクレオパトラになるでしょうよ。そんなものよ」
 僕の目の焦点が、朝倉由佳にぴったりと合った。
 僕が見損なっているうちに、彼女はさらに変わっている。
 ブランコの目玉は落ちてなくなり、眼窩には、目のかわりにまつぼっくりがはまっていた。
 そのまつぼっくりが、僕にウインクをした。
「まあ、思春期にはありがちなことよ。子供から大人の中間段階に入ったって事なのよ。価値観を固定してしまっている大人には、世界の変貌なんて言ってもわかりゃしないし、目の前のお菓子のことしか考えられない子供にだってわかりゃしないわ。子供には世界なんてないんだもの。彼らにあるのは、“今”と”ここ”だけ。明日も昨日もお呼びじゃないのよ。ワタシたちは、大人でもないし子供でもないってことね。でも、ちっとも気にする事ないわ。近頃じゃ大人にならない人間が増えているんだもの。そのうちに、世界がくるくる変わって見える人間がいっぱいになるはず。そうすれば、それが正常ってことになるのよ。人間なんて、所詮、相対的なものなんだから、あら、いやだ」
 朝倉由佳は、そう言うと、手のひらで口をおさえた。手を離した瞬間、口からウサギが飛び出して植え込みに消えた。
 そのマジシャンの手を振って、指の間から花吹雪を散らしながら、朝倉由佳は笑って言った。
「あらいやだ、ワタシ、あなたの顔が、今度はモアイに見えてきちゃった」
 さっきまでは何に見えていたのか……僕は聞くのをやめにした。

                                  おわり

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