忘れ物

家を買って引越したのは良いのだが、田口良子(43歳、主婦)は、何か落ち着かない気分だった。
団地暮らしが長くなりすぎて一戸建てに慣れないのかもしれない、と良子は思った。なにしろ、結婚した時から住んでいたのだ。もう20年になる。独身の時にも1,2回引越をしたので、団地での生活が、これまでの人生で一番長いということになる。
だから、引越して2ヶ月たった今でも、南A棟403号室に、何か忘れ物でもしてきたような気がしているのだろう。
それとも、ほんとうに忘れ物をしてきているのだろうか? いや、それはありえない。
管理者と一緒に立ち会って、明け渡しをしてきたのだ。壁の落書き跡や床のキズについて何か言われるかと心配したが何も言われなかった。20年も住んで、子供も育ててくれば、多少のキズや汚れはしかたがないと思うが、それでもホッとした。
とにかく、団地の部屋はすっかり空っぽにしてきた。画びょうの一つも残して来なかったはずだ。
それでも、良子は何か落ち着かなかない気分だった。

ある日、街で、懐かしい顔に会った。
団地で、良子の下の階に住んでいた山谷敦子だ。挨拶すると、敦子はやっと良子に気付いたようだったが、
「なんだか妙なのよね」
と、独り言のように喋り始めた。
「田口さんのとこが越していって、上の部屋は誰もいないはずなのに、時々、人がいるような気配がするの。足音とか戸を開けたてする音とか……。別の部屋の音かしらとも思ったんだけど、そうでもないみたいで。まだ次の人は入居していないし、おかしいなと思ってね、建具屋さんがフスマを入れに来た時に理由をこじつけて部屋に入れてもらったのよ」
敦子はちょっと肩をすくめた。
「結局、誰もいなかったんだけどね。そりゃいるわけないわよね。わかっているんだけど……でも、今でもやっぱり、時々気配を感じちゃうのよね。誰かが住み着いてるとは思わないんだけど……」
敦子は首をかしげながら去っていった。
ああ、そうか、と良子は思った。
やっぱり忘れ物をしてきていたのだ。
最近、何か妙だとは思っていた。さっきも、敦子と立ち話をしていて、どこか変な感じがしたのだが、それが何なのかがわからなかった。
今ようやくわかった。
晴れた戸外で二人並んで立っているというのに、敦子に比べて薄かったのだ、良子の影が。
あまりに長いこと住んでいたので、影が、あの部屋に居ついてしまったのだ。
影は、今でも、あそこで、これまでどおりの生活をしているに違いない。
なんとかして団地の部屋に戻り、影を連れてこなくては。これでは、“影が薄い”存在になってしまうではないか……。

そんなバカなことがと思っている、そこのあなた、近頃、ファミレスで注文を忘れられたりしませんか? スーパーのレジで後ろの主婦が、あなたを無視してカウンターにカゴを乗せてきませんか? 知人に挨拶したのに知らん顔をされたり、真正面に立ってからようやく気付いてもらえたなんて事はありませんか?
影を忘れてきているかもしれませんよ。
オワリ

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