島 の 話                 村上 誠

 南の島を巡っていた。mutwoと呼ばれる場所を見るためである。mutwoはどこにでもあった。集落を見下ろすところや奥まったところ、人家のすぐ横にさえあった。少し大きな木があってこんもりしているので、歩いていればすぐにわかる。入り口には白い珊瑚の砂が敷いてある。本土の神社のような社が建っているところもあるが、多くは香炉が置いてあるだけで、他には何もない。4回目の旅で、初めてある小さな島に渡った。下調べをしている時に、その地域を研究している知人にいろいろ聞こうとしたが、彼はこの島のこととなると急に口が重たくなった。
 島へは日に5本小さな連絡船が出ていた。その日は快晴だったが、私たち以外に観光の客はいなくて、あとは島人らしいお客が一人だけ乗船した。切符を買う時から船を降りるまで、一言の会話もなかった。島を歩くと老人にしか出会わなかったが、歓迎されていないのは、その視線の厳しさですぐにわかった。島は緩やかなピラミッド状で中央は標高70メートルほどの小山になっている。最近、その頂に展望台ができたと聞いていた。展望台だから観光用かと思い、わずかな集落の間の狭い道を登っていったが、島での禁忌を書き記したものがいくつも目に入った。特にmutwoへの立ち入りや撮影は「絶対にだめ」だとある。展望台にあがると島の全体を見渡すことができた。次の船が来るまでには簡単に一周できるほど小さな島だったが、今来た道以外のところには行く気にはなれなかった。しばらく海岸で休んだ後、次の船に乗って本島にもどった。そしてその夜、宿で不思議なことが起こった。

 1985年頃だったと思うが、美術雑誌に掲載されていた『山境横断』と題された一枚の写真を切り取り、部屋に飾って毎日眺めていた。自然と人間の営為が静かにせめぎあっているような風景に、深く魅せられてしまい、他人の名前をちっとも覚えない私がこの写真家の名前だけは、しっかり記憶してしまった。その頃、サラリーマンをしながら、こそこそ隠れるようにして絵を描いていた。それがひょんなことから静岡市での美術展を紹介されて参加することになった。その時の会合で、偶然その写真家、長船恒利と出会った。論理的な話し方をする彼を見て、まるで学校の「せんせい」のようだ、と思ったら、本当に学校の先生だった(そのようなことはどうでもいいが)。
    
 もう長船さんは覚えていないと思うが、ずっと以前になぜ写真を撮るのかとたずねたことがある。10数年前のことだ。彼は、「霊的な場所を探しているんだよ、そのような場所にいつか出会えるかもしれない、とね‥‥」その言葉はずっと私の中にひっかかったまま、消えることはなかった。 その後、天地耕作amatuchi-kousakuというプロジェクトを始めてからも長船さんは、いつも私たちの近くにいた。会うたびに<霊的な場>についての話の続きを聞きたいと思ったが、何事も論理的に語る彼を見ていると、ついその話だけは切り出せないままになってしまった。
                     
 私は写真を撮る方の人間なのだが、彼が来るといつも先に撮られてしまう。そして彼に撮られると、写真と初めて出会った人間のように、mabui(魂)までとられたような気になってしまい、なぜか投げやりな気持ちになってしまった。だから彼が来るのはあまり嬉しく感じなかった。「せんせい」に悪戯を見つかって、叱られるのではないかと怯える生徒の心境になってしまったようだ。天地耕作の活動を続けながら、<霊的な場>のことを考え続けていた。しかしできあがった現場に彼が来て写真を撮ると、あったのかどうかわからないほどわずかな霊性は、彼がきれいに払拭していってしまった。本当に困った人だ。だから天地耕作に本当のmabuiは入らなかった、と今さらながら愚痴を言いたくなる。

 結局、南の島の安宿では一睡もできなかった。そして陽が昇るのを待って、あの島で撮ったフィルムをカメラから抜き出し、すべてをtyida(太陽)にかざした。本当は<霊的な場>が、写っていたかもしれないのに。
                       
           (美術家/浜松学院大学短期大学部助教授)



機関士と車掌(バルデョフ)

村上誠  <霊的な場>

長船恒利 略歴

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