ヤロミール・フンケにさそわれて
                      長船 恒利

 スロヴァキアの北部、タトラ山中にあるポプラド湖へ行く。タトラ山地はポーランドとの国境にまたがり、東へカルパチア山脈、それから南にトランシルバニア山脈へと連なり、やがてバルカンの山脈をへてアドリア海に没する、中欧を半円形に囲む標高2,500メートル級山塊の北端を構成している。
 8月、麓の街ポプラド(人口53,000人)から最新車両の山岳鉄道に乗り、30という勾配をへて1時間少々でポプラド湖への登山口である駅に降りる。ここから4キロほどなだらかな道を歩く。途中、「象徴的な墓地」という、木製の飾り付き十字墓碑が立ち並び、このタトラ山中で召されたであろう人の氏名と年月が記されたブロンズ板が、あちこちの岩に取り付いている墓地をめぐる。ポーランド語の墓誌もある。やがてポプラド湖(標高1,494m)に着く。
 急峻な岩山に周りを囲まれた、その天空に空の青みと、国境の山々からの天水にけずられた谷底に、直径300m位の湖がある。対岸に山荘が2軒静謐なたたずまいを見せている。湖水は深く青い、湖底から地下水が湧き出ているのが見え冷たい。ハヤくらいの大きさの魚が右往左往している。ここからの水流は一度は南に流れるも、ポプラド川となって北に反転し、ポーランドへ、ヴィスワ川となってバルト海へたどり着く。つまり、この地帯はドナウ・黒海水系との分水嶺であり、自然も人も文化もマージナルであり、境界は同時に共有であり変容でもある。スロヴァキアの川は南に向かって流れるものと思っていたのに、北へ流れる川を見たときの感懐は大きい。

 そこからどうしようかと、東西・北面の山頂へ連なる岩壁と左右2つの谷道があるが、あいにく岩山を登る準備はしてこなかった。足元は柔らかい運動靴のいでたちである。南の斜面を見ると、傾斜はかなり急で40度位あろうか、コル(鞍部)まで高さ400mほどのジグザグ道に200人位がはりついているのが小さく見える。とても空気が澄んでいる。
 登ることにする。登るにしたがって藍色にポプラド湖が小さく見えてくる。風がそうするのか湖面に龍神が渦を巻いているのが見える。急斜面でも、ここの道は石とわずかの土で踏み固められていて、歩行にそれほど心配はない。花が咲いている。ヤナギランの赤紫、ホタルブクロの青紫、キク科の黄色い花、そしてトリカブトの深い紫、根のアルカロイドを薬草・毒としてどのような風習と呪術のもとで使ってきたのだろうか知りたいものである。コケモモの小さな赤い実もある。じきにハイマツ帯になり、草だけとなる。森林限界は1,700m位であろうか。あとはもう花崗岩の石だらけとなり、行き交う人は多い。子供から中高年まで、特に10代20代と思われる若い人が多い。ここはハイキング的なコースなのだろう、にぎわっている。みな挨拶を交わす。ポーランド語が返ってきたり、日本語で「こんにちは」と言う人もいる。ただタトラでは1人も東洋人には会わなかった。

 写真を撮りながら1時間半かかって、オストルフ下のコルに着く。標高は1,900m、南面に180度の展望があり、左に遠くポプラドの街、右下近く森の中にシュトルバ湖が見える。ジャンプ台のやぐら、冬はスキー場になるであaうそのスキーリフトの並び、ホテルやリゾート施設が湖の周りに点在している。今日の目的には、眼下にポプラド、シュトルバ湖、その南のヴァジェツの町を一望にし、位置関係を確かめたかったからでもある。
 シュトルバ湖のホテル・施設は1920 - 30年代にかけて、当時のチェコスロヴァキア機能主義建築の建設地として知られ、ヴァジェツはスロヴァキア民俗村としてカロル・プリツカ(1894 - 1987)の写真と、1931年ヴァジェツ大火後の住宅復興建設に関するヤロミール・フンケの写真ドキュメントを、私はつい先日マルチンの国立図書館で調べていたからである。

 ヤロミール・フンケ(1896 - 1945)は20世紀前半に生きた、チェコの写真家である。1920年代新生チェコスロヴァキアの陽気な共和国を表象する「新しい文化」の時代、プラハでヤロミール・フンケは光と影の抽象的構成の写真活動で知られていく。1930年代ヤロミール・フンケはスロヴァキアで仕事をし写真を撮る。光と影のモダニズムから、タトラの町と人、山の事物へと、向かう視線は変わっていく。更に当時のチェコスロヴァキアの東端、カルパチア地方(現在のウクライナ西南端)へと彼は足を運ぶ。私は気になる。彼をタトラへとそしてカルパチアへと連れて行く霊力は何なんだろうかと。その後チェコとスロヴァキアの分離、ドイツによるチェコ占領(1939, 保護領)、彼の死(1945)によって、その問は浮遊したままである。

 コルからもう少し登ることにする。東に縦走路があるが、すこし北向きのなだらかな尾根の先にある小さなピークをめざす。タトラ山中の主要な登山道標識は整備されていて、地図に示すルートごとに色を区別し、岩に青、赤、緑、黄のペンキで2本線、ほぼ50mおきに描かれている。でもこの尾根にマークはないので尾根を外れないように、花崗岩の岩場尾根を運動靴で慎重に登る。1時間でこんもりとした山頂に着く。チュパー山(2,284m)という。「とがっていない」という意味であろうか。このあたりではちっぽけな山である。でも展望は良い。北面にポーランドとの国境の峰が並び、谷間に小さな池が青く見える。こんな岩だらけの山頂にも、黄色い地衣類が岩にこびりつき、岩の隙間に草がわずか見える。小さな甲虫が1匹うろうろしている。精霊たち、気温10度。

 後日、ポプラドのタトラ博物館へ行く。動物剥製と考古学資料を見る。オオヤマネコはいつ見ても楽しい。大きなものは体長90cm位、耳をピンと張って、その先端に毛を立てている。ヒョウのような斑点模様があり、何かひょうきんな顔つきである。
 ドナウ以北(中欧・北欧・東欧)では考古学資料に、地中海地域とは異なるもののかたちを見ることが出来る。青銅器や鉄器の渦巻き模様をしたオブジェ、からみつく動物文様、奇怪な怪獣や龍、組紐文様、ケルトの銀器、動物も植物も人も変身し変形し入れ替わっていく、そのかたちが作る空間はたえず動いている。かたちだけではなくその物質もグロテスクと言おうかおかしさと言おうか、常に変容し動いていく。

 デューラーの線、イッテンの色と光、ボイスのフェルトと犬、カフカの身体変容、スラヴ未来派のアニミズム、ルーン文字、チェコ・アクションアートの身体、百年前のヴォリンガー、そしてヤロミール・フンケにさそわれて私はユーラシアの極西と極東を彷徨し、共感するものを写し撮る。そのとき物質は光を放ち始める。

 私は死者であり、死者をよびよせる、そして死者は語りだす。