身体とアート
長船恒利
身体と身体論についての言説は古来、身体を宇宙と見立てたものをはじめ、多くのものがある。そして近代以降、人間機械論と心身二元論、そして分析の対象となり部分となる身体と精神(分析をする目は身体の外側に設定して)を見る還元的なまなざしは、生理学や精神分析でも心理学や脳科学でも、科学的な超越的な装いを凝らし皮膚を浸潤する。しかし今ここでは俯瞰的な、総論的な身体と身体論について言おうとしているのではなく、「身体」と「アート」がなぜ今、関連して語られるのかについて、いくぶんかの考察をしたい。
20世紀のアート(日常的な理解の共通認識のしきい値を超える出会いやものと、とりあえずしておく)は、語源からして「人工物」「技術」であるからか、「未来派」をはじめ、科学やテクノの言説、その時々の新思潮を拝借し、あるいは奇矯な言葉とその宣言によって裏づけと正当化をはかってきたことは否めない。それはあたかもその言説を証明するかのごとくアリバイ(作品)を作る仕掛けとも言える。言葉で表すならばそれは線状となり、時間は一方向に進んでいく発展史観で「・・・イズム」という、表層(言説による装飾)を取り替えることによって新商品の消費を生み出すことが出来るようなものでもある。それが「モデルニィ」と言われてきたものであったろう。あるいは「環境」や「身体」の形容をつけることで、安直に「環境アート」や「身体アート」になるのかもしれない。もっとも、どのような表現行為でも身体を経由する。現場性(リアルタイム)で身体そのものを提示する、ダンスや演劇、音楽演奏は「身体アート」であるし、造形表現でも身体を使って切ったり張ったり書いたりするし、また身体の絵を描くと「身体アート」である。と言ったところで、なにかを指し示すことにはならない。
20世紀のアートは、「新しいかたちを作る」「かたちを決めて援用する」が「モデルニィ」の核となっている。それによって形式と構文こそが主要であり、主観からの離脱をはかることが出来たかのように見える。暗い客席と対照的に光あふれる舞台、ホワイトキューブの室内にふさわしい「作品」の自立、関係とノイズからの切断。しかし今、「感情」からのしっぺ返しを受けているように思われる。
うす暗い黄色い光が見える。周りはぼんやりと暗くよく見えない、そのあたりに紐のように曲がった物体があるように思われる。ジーンとした通奏音が聞こえる。弱い呼吸、動悸がする。手の指で自分のおなかの辺りを触ってみると、何かつるつるしたものが貼ってあるような感じがする、おなかは指が触っていることが分からない。光景は途切れる。(筆者の記憶より) |
身体の感覚は皮膚の内側で、身体としての世界に帰属し、そのままでは他者と共有し得ない。感覚の最終的な根拠は「超越論的な主観性」に求めざるを得ず、なんら証明する手立てはない。だからこそ、この「盲点」は反転し、触れる手と触れられる手とのあいだで起こる「反転の経験」を渇望する。この反転こそ身体の内側性と他者とをつなぐ秘密といえる。動植物の「性」にまつわるアナロジーとして見たとしても、身体は他者を必要としている。
20世紀は「視ることの優位」であったといえる。しかし身体はもろもろの感覚を同時に作用させて「情報処理」をしているし、視ることであっても、言葉に似せて線状に視ているわけではなく、複数のものの関係を相対的に視ているものである。例えば「色」を知覚することを想定してみればよい。身体の種々の感覚を生かせ。
20世紀後半、「視ることと言葉の優位」の破綻に気がついてきたのは音楽の分野である。「ほどほどに調整された」を「平均律」と誤訳し、音列を楽譜上で見えるように構成した「現代音楽」十二音技法は響かない。今、もの(楽器)と身体との振動、膨らんでいく共鳴(倍音)、振動のゆれ(ゆらぎ)を回復しようと、円環的に舞い戻る。音律や微分音、個別的なものから発する音と、個人の身体感覚基準をもとに、起承転結を規定しない、間の取り方やお互いの見計らいで進行する音楽を。そして、それに応じた訓練・規律・技能を必要とする。
ダンスでは現在、バレーの系譜ともいえる「身体運動のアクロバット」と、無言劇の系譜に近い「感情の演劇」ともいえるものに大別できるが、「身体アート」には両方の要素が含まれていると思ったほうが良い。
造形表現は、直接的には「身体アート」と言えなくても、プロセスの中に複数の感覚や空間、他者やものとの関係を、個の身体感覚を手がかりにして。アートは予感であり、仮説である。明証性の保護を求めてはならない。
(おさふね つねとし:映像論、静岡理工科大学非常勤講師)
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