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オブジェクトからポスト・ユートピアへ 長船恒利
寺田篤正最初の写真展(1974)は「日本放浪」と題するものであった。20代前半を北海道から沖縄まで、辺境と言うか片すみと言うか、希求する何かを探す旅とも思われる。この写真展を浜松市美術館で個展として、そのときの技能と徒手で作り上げていくスタイルは、その後の彼の原型ともいえる。 寺田篤正の主要な作品群は1990年代までに4つある。手がけ始めた順に、「図鑑1976-1987」「田原1978-1991「地方都市1983-1987」「東京モニュメント」で、いずれも東京銀座ニコンサロンで4回の個展としてまとめられたものである。 「図鑑」は、6×6判レフレックス・カメラを白黒で、一人あるいは複数の人物を、正面からストロボ光でさらし、物体(オブジェクト)として感情表出の少ない顔の表情に気を配って、市井の人々を撮影したものである。撮影スタイルをあらかじめ決め、定型にのっとって作品群を作っていくのは、この「図鑑」から始まる。もっともこのスタイルは、当時注目を集めていたダイアン・アーバスの手法でもある。やがて彼はダイアン・アーバスの呪縛(編集者が意味ありげなコピーライトを添えて、覗き見る向こう岸の被写体を解釈する快楽を提供する、カウンター・カルチャーの商品化)から逃れるように、肖像と風景や距離感の異なる人物群の、2枚の写真を併置して、意味作用を宙づりにする展示方法を考案する。その頃、彼の試行錯誤を保障する発表の場として、1970年代は東京の自主運営写真ギャラリー「PUT」、80年代は静岡の写真ギャラリ−を兼ねたジャズ喫茶「JuJu」、90年代は静岡県立美術館で自主企画の「フォトセッション展」などがあった。 「田原」はカラーで、渥美半島田原の小さな町とその周辺の農村を、日本の「まち」の原風景としてとらえると作者は言う。神社・学校・墓地・畑・小屋・人間・動物・道・植物・商店・工場を、茶色の土に覆われた地面を下半分に取り入れ、画面中央に対象物が書き割りのように、いわば舞台風景としてある。泥の上で横たわる茶色まみれの雌豚、青緑のタイルに囲まれた銭湯の丸い浴槽、カラー写真でかもし出された中間調の霞がかった色調、彼の生業はカラーラボ技術者であったから、微妙な色使いを写真プリントで出すことにたけていた。この「田原」は1978年と、しばらく間を置いて1990年頃に撮影されたもので構成された。 「地方都市」は、1980年代日本の繁栄を造ってきた産業都市浜松を、新しい風景模倣の風景としてピックアップする。工事中や出来上がったばかりの新しい建築物とそのインテリア、ファーストフード店内や薄暮の街を蛍光灯光源下で撮影し微妙に色補正したカラープリント、「田原」の頃から使い始めた4×5判ビューカメラで、四角い画面の中で完結するオブジェクト、彼の画面構成が特徴的に現れてくる。パースペクティヴ(遠近感)と視点のゆらぎが無いことで、典型としてのオブジェクトがとらえられる。 「東京モニュメント」は、人工と混沌の都市東京、その駅・バス・地下道・橋・電車・ビルの柱・ネオン・看板・デパート等々を、日常の記念碑としてとらえる。1980年代末の撮影である。 色、「知覚される色」は固有の絶対値を持たない。光としての色は波長という絶対値で表すことが出来るが、見えない。物質からの反射光は単独の固有点を持たず、周りの色との相対的な関係の中で、いかようにも人は色を知覚する。人はそのことをいにしえから知っていた。色はうつろいゆくものである。 1990年代の写真作品「日本測量」「新しい都(まち)」を見ると、何かが瓦解していくであろう予感がする。それは「色」のことかも知れないし、実現されたユートピアはどこにも同じものしかない全体主義社会のことかも知れないし、画面の外側へ連なっていかないオブジェクトへの水平視線のことかも知れない。それでも蝋人形のように写された若い人のポートレートを見ると、彼が希求してきたのは「人の絆」なのではないだろうかと私には思える。新しいことと「量」の持つ力を謳歌する大量消費(大量生産)の広告プロパガンダは、実現されたユートピアの言説と反粒子のようないわゆる「原理主義」を相補的に生み出す。それは共に依存する一体のものであり、どちらかを分離摘出することはできない、モダニズムのなれのはてである。 「光の庭」は、ここ数年撮りためてきたものである。カラーリバーサルで透視ファインダーの中型カメラを使用し、身延山・静波海岸・郡上八幡・京都・奈良・厳島神社等で撮影をしてきたと作者は言う。カラーリバーサル・フィルムは撮影のときに色はほぼ決まる。写された色を引き受けてそれで良いのではないかと、透視ファインダーと足腰のフットワークで視線が揺れ動くのもそれで良いのではないかと。 (おさふねつねとし:映像論、静岡理工科大学非常勤講師) |