市 長 コ メ ン ト

 「伊東は小生の生まれた所で、もし大地に乳房といふものがあるとしたら、小生に取ってはまさにそれです」と郷土の生んだ詩人木下杢太郎によって表されたように、伊東は、恵まれた自然と先人のたゆまぬ努力とによって発展してきました。わたくしたち伊東市民は、この自然と伝統の上に築かれた国際観光温泉文化都市の市民として、限りない愛着と誇りをもって、より美しく、豊かで、住みよいまちにするために、市民の守るべき基本的なこととして5つからなる市民憲章を定めてきました。

先に行われた「平成16年伊東市成人式」では、一部の心得違いの新成人の愚かな行為によって、わたしたち伊東市民が市民憲章にそって目指してきた「住みたい 訪れたい 自然豊かな安らぎのまち 伊東」への願いや努力は、無残にも踏みにじられてしまいました。伊東市を代表する市長としてあまりにも幼稚で誤った若者たちの言動に対して激しい憤りを感ずるとともに極めて遺憾であり、強く反省を求めるものであります。また、主催者として、新成人の皆様に深くお詫びするとともに、多大なる御迷惑、御心労をおかけしました市民及び全国の皆様方にも心からお詫び申し上げます。

 今回の新成人の愚行について、多くの皆様から手紙、電話、メールなどで率直な御意見をお寄せいただき心から感謝しております。「甘やかすな。簡単に許すな。市民として恥。伊東出身者として恥ずかしい。詫びてすむ問題ではない」など怒りを込めた御意見がほとんどでした。その一方で、「同じ成人として情けない、大人になれない子どもであり、ある意味でかわいそう。家庭教育の問題だ」とする御意見や「市の対応に不備がある。税金の無駄遣い。成人式はやめろ」などの御意見もありました。市の告訴も辞さない姿勢には、全体の約98%が賛成で、「市長は毅然とした態度をとれ。市長がんばれ」とする御意見をいただきました。

 市としては、「責任をとる意味」を次のように捉えております。すなわち、責任には、「法的責任」と「人間としての責任」があり、「法的責任」とは謝ってすまされる問題ではなく何人も法律に照らして適切に判断されるべきものであり、「人間としての責任」とは、人間としての反省、謝罪、実践行動を通して信用回復する過程である、と捉えております。特に、「法的責任」をとるための姿勢(厳しさ)及び、「人間としての責任」をとるために自らがよりよくなろうとする過程を信頼して支援する姿勢(温かさ)を示すことこそが教育的配慮として大切だと考えております。

式の数日後に訪れた新成人の謝罪については、「人間としての責任」をとることの出発点として大変意義あるものですが、信用を回復するまでには至っておりません。親も同席するよう求めたのに対して新成人は、「成人になったのだから謝罪は自分の責任でやりたい。親との断絶があるからできない」と述べましたが、「例え成人になったとしても、君たちの行動は成人としての自覚が見られない。親として今回のことをどう受け止め、今後どうしていくつもりなのか伺ってみたいから」として強く再考を促しました。

この社会の特質は、価値尺度が「善か悪か」「正か邪か」から「損か得か」「楽か辛いか」に移行したと言われております。また、「社会の構成員に権利意識はあるが義務の意識がない社会」であり、「誰もがやりたい放題にやる社会」になったと、表現する人もおります。「ほんとうの民主主義は、『自由』『平等』『博愛』の三つの理念だけで成り立つものではなく、『自由には責任』『平等には区別』『博愛には厳罰』という概念が伴ってこそ、ほんとうの民主主義社会ができる」と、西田幾多郎博士は喝破しております。わたくしは、自由には責任が伴うことの自覚を新成人に強く促すものであります。

 以上の経緯、判断から、市としては「前途有為な伊東市の若者たちが、再び過ちを繰り返さず人間として立ち直り、次代の伊東を担う人材になってくれることを心から期待し断腸のおもいで告訴する」ことといたしました。罪状、人物特定など詳しい内容につきましては、今後、市の顧問弁護士とも十分相談しながら検討してまいる所存であります。

問題解決の第一歩は、まず自分との関連で考えることが肝要だと思っております。このたびの出来事を詳細に把握しながら、行政・教育関係者はもとより市民をあげて今後の成人式の在り方について問い直しをしてまいりたいと存じます。

 多くの皆様から温かくまた厳しく励ましや叱責をいただきましたことに心から感謝するとともに、これからも今まで以上に、伊東市への御理解、御支援をよろしくお願い申し上げます。 

        平成16119日  

                              静岡県伊東市長     鈴 木 藤一郎