三浦按針の足跡


松川河口にある、左からウイリアム・アダムス像、三浦按針記念碑、エドモンド・ブライデン碑
ウイリアム・アダムスの略歴

 英国人ウイリアム・アダムスは、ロンドン郊外のケント州メドウェイ市(旧ジリンガム市)で1564年9月24日に生ま
れた。12歳で父親を亡くし、ロンドン近郊のライムハウス(現在はロンドン市内)で造船所を営むデッギンス親方の
徒弟として12年間働き、ここで造船・天文学・航海術を勉強した。

1588年スペイン無敵艦隊が英国本土を襲撃しようとしたとき、アダムスはドレイク提督が率いる艦隊の食糧・弾薬輸
送艦の艦長に就任した。戦いが終わり海軍を退役し、ロンドンの女性マリーヒンと結婚し男女の子を持った。やがて
バーバリ貿易会社に就職し、水先案内人の仕事に従事し、2か年程北極探検にも参加した。

 1598年オランダに赴き、5隻の東洋遠征船隊の主任航海長に選ばれ、旗艦ホープ号に乗り同年6月24日西
フリージヤ諸島のテセル島を出港した。途中船体が分散しリーフデ号に乗り換え、地獄のような苦しい航海を続けた。

 セント・マリヤ島でホープ号と出会い一緒に日本に向け航海したが、ホープ号は途中台風のため行方不明となり、
リーフデ号だけが1600年4月19日(日本暦3月16日)九州豊後に漂着した。

 大坂城で徳川家康の取り調べを受けたが、当時交易の地盤を奪われると感じたポルトガル人たちの中傷と誹謗に
あい、39日間も入牢させられた。

 しかし、アダムスの人柄に魅せられた家康は日本橋に1軒の家を与え、江戸城に登城させ外交顧問とし、自らも数学
・地理学を学び、幕府要人には砲術・航海術・天文学などを教えさせた。

 1604年に将軍家康の命令で浦賀(横須賀市)水軍の総帥向井将監忠勝とその輩下の者を連れ、伊東の松川
河口で80トンの英国式帆船を建造した。このことは慶長見聞集に記されている。

 家康もこの船に乗り大変喜んだという。翌年さらに外洋に出ることのできる大型船の建造を命じられ120トンの帆船
を建造し、京都から江戸(東京)まで試運航を行った。
 
伊東での造船は、天城山を控え用材が豊富だったこと、昔から造船技術者が多く住んでいたこと、駿河(静岡)と江戸
に近いことなどの条件にかなっていた。

 1609年9月30日に前フィリピン総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロは、マニラを出港したサン・フランシスコ号でアカプル
コに航海中、台風のため房総半島、御宿の岩和田村で難破した。

 アダムスは家康の命を受け岩和田村に急行した。翌年ドン・ロドリゴ・デ・ビベロは家康から前記120トンの船を借
り、サン・ヴェナ・ヴェンツーラ号と命名し浦賀からアカプルコに向かい、カリフォルニアの入口に所在するマタンチエル
港に1610年10月27日入港し、さらに月末にはアカプルコに帰った。

 家康は、1605年に将軍職を秀忠に譲り駿河に隠居する際、アダムスの功績に対し逸見(横須賀市)に250石の
領地を与えた。また、向井将監の仲人で江戸城の御用商人馬込勘解由の娘、お雪と結婚し逸見に居住した。名も
三浦按針という青い目のサムライが誕生したわけである。もちろん、2本の刀は家康から下附されたものであり、ここ
でジョセフとスザンナ2人の子供も生まれた。

 1613年6月11日、英国からジョン・セーリス司令官の乗ったクローブ号が平戸に入港した。アダムスはセーリスに
協力し駿河の家康、江戸城の将軍秀忠に会わせ、商館の設立と朱印状を受けることができた。

故国に残した家族に送金するため、東印度会社から借金し、平戸英国商館長コックスの下で2か年契約で働き、琉球
(沖縄)とシャム(タイ)に航海した。シャム航海中に家康が死んでおり、アダムスは落胆する。その後、アダムスは独
立して1617年3月23日、ギフト・オブ・ゴット号で交易のためトンキンに航海した。

さらに1619年3月16日、第2回交易のため支那、トンキンに航海し、1619年8月末に帰国した。のちに体調を崩し
、平戸で病床に伏せ、1620年5月16日(日本暦4月24日)病死した。

 後年になりアダムスの子ジョセフは、日本橋按針町及び地元逸見(横須賀市)の人たちの協力で十三峠(県立塚山
公園)に按針塚を建て、アダムスを供養した。この按針塚を見た英国人グランサムの提唱で故郷ジリンガム市(現在
メドウェイ市)当局は、1934年5月11日に記念碑をワトリング街に建立した。

 思えば日本滞留20年、日本を初めて訪れたこの英国人は、オランダ・イギリス・日本のために働き、公平な国際人
としてのプライドを保ち、波乱に満ちた生涯を日本で過ごしたのである。

 伊東市は、この海の英雄アダムスが日本最初の洋式帆船2隻を建造した地として、さらにはその1隻が太平洋横断
に成功したという偉業を讃えるとともに、伊東の船大工の事績を顕彰し、伊東市制施行記念日である8月10日に毎年
『按針祭』を執行している。

なお1982年8月10日、彼の出身地ジリンガム市(現在メドウェイ市)と伊東市が友好都市の締結をし、アダムスの
偉業を讃えるとともに両市の交流促進を図ってきた。その後1999年4月9日、合併後のメドウェイ市と改めて友好都
市の再締結をし、現在に至っている。

按針祭に戻る