禅のページ

 禅は己事究明です。それを徹底するためは「一度死ななければならない」でしょう。一度すべてを否定し、その後で大肯定、「大死一番、絶後蘇生」するわけです。そうなると、そういう「法身」である自己自身、「生かされている」自己自身に気づかされます。そしてそうなるとその底には当然のことながら大乗仏教の精神、つまり「自未得度先度他」(自らは未だ度することを得ざれども先ず他を度す)という「慈悲」の精神が流れていることに気づかされます。「愛語能く回天の力あることを学すべきなり」(道元)の「愛語」です。このページにはそこに至る基本的なことを書いています。

 

一 調身・調息・調心

@ 調身

 まず調身です。これは身を調えると書きますように、背骨を真直ぐに坐ります。これを正身端坐と言います。

 結跏趺坐の場合は、まず右足を左脚の股の上に乗せ、次に左足を右脚の股の上に乗せます。半跏趺坐の場合は右足を左脚の股の下に置き、左足を右脚の股の上に乗せます。(左右は逆にしてもいいのです。)そして両膝を座布団に着け、お尻との三点で体重を平均に負担するようにします。膝が着きにくい時は尻に敷いている座蒲を厚くするようにします。そして下腹を少し前に突き出すようにします。頭で天井を支えるように、あるいは突きぬくようにし、肩と鳩尾は楽に、余分な力抜くようにします。こうすることによって背骨が真直ぐとなり、正身端坐となり、安楽の法門となるわけです。

 この時、前後左右にそれぞれ二〜三回身体を揺振し、身体が真直ぐになっているかどうかということを確認するといいと思います。そして顔は真直ぐ前を見て、眼は半眼と言いまして、鼻頭を通して1メートルから1メートル半くらい前方のあたりに落とすようにします。半眼にするのは外からの刺激を少なくするためと、閉眼では眠くなってしまうからです。唇と歯は自然に合わせ、舌を上歯の付根のあたりに着けるようにします。

 手は右手の掌に左手を乗せ、両方の親指の先端を軽く合わせます。この時、薄紙一枚くらい離れているといいとも言います。これを法界定印と言います。あるいは左手の親指を右手で握り、右手を左手で覆うようにします。

A 調息

 これも息を調えると書きます。坐禅においては腹式呼吸を心がけます。(私は逆式腹式呼吸を実践しています。これは、鼻から息を吐く時に下腹を膨らませるようにし、吸う時は自然にするという方法です。)まず坐禅を始める前に腹式で深呼吸を二〜三回行なうようにします。それから坐禅に入り、腹式呼吸をするのですが、これについては苧坂光龍老師の『在家禅入門』(大蔵出版)に詳しいので、少し引用させていただきます。細かいことのように思われますが、これがとても大切なことだということが、私も後でもう一度再認識しました。

 

 腹式呼吸を上達さす要領は、出入の呼吸の転換するところを徐々に細くして、緩慢にすることである。普通の呼吸は出入の息がピストンの運動のように、上下運動と考えられているが、転換する前後の呼吸を、わずかずつ細めることによって、直線から曲り角になり、それも鋭角からだんだん鈍角になって、ついには曲線になってくると、呼気はいつのまにか自然に吸気となり、また吸気もいつのまにか自然に呼気となる。そうなると転換のポイントは丸味を帯びてきて、全体としては卵形の息になる。そうなると息はきわめて楽になるからゆるやかになり、だんだんと大きな息になるから、深い息になって、深呼吸のような結果になるが、自然に発達した息であるから人為的無理がなく、その回数も一分間に十七回の人が十六回になり十五回になり、だんだん少なくなってしばらくするうちに十回となりさらに五、六回になる。一分間に六回となると、一つの息が十秒ということになりそれは出る息が五秒入る息が五秒位になる。さらに綿々密々に工夫してゆくと一分間に三つか二つ、あるいは二分間に三つぐらいになる。そうなると息のよさ、息するよろこび、息の尊さ、息の醍醐味までが味わえるようになる。

 

 非常に綿密な呼吸の仕方ですが、これがとても大切です。こういうふうに綿密に呼吸をしていても雑念や妄想がいつのまにか入りこんできます。初めのうちはこの雑念や妄想が出てきたらそれを切るようにして、すぐに数息観に戻るようにするといいと思います。また、雑念や妄想は呼吸の出入の転換のところで出やすいので、そこのところをとくに綿密に、呼吸とひとつになっていることが肝要です。ある程度坐禅の体験を積んできたら雑念や妄想が出てきてもそれに取り合わないでいれば、もともと根もないものですからすぐに消えていきます。

 数息観は二音の数息観から始めます。まず吐く息をヒトー、吸う息をツーというふうに、フター、ツー、と続け、トー、オーまでいったらまたヒトー、ツーと始めます。これを繰り返すわけですが、精神集中ができていないと二つか三つくらいのところですぐに雑念、妄想が入りこんできてしまいます。それに気がついたらすぐにヒトー、ツーからやり直します。

 こうして二音の数息観が集中してできるようになったら一音の数息観に進みます。一音の数息観は吐く息もヒー、吸う息もそのまま続けます。続けてフー、ミー、ヨーとし、トー、まできたらまたヒー、フー、ミーと繰り返します。一音の数息観のほうがより集中の度合いは高いのですが、基本は二音の数息観ですので、次に坐る時はまた二音の数息観から始めます。

 その次の段階が随息観です。吐く息の時は吐く息に成り切り、吸う息の時は吸う息に成り切るわけです。このあたりのこともまた光龍老師のすばらしい説明がありますので引用させていただきます。

 

 息を吐くということは自分が天地宇宙の事々物々の中に融け込んでゆくことであり、息を吸うということは、天地宇宙を自己の腹中に収めるとも考えられる。それは天地宇宙の真理の中に自己が融け込み、また天地宇宙の真理を自己の内に摂取することにもなる。けっきょく一息の中に天地宇宙の真理と交流することになる。天地宇宙の真理という代わりに、仏という語をおき換えると、われ仏に入り、仏われに入るということになる。これを普通「入我我入」といってきわめて大切な成仏観の一種である。また出る息が死とすると吸う息は生である。死の時は死の全機現であり、生の時は生の全機現である。道元禅師も「生死の中に仏あれば生死なし」と示されているように、生死ともに全機現となると、単なる生死は解消して生死ともに仏の大生命となる。すなわち出入の息は生死一如の端的に契合して、数息観・随息観は完全に身心一如の目的を果たすことになる。(前著)

 

B 調心

 すでに身心一如のところまで話がきましたので改めて「調心」のことを記す必要はなくなってしまいました。「調身」により正身端坐して、「調息」、腹式呼吸による数息観・随息観で身心一如となれば「調心」もそこに顕現されているわけです。もしそうなっていない時は「調身」からやり直すことです。

 

二 公案

 数息観で身心一如となればそれでもう禅は完成でそこまででいいかというとそうではありません。その境涯に安住してしまうのは禅の、大乗仏教の大慈大悲の精神につながりません。そこで公案によって常見・断見を打破し、「小さな自己の壁を打破して宇宙的霊性の自覚にまで向上発展せしめ」(前著)ることが大切なことになるわけです。

 現在実践されている公案は、そのほとんどすべてが江戸時代の白隠が体系化したものです。それによると公案は次の五種類に分類されています。

@ 法身

 この法身の則は公案の中でももっとも基本の公案であり、これによって一度自己をすべて否定し去り、「自己本来の面目」に気づかせてくれる、いわゆる「見性」体験をもたらしてもくれる公案です。

 この代表的なものが「趙州無字」と呼ばれる公案です。これは無門慧開禅師という方が著した『無門関』という書物の第一則になっている公案です。

(本則)

 趙州和尚、因みに僧問う、「狗子にも還って仏性有りや也た無や。」州云く、「無。」 (評唱)

 無門曰く、「参禅は須く祖師の関を透るべし、妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、尽く是れ依草附木の精霊ならん。且らく道え、如何が是れ祖師の関。只だこの一箇の無字、乃ち宗門の一関なり。遂に之れをなずけて禅宗無門関と曰う。透得過する者は、但だ親しく趙州に見ゆるのみならず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛あい結んで同一眼に見、同一耳に聞くべし。豈に慶快ならざらんや。透関を要する底有ることなしや。三百六十の骨節、八万四千の毫竅をもって、通身に箇の疑団を起して箇の無字に参ぜよ。昼夜提撕して虚無の会を作すことなかれ。有無の会を作すことなかれ。箇の熱鉄丸を呑了するがごとくに相似て、吐けども又吐き出さず、従前の悪知悪覚を蕩尽し、久々に純熟して自然に内外打成一片ならば、唖子の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。驀然として打発せば、天を驚かし地を動ぜん。関将軍の大刀を奪い得て手に入るが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向って、遊戯三昧ならん。且らく作麼生か提撕せん。平生の気力を尽くして箇の無字を挙せよ。若し間断せずんば、好し法燭の一点すれば、便ち著くるに似ん。」

(頌に曰く)

  狗子仏性 全提正令

  纔(わずか)に有無に渉れば 喪身失命せん  (『提唱無門関』苧坂光龍)

 

 詳しい解説は専門書に譲ることにしたいと思いますが、ここではとにかく「法身の則」として、「通身」に、頭の天辺から足の爪先まで、体中で「無字」に参じて、吐く息も「ムー」、吸う息も「ムー」と、自分を空じていくというか、自分を「無」にしていくということです。それが「虚無」の「無」ではなく「有無」の「無」でもないという、そういう意味を越えた「ム」というのです。そうして修行していくといつか自分という小さな自己が砕け散って、宇宙的な人格、つまり「法身」が現われてくるというわけです。「法身の則」というのはそれに気がつくというか、それが身体でわかるということだと思います。一度否定し尽くした上での大肯定ということです。

 次にこれも有名な「隻手音声」を紹介しておきます。

白隠云く、「両掌打って声あり、隻手に何の音声かある。」

 両手を打てば音がします。これはわかります。ここでは片手の音を聞いてこい、というのです。世間的な常識では考えられません。これもやはり「無字」の公案と同様で、「通身」に、頭の天辺から足の爪先まで、体中で「隻手」に参じていきます。そうして修行していくとやがて「隻手」が見えてきます。「隻手」が聞こえてきます。

 

 いろいろな公案がたくさんありますが、そういう中で道元が『正法眼蔵』の中にも取り上げている「渓声山色」の巻(第二十五)というのがあります。これは詩人としても有名な蘇軾(東坡)が、ある時廬山に行って、一晩坐禅をしたのでしょうか、その時に「渓水の夜流する声に悟道」して、その師常総禅師に偈を作って送りますが、それに因んだ巻です。

  渓声便是広長舌  (渓声便ち是れ広長舌)

  山色無非清浄身  (山色清浄身に非ざる無し)

  夜来八万四千偈  (夜来八万四千偈)

  他日如何挙似人  (他日如何が人に挙似せん)

 この偈は「無情説法」として有名ですが、「渓声」は非常に親切な「広長舌」、つまり説法にほかならない、「山色」は見る人の身心を清浄にもしてくれる「清浄身」である、「夜来」、昨夜からずっと、いや太古の昔からずっと、「八万四千」もの、数えきれないほどの「偈」を説いている、そういうことが今はっきりとわかったが、これを人にどうやって「挙似」、説明したらきちんと伝えられるのか、というわけです。

 道元は同じ「渓声山色」の巻に「香厳撃竹」と「霊雲桃花」という公案、投機の偈を取り上げています。ここにも紹介します。

   香厳撃竹

  一撃亡所知  (一撃に所知を亡ず) 

 更不自修治  (更に自ら修治せず)

  動容揚古路  (動容古路を揚ぐ)

  不堕悄然機  (悄然の機に堕せず)

  処々無蹤跡  (処々蹤跡無し)

 声色外威儀  (声色外の威儀なり)

  諸方達道者  (諸方達道の者)

 咸言上々機  (咸く上々の機と言わん)

   霊雲桃花

  三十年来尋剣客  (三十年来尋剣の客)

  幾回葉落又抽枝  (幾回か葉落ち又枝を抽く)

  自従一見桃花後  (一たび桃花を見てより後)

  直至如今更不疑  (直に如今に至るまで更に疑わず)

 (訓読は岩波文庫『正法眼蔵』による)

 香厳や霊雲はいずれも竹の音を聞いたり、桃の花を見たりということによって、小さな自己を打ち破って自己本来の面目を知ったという見性体験をしているわけです。もちろん、何かの音を聞いたり、何かを見たり、渓声山色を見聞したりすることだけが見性体験をもたらすというわけではなく、さまざまなことを契機にして古人は悟っているようです。ただし、わたしたちが正しい修行をしている時にそれは現われるのです。道元も「正修行のとき、渓声渓色、山色山声、ともに八万四千偈ををしまざるなり。」(前著)と示しています。

 こういう「法身の則」の公案はたくさんありますが、ここではこれくらいにしておきます。

A 機関

 公案の基本は「法身」ですが、それだけでは「一枚悟り」と言われ、日常生活の中で働き出るということができないと言われています。そこでこの「機関」の公案でこの働き、「用」ということを練っていきます。

 ただし初めは公案を与えられても、その公案が「法身」なのか「機関」なのか分かりません。何度も独参入室して、何度も振鈴を鳴らされて、そういう中で「働き」として工夫し、練っていくわけです。これらはもう実参しないと意味がないと言いましょうか、わけが分からないと思います。ということもありますので、まだ実参されていない方は是非とも実参していただきたいと思います。

 その有名なものとして傳大師の「空手にして鋤頭を把り、歩行して水牛に騎る。人橋上より過ぐれば、橋は流れて水は流れず。」という偈があります。

B 言詮

 これは言葉で表現するということです。禅の、あるいは仏教の、さらには宗教の、究極のところのものは言葉では言い表すことはできないと言われています。そこのところをあえて言葉で表現するとどうなるのか、ということがこの「言詮」の公案ということです。禅の言葉は支離滅裂で何が何だか全く分からない、人をバカにしたような表現だ、というふうにも言われていますが、この、言葉で表現できないところのものをあえてもう一歩突っ込んで、言葉で表現しようというのですから、そこで用いられる言葉はそういうふうにならざるをえないわけです。言うならば、言葉を超えた言葉ということです。

 仏とはどんなものかと問われて、「乾屎 (屎かきべら)」と答えたというのは有名な公案です(『無門関』第二十一則)。仏という非常に尊いものを不浄な屎かきべらと言うのですから、たいへんなものです。そこのところにどう目をつけるか、そこが工夫のしどころです。

C 難透

 これは透ることが難しい公案ということです。しかし、ただ透るだけではなく、真にその境涯に至ることが難しいという意味を含んでいます。公案の数をたくさんこなしても、その境涯に至らなければ、単に頭の体操で終わってしまいます。

 白隠八難透というのがあります。「疎山寿塔」「牛過窓櫺」「乾峰三種」「犀牛扇子」「白雲未在」「南泉遷化」「倩女離魂」「婆子焼庵」というのがそうですが、いずれも透るのももちろん難しいですし、その境涯にまで到達することは並大抵ではありません。

D 向上

 「更に参ぜよ三十年」という禅語があります。「三十年」というのは限りがないということです。どこかで満足して腰を落ち着けてしまっては、その途端に野狐に落ちます。常に「向上」していかなければ菩薩とは言えないわけです。

 ある日の夜坐で、無得龍広老師が警策を一巡されてから、「遠山限り無き碧層々」(『碧巌録』第二十則、頌)と雷声のごとく一喝されました。ちょうどこの公案に参じていた時だったので私ひとりの為に言われたように思い、胸に響いたことをはっきり覚えています。この時のことを肝に銘じています。

 

 以上の五種類の公案の最後の仕上げとして、「洞山五位」、「十重禁戒」、「末後の牢関」などというのがあります。

 

三 脳波、現代物理学、共時性、「道」などについて

 

坐禅をして禅定に入ると、脳波が平常のβ波からα波になり、さらに禅定が深まるとθ波になると言われています。精神の安定した、リラックスした状態の時の脳波はα波であると報告されています。坐禅は安楽の法門とも言われていますが、身も安定しますし(調身、調息)、精神も安定します(調心)。ですから脳波も当然そうなるのでしょう。

 古来、投機の偈には自然と共鳴したものが多いようです。宇宙意識と言うか、自分の境界や垣根が取れて隔てがなくなり、自然と一体になるということです。物我一如と言います。「天地我と同根、万物我と一体」と詠ったのは肇法師です。前に紹介した香厳は竹に石が当った音を聞いて悟り、霊雲は桃の花を見て悟り、蘇軾は渓川の音を聞いて悟りました。その聞いたり見たりしたものと自分との隔てが何もないのです。その時自分は空じられている、無になっているのですから。

 そういう時の脳波はどうなっているのか検証することはできないのですが、自分が空じられている、無になっているのですから、禅定の状態と同じくα波かθ波になっているのではないでしょうか。そして、その時の音や桃の花がある電磁波を出していて、それと脳波がぴったりと一致していたということが仮説として考えられます。地球上、あるいはこの宇宙にはさまざまな電磁波が飛び交っているようです。その電磁波同士が同調することをシューマン共鳴と言うそうです。その聞いたもの、見たものとぴったりと波長が一致した時、自然と自分がつながっていると感じられる、そういう宇宙意識が実感されるということは有り得るのではないかということです。

 松尾芭蕉が臨済宗の僧、仏頂和尚に参禅していたことはよく知られています。そして芭蕉の俳諧は非常に禅的です。あるいは禅的に解釈することができます。有名な「古池や蛙飛び込む水の音」という句は仏頂和尚に提示した見解をもとにしたものだという話もあるようです。ある時、仏頂和尚が芭蕉に質問します。「近日尊公如何。」(ご機嫌いかがですか。近頃のあなたの境涯はどのようですか。)芭蕉が「雨降って青苔潤う。」(ちょうど雨上がりのようですっきりとして、苔が青々と潤っているようです。)和尚、「その意、作麼生(そもさん)。」(そこをもっと端的に示せ。)そこで芭蕉が、「蛙飛び込む水の音。」と答えたということです。いずれにしてもこの「水の音」と芭蕉が一体となっていると思われるわけです。また、「よく見ればなずな花咲く垣根かな」という句では、芭蕉は「なずなの花」と一体となっているようです。芭蕉の句にはそういう解釈ができるものが多いようです。また、芭蕉はそうした自然物以外にも古人との心の通じ合いを句にしてもいます。そういうことを感応道交と言います。西行法師との感応道交したものはたくさんあるのですが、その有名なものが「遊行柳」です。「田一枚植えて立ち去る柳かな」。この句は西行の「道のべに清水流るる柳蔭しばしとてこそ立ちどまりつれ」、という歌の心との感応道交を詠んだものです。

平生の私たちは自分というものがあるというふうに感じています。自分の境界、垣根を作っています。そして自分というものに執着しています。それは本来の自己ではありません。作られた、抑圧された、捉われた自己にしか過ぎないのです。「放てば手に充つ」(道元)と言います。手を放せば、執着がなくなれば、自己が無になれば、全世界、全宇宙が自己です。本来の自己、宇宙的な自己です。

 私自身の体験としては、前にも述べましたが、老師から与えられたある公案で苦しみ、二進も三進もいかなくなり、疑団に囚われてがんじがらめになって身動きもできないという状態になったことがありました。そういう状態が五ヶ月ほど続いた頃、大摂心の半ばを過ぎた昼坐の時、その公案がいきなり急に見えたのです。その時は公案そのものに成り切っていたと思うのです。体験的事実としてと言いましょうか、はっきりと見えたのです。その時の私の脳波はやはりα波かθ波になっていたのではないかと思います。

 現代物理学はミクロの世界、素粒子の世界を探求し、近代科学の因果論的還元主義に決別し、新しい世界観を確立しようとしています。ハイゼンベルクは素粒子の位置の不確定性と運動量の不確定性を関係づける「不確定性原理」を提案しました。それによると素粒子の世界は、統合された世界のさまざまな部分が織り成す「関係のネットワーク」だということです。そしてさらにこの関係を理解しやすく考え方としてボーアは「相補性原理」という概念を提案しました。つまり、粒子と波は同一のリアリティを相補的に描写するものであり、いずれも部分的には正しいがその適用には限界があるということです。量子力学では「粒子は不可分な宇宙の織物の中の相互作用である」とし、アインシュタインの相対性理論では「物質の活動が存在の本質である」ということです。つまり、物質の存在(粒子)と活動(波)のふたつは切り離せない同じ時空世界の異なった側面だということです。そしてこの波の波長、振動数を導く方程式をシュレディンガーが発案しています。

 また、近代科学では私たち人間は観察者として考えられていたわけですが、ミクロの世界では現象の関与者として考えざるを得ないということになっています。つまり、認識主体と客観の状態との間には相互依存的な相関関係があって、認識主体から独立して存在する客観の状態というものは考えることができないというわけです。

 さらにまた、デビッド・ボームの「ホログラフィの原理」というのがあります。これは、ある現象の一部分にはその全体に関する情報が入っているという原理です。つまり、どの部分をとってみてもその全体に関する情報が入っているということです。禅では「一即多」とか「一即一切」と言います。

 このデビッド・ボームはまた、世界を明在系と暗在系という二重構造として捉えています。明在系は普通の感覚で捉えられる世界、暗在系は隠された次元の世界ということです。この暗在系では、心は物質一般そして身体を巻き込んでいる、身体は心そして物質的宇宙を巻き込んでいると考えます。つまり、心と身体は物質、宇宙とともに相関関係にあるということです。私たちが感覚で捉えられる現象は幻覚に過ぎない。それらは別の次元の、もっと全体的な秩序である暗在系からもたらされたものだということです。そしてまた、暗在系の隠された秩序のなかには、ユングの言う共時性ということが大きい役割を果たしているようです。この暗在系の隠された秩序と道(タオ)とはまさに驚くほど一致しています。

 最新の物理学は「場の量子論」と言われています。ここでは人間の脳と心も研究対象とされています。それによると、心は光量子(フォトン)の凝集体だということです。この仮説もさらに研究が進められていくと、道(タオ)につながってくるのではないかと思います。

 ユングの共時性という世界観には、老子の説く「道(タオ)」、そして『易経』の世界観が大きく関わってきています。この世界観をごく簡潔に概説してみたいと思います。

 まず「道の道とすべきは常の道にあらず」(『老子道徳経』第一章)ということですが、「道」そのものはどうにも説明のできないもの、名前の付けようのないもの、天地の初めのもの、それを「道」とするということです。そして「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」(第四十二章)とあります。この一は根源的な一で、太極と言い、形以前のものです。二は陰と陽です。三は陰と陽と沖気です。沖気は陰と陽を調和させるものです。そしてこの三が万物を生じているとします。万物は陰気を背負い陽気を抱え沖気がそれらを調和させてこの宇宙は成り立っているということです。

 『易経』では、この宇宙が「陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる」というふうに、常に変化している、変易していると捉えます。それを進化と言ってもいいように思います。その変化している、易(かわ)っている宇宙と常に同調していれば調和を保っていられるわけですが、人間はえてしてその調和を乱してしまう。そこで、大宇宙の中に生かされている小宇宙である人間に何らかの暗示を与えてくれているのが『易経』の六十四ものさまざまな隠喩であるわけです。その隠喩を読み解いて大宇宙に調和して生きることを『易経』は教えています。『易経』は単に占筮の書ではなく、人生哲学の書です。また君子の学、帝王の学と言われています。儒教ではそういうことで「四書五経」の一つにしているわけです。これは今では疑わしいとされていますが、『史記』によると、孔子が五十歳を過ぎてから『易経』を読んで韋編三絶(本が擦り切れるほど何度も繰り返して読むこと)し、「繋辞伝」その他の「十翼」をまとめたというのは有名な話です。『論語』述而篇には「五十以って易を学べば以って大過なかるべし」という言葉もあります。

 以上のようなことを簡単にまとめることはできませんが、次のようなことは言えると思います。禅の思想はある意味では老荘思想の基盤の上に成り立っているものですが、「禅による生活」はこの「道」に則った、小宇宙である自己自身との調和はもちろん、大宇宙と調和した生活だと言うことができるということです。

 

四 カウンセリングと禅

 

 カウンセリングは言うまでもなく臨床心理学の実践であり、禅は仏教の実践です。ですから、カウンセリングと禅はもちろん別のものであり、無理に結びつける必要はないのかも知れません。しかし私は、カウンセリングと禅の二つの道を歩んできて、その両者の精神の根底に流れているものには共通のものがあると思うのです。それは、カウンセリングの言葉で言うと、「自己一致」、「無条件の肯定的配慮」、「共感的受容」という三原則であり、仏教の言葉で言うと、「大慈大悲」の精神、「利他」の心というものです。ことばの定義や範囲、あるいはレベルなどが違うといえばもちろん違うのですが、根底には共通の部分があると思うのです。ちょっと口幅ったい言い方になってしまいますが、カウンセリングを実践していくバックボーンとして禅があり、その禅の精神でケアをさせていただいているのが私にとってのカウンセリングだと思っています。この「ケア」というのはもちろん「相互作用」であり、一方的にカウンセラーがクライエントのために何かするというわけではありません。人と人との出会いは必ず相互的です。

 カウンセリングを進めていくためには、カウンセラーは「自己一致」している必要があります。そうでなければクライエントの「自己一致」を進めることはできませんし、「無条件の肯定的配慮」も「共感的受容」も表面的なものに終わってしまいますから、カウンセリングは先に進みません。ですからカウンセラーは平常において自己管理に努めていなければなりませんし、また自己啓発をしていく必要もあるわけです。そういう時に、「自律訓練法」や「フォーカシング」などもいいのですが、「坐禅」はさらに有効です。有効だからというのは語弊があるのですが、端坐して「調身」し「調息」していくと、次第に「調心」、心も調ってきます。

 ここでいう「自己一致」は、厳密には「一応の」、「ある程度の」という但し書きが必要です。「自己」、「セルフ」とは何か。これは非常に大きくて深い問題です。人はそれをどこまでも探求していくものなのでしょう。カウンセリングにおいてもそうですし、禅においても「己事究明」(『大燈国師遺戒』)と言って最も大切な問題です。しかし、それはそうとして、「自未得度先度他」の精神で、今、目の前の問題に対処していくのが日常生活であり、カウンセリングにおいても、カウンセラーとクライエントがともに歩んでいくプロセスなのだろうと思うのです。

 次に「無条件の肯定的配慮」と「共感的受容」ということですが、これについては禅はまったく反対の立場のように見えます。禅はまずすべてを否定した上に成り立っていると言えます。「無」とか「空」というのがそうです。「柳は緑ならず、花は紅ならず。」と言います。しかしその否定の上に大肯定が来るのです。「柳は緑、花は紅。」の世界です。そこにおける菩提心というのはやはり、「無条件の肯定的配慮」、「共感的受容」に通じていると思うのです。

 カウンセリングは心理学です。科学ですので検証することが可能であり、また必要です。そして誰でも学習すればある程度は習得することができます。(トランスパーソナル心理学などはかなり宗教的体験が要求されていますが)ですからいつでも修正されながら進歩(?)していきます。

 それに対して、禅は宗教であり体験です。体験ですので検証することができません。究極のところは言葉で表現することもできません。教えることも教わることもできないわけです。「冷暖自知」という言葉があります。冷たさや暖かさは自分で知るしかないわけです。ですから「教外別伝、不立文字、直視人心、見性成仏。」と言って、自ら修行して体得するよりありません。しかし禅に関する書物は世の中にあふれています。おそらくあらゆる宗教、宗派よりも多いのではないかと思います。これは一見矛盾のようです。古来言われてきていることでもあるのですが、この「不立文字」という言葉の解釈の仕方が別にあるのです。その一つは「文字を立てず、文教に随わず」ということで、文字やそこに含まれている思想や知識を第一義のものとはしない、そんなものに左右されないという解釈です。もう一つの解釈は「不立底の文字」ということで、文字を自由自在にする、文字の束縛を受けないという解釈です。よく禅の言葉は支離滅裂で理解できないと言われますが、それはこういうところからきているわけです。「橋は流れて、水は流れず」とか、「炭団は白く、雪は黒し」などというとたしかに常識とはかけ離れています。また、お釈迦さまは死ぬ間際になって「四十九年一字不説」とおっしゃったということですが、お悟りを開いてから死ぬまで、衆生済度のために四方八方、それこそ席の暖まる暇もなく縦横に説いて回ったお釈迦さまが「四十九年間何も説かなかった」というのです。あるいは「説けなかった」ともいいます。これも「不立文字」です。また別に鈴木大拙氏は、「文字がいらぬということを知らせるのに、いくら書いても足らぬので骨が折れますわい」と言われたそうです。これは大拙氏の慈悲のあらわれです。禅ではそのように、なんとかして禅体験で体得された真実というか真如というか、それを「文字はいらないということを知らせるための文字」として、大慈大悲のあらわれとして表現せざるをえないということのようです。

 「指月」という禅でよく使われる言葉がありますが、「月」というのは真如の象徴的な表現で、真如そのものは言葉では表現することができないので、それを「指」で指すということ、それがさまざまな言葉として表現されているというわけです。指を見ても仕方がないわけで、その指の指している月を見なければなりません。文学の方面でも、「行間を読め」ということが言われます。そこに余韻があり、味わいがあるとされています。カウンセリングやフォーカシングにおいても、話されない言葉、言葉以前の、言葉にならないクライエントの表情や、その醸しだしている雰囲気、感じられていることがら、などから気付くということは重要なことです。

 カウンセリングの創始者であるロジャーズはさらにエンカウンターに進んでいきましたが、そこで「エンカウンター・グループは、人間の感情と生き方についての『今、ここで』を強調する傾向が増大している点で、明らかに実存的意義をもっている。」と述べています。エンカウンターのワークショップにおいては、大勢の人たちがそれぞれに動機、目的意識をもって集まってきます。そしてまたひとりひとりが、互いに尊重すると同時に、「今、ここ」の中で、自分自身に素直に、あるがままになります。中には「自分が何であるかはっきりしてきた」というレポートも寄せられています。また、この「今、ここ」というのはまさに禅の専売特許のような言葉で、人が生きていく上では、いつも「今、ここ」しかないわけです。カウンセリングやフォーカシングにしてもその面接の場面の「今、ここ」しかありませんし、エンカウンター・グループではそれがさらに「今、ここ」のところに凝縮されているようです。それを禅では、日常生活のさまざまな場面で、そのひとこまひとこまの中で、「今、ここ」を生きるというわけです。

 もっと厳密に言うと、「今」の「い」と言う時、「ま」はまだ来ていませんし、「ま」と言った時、「い」はもう過ぎ去っています。その一瞬一瞬、一刹那を生きる。呼吸においても、吐く息の中にも始めがあり途中があり終りがあります。吸う息の中にも始めがあり途中があり終りがあります。そのそれぞれの瞬間の「今」をはっきりと自覚して生きるということです。

 また「ここ」というのは、それがどこであってもそのところで「随処作主、立処皆真」(どんなところでもそこで主となれば、その立っているところが皆真である、『臨済録」)ということです。自分が「今、ここ」で主人公になるというわけです。

 この自分、自己ということはどうでしょうか。私がカウンセリングの道に踏み込んだ初めは、第一章に記しましたように学生時代の友田不二男先生との出会いからでした。その友田先生のカウンセリングの定義をもう一度書きます。「カウンセリングということは、一言で言えば、人間がそれぞれの自主性・主体性において限りなく模索していく、そのものの人生を模索していくプロセスなんだ。」この友田先生の定義では、自己が生きていくプロセスということです。さらにこの「自己」ということでは、『学生中心の教授』の後書きにある道元の言葉、「自己をはこびて万法を修証するは迷いなり。万法きたりて自己を修証するは悟りなり。」ということに行き着きます。そしてまたこの基となるのが同じく道元の「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」という文章に表わされています。「自己をわす」れる、「脱落」するということが「自己をならふ」ことであり、「仏道をならふ」ということになります。そしてまたこの「自己」が、ロジャーズの発見した「自己(セルフ)」と一致しているというのです。

 ロジャーズは物事の見方、考え方について概念的に固定化してしまうことを徹底して退けています。人間はともすると、これはこれこれ、あれはこういうもの、というふうに固定的に、観念的に概念としてとらえてしまいます。そのほうが精神衛生の面で楽なのでしょう。しかしそれでは精神の柔軟性を失い、退行してしまいます。ロジャーズは仮説を立て、検証し、修正するということを常に模索していきました。この概念の固定化を嫌うということは禅においては徹底的に行われます。禅問答、公案というのはある意味ではこの固定化された概念を徹底的に打ち壊し、精神の柔軟性を取り戻すための頭の体操という一面もあるようです。そういう中で本当の「自己」(リアルセルフ)を発見していくことが大切なのだと思います。

 また、カウンセリングでよくその目標とされている「自己実現」というのは、究極的には「自己超越」をしたところ、「脱落」したところにもたらされるものなのでしょう。もうそこでは「自己」がどうだとかいうことは問題ではなく、むしろ他の救済というか、衆生済度へ向かう菩提心があるばかりなのでしょう。しかしまた、一度「脱落」してもそれですむというわけではなく、「更に参ぜよ三十年」とも言うように、どこまでも修行です。もうこれでいいということはないわけです。

 そこで、「往相回向、還相回向」という言葉があります。これは浄土真宗でよく使われている言葉ですが、この往相と還相というのは循環していますし、また相補的でもあると思うのです。浄土真宗ではすべてを阿弥陀如来におまかせしているということですが、この往相というのは、一切の衆生と共に浄土に往生できるように願うということです。還相というのは、浄土に往生した後、この穢土に還って衆生を救済しようとすることです。つまり、浄土に往生したからといって安閑としているのではなく、席を暖める暇もなく、「上求菩提、下化衆生」というふうに常に菩提心を持って世の中に還ってくるということです。禅のほうでは、その修行の階梯を十枚の絵によって分かりやすく説いた『十牛図』というのがあります。牛というのが本来の自己を象徴しているわけです。

「尋牛」 まず初発心です。どこにいるのか分からない牛を探しに出掛けます。

「見跡」 やがて牛の足跡を見つけます。

「見牛」 牛の尻尾を見つけます。

「得牛」 なんとか牛を捕まえます。しかしまだ牛は暴れて逃げようとします。

「牧牛」 牛を飼い馴らします。

「騎牛帰家」 牛に騎って自分の家に帰ります。

「忘牛存人」 もう牛のことは忘れても本来の「人」はそこに存在しています。

「人牛倶忘」 これはまったくの空で、いわゆる円相しか描かれていません。

「返本還源」 もとへ還った、のどかな家と庭が描かれています。

「入鄽垂手」 布袋さんのような人が街に入っていきます。

 このように本来の自己に目覚め、そしてそれを調えていきます。そうするとやがてまったくの空になり、さらにそこからまた世の中に還ってくるということです。ここでもやはり循環していると思うのです。

 いろいろと駄弁を弄してきましたが、カウンセリングと禅の道を歩んできて、ここで擱筆するに際して一言付け加えさせていただくと、それはわたしの座右の銘としている「愛語」です。カウンセリングの「傾聴」も愛語だと思うのです。禅の「菩提心」も愛語だと思うのです。カウンセリングも禅も、この「愛語」に尽きると思っています。

 「愛語能く回天の力あることを学すべきなり。」

 

 

 

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