小泉八雲と我が町焼津とは八雲が晩年避暑に訪れた事から始まる。当地に関係する
随筆数編を通して子供の頃から馴染みの名前であった。また八雲最中なる菓子も発
売されておりご当地ソングにも八雲の名前があり全国的に通用する有名人が皆無の
ため殆んどの市民がその名を知っている有名人でもあった。子供時代夏の縁日の一
つ海蔵寺通称小川のお地蔵さんの祭典があり兄弟と連れ立って良く行ったものだっ
たがその寺に八雲が書いた「漂流」の舟板「甚助の板子」が奉納されていた。その
様なものに子供時代から興味を持っていた私からみれば八雲は遠い存在ではなかっ
たが八雲について余り知らない方の為その人生とか経歴を概略紹介してみる。
以下資料は焼津信用金庫ホームページより転載させて頂いた。
このページで私が書きたいと思っていたのは八雲自身の精神性や宗教観を推測する
為である。子供時代「怪談」や「耳なし芳一」を読み怖い思いをしたことがベース
になっているが日本古来の霊魂、霊性や怪談に興味を持つ外国人がなんとなく奇異
に感じていたからである。
八 雲 年 譜
| 1850 |
|
6月27日 ギリシャのレフカス島に生まれる |
| 1868 |
|
明治維新 |
| 1869 |
|
20歳で 渡米.5年の貧乏生活の中にも勉強を続ける |
| 1874 |
|
新聞記者になる |
1890.4
(明治23年) |
|
通信員として挿し絵画家とニューヨークを出発、横浜港着
挿し絵画家より報酬が悪いことを知り、通信員をやめる |
| 〃 . 8 |
|
知り合いの斡旋で松江中学の英語教師となる
(40歳) |
| 1891.2 |
|
小泉セツ(23歳)と結婚、日本研究に没頭 |
| 1891.11 |
|
松江を離れ、熊本第五高等学校に転任 |
| 1894.7 |
|
神戸クロニクル社に入社し、神戸に移る 『知られぬ日本の面影』出版 |
| 1895 |
|
帰化し夫人の姓をとり小泉とし、出雲にちなんで八雲と名乗る 『東の国より』出版 |
| 1896.8 |
|
東京帝大(東大)文学部講師として赴任、市ヶ谷に住む 『心』出版 |
1897
(明治30年) |
|
夏、初めて焼津に来る 富士登山 |
| 1899 |
|
夏、家族とともに焼津に遊ぶ 『霊の日本』出版 |
| 1900 |
|
夏、家族とともに焼津に遊ぶ 『影』出版 |
| 1901 |
|
夏、家族とともに焼津に遊ぶ 『日本雑事』出版 |
| 1902 |
|
夏、家族とともに焼津に遊ぶ
『日本御伽噺』『骨董』出版 |
| 1903 |
|
帝大講師を退く 来焼中止(心臓病にて水泳はドクターストップ) |
| 1904. 4 |
|
早稲田大学文学部に出講 家族とともに焼津に遊ぶ |
| 1904 |
|
9月26日 狭心症のため逝去 享年54歳 |
次に八雲が育った境涯と日本を訪れる事になった事情や焼津との繋がりについてや
はり焼津信金のホームページから転載させて頂く。
ハ−ンの生い立ち
小泉八雲、即ちラフカディオ・ハ−ン(ヘルンとも言う)は、1850
年(嘉永3年)6月27日、ギリシャのレフカス島(ギリシャ本土に接
して西側のイオニア海に浮かぶ美しい小島)で生まれました。父はアイ
ルランド人でイギリス軍の軍医、母はギリシャ人でした。
ハーンが2歳の年に父が転任となったため、彼は母と父の実家アイル
ランドのダブリンへ移ります。しかし、いろいろなことがあって、ハー
ンが6歳のとき母は離婚され、生まれ故郷へ帰ります。以後再び会うこ
とのなかった母を、ハーンは生涯慕い続けるのです。
母と別れたハーンは、資産家で子どものなかった大叔母(父の母方の
叔母)に引きとられますが、13歳で入学したイギリスの学校で、遊戯
中に友達の持つ縄が当たって左目を失います。彼は幼い頃から強い近眼
で、その上一方の眼をなくし、以後ずっと目に苦しむことになります。
青年時代
ハーンが16歳のころ、大叔母が破産します。その後彼は、フランス
の学校に入りますが、彼の考えに合わないことからまもなく退学、そし
て19歳の年、1869年ハーンは新天地を求めてアメリカへ渡り、ワ
シントンから西へ650キロほどにある町、シンシナティに落ちつきま
す。そこでは、始め食事も満足にできないほど貧乏な生活に苦しみなが
らも、図書館へ通って勉学に励む時間を持つことができました。やがて
その町で発行される新聞の記者となり、彼の文才は広く認められるよう
になります。そしてこの頃から、東洋について興味を持ちはじめます。
しかし彼はそこに安住せず、1877年ずっと南、ミシシッピ川がメ
キシコ湾に注ぐ河口近くの大都市ニューオリンズに移り、小さな新聞社
に勤め、更に南部の大新聞社「タイムス・デモクラット」の文学部長と
なります。経済的にも時間的にも若干の余裕ができた彼は自らの著述や
外国文学の翻訳も盛んに行いました。またその記事を通して、彼は南部
の最も優れた新聞記者の一人に挙げられるほどとなります。
日本の“心”に触れる
ニューオリンズでは、1884年にこの町の百年祭記念博覧会が開か
れ、日本からも美術工芸品が出品されました。ハーンは毎日のように会
場を訪れ、片方の近眼の目をこすりつけるようにして日本の出品物を眺
め、”西欧芸術にはないすばらしい優雅さがある”と感動していたとい
うことです。その会場では、日本の文部省から派遣されていた服部一三
という役人とも知り合いました。
美術工芸品を通して“日本の心”に直接触れたことが、ハーンと日本を結
ぶ上で大きな意味を持ったのでしょうが、彼が来日するまでにはまだ時
間がかかります。ニューオリンズで10年過ごしたハーンは、1887
年ニューヨークの書店「ハーパー社」と、西インド諸島の印象記をく契
約を結んで、南米の北岸に近い小島、フランス領マルティニック島へ渡
り、その地で仕事のほか著作に励みます。
憧れの国“日本”に
「南の島で2年間を過ごしたハーンはニューヨークに帰り、ハーパー社
及びカナダ太平洋鉄道汽船会社と日本に関する記事を送る契約を結び、
1890年(明治23年)3月5日ニューヨークを出発、バンクーバーから汽船
に乗り4月4日横浜に着きました。この未知の国に彼は大変な興味を持
ちますが、ハーパー社との契約条件が悪く、さらに同行した画家よりも
条件が劣っていたことを憤慨して、特派員の契約を破棄してしまいます。
それはハーンが職を失うことを意味しましたが、横浜滞在の当時米国
海軍の軍人マクドナルド氏や、ニューオリンズで知りあい当時文部省の
要職にあった服部一三氏らの世話で出雲の国島根県松江中学校の英語教
師となることが決まりました。ハーンは既に英訳の「古事記」などを読
んでいたので、神々の国出雲へ行くことを非常に喜んだのです。」
ラフカディオ ハーンが何故日本に行くことになったのかまた彼がそれを何故欲し
ていたのかがこれら資料からは判然とし無い。「美術工芸品を通して“日本の心”
に直接触れたことが、ハーンと日本を結ぶ上で大きな意味を持った」とあるがはた
してこれだけであったのか以前からの私の疑問であった。
アメリカでの最初の結婚生活も破局をきたし西欧的価値観や文化に馴染めずキリス
ト教を代表とする神への宗教的疑問や懐疑が彼の根底にあったのではないかと漠然
と思っていた。彼の生まれたギリシャは古来多神教の風土があり、父親の国アイル
ランドもキリスト教が入ってくる前ケルト民族特有の宗教があった。万物に精霊が
宿り自然との共生や仏と人間の一体を説く仏教的思想は彼にとってはかけ離れた異
端の思想では無く彼の余り恵まれなかった青年期の鬱積と重なり人間と神の関係が
懸絶するキリスト教的社会で生涯を生きることは本意でなかったはずである。最近
ネット上で資料を漁っていたら得心の行く資料に出会うことが出来た。前田専学
氏が「小泉八雲と仏教」の題で平成17年4月22日に国際仏塾で講演したものであ
る。東大の印度哲学を卒業しその方面の権威でもある先生の講
演内容は全体的に
示唆に富む素晴らしい話であったが自分達の学問的後援者の方に質問された「八雲
は仏教者であったのか」と質問され答えに詰まり後日お答えさせて頂くと言うこと
で猶予をいただきその後自身で研究されたことを話したものである。私と同じ様な
疑問を持っていた人もいたのである。
以下は博士の講演から主要な部分を引用しながら私自身の考えも述べて行きたい
。先ず昨年起こったスマトラ沖の大津波が国際語としてマスコミで英語で
Tunamiと表記されていたのは小泉八雲が明治二十九年六月十五日に実際に起こっ
た宮城・岩手・青森三県を襲った津波で死者二万人にも及んだ三陸大津波を主題
にして『生神様』
という一文を書いた。その中に「“Tsunami”shrieked the
people」という一文がありそれが欧米で出版されTunamiの国際語となった由来を
述べていたのも興味深かった。
妻せつが語った夫婦の会話に「成女学園の地所だと思いまけれども、
その学園の
近くに瘤寺というのがあるんです。 「山寺のお隣であったのが気に入りました。
昔は萩寺と申しまして萩がなかなかようございました。 お寺は荒れていましたが
、 大きい杉がたくさんありまして淋しい静かなお寺でした。 毎日朝と夕方は必
ずこの寺へ散歩に出かけました。
たびたび参りますので、 その時のよい老僧と
も懇意になり、 いろいろ仏教のお話などいたしまして喜んでいました。
それで
私も折々参りました。 日本服で愉快そうに出かけていくのです。 気に入ったお
客などが見えますと、 『面白いのお寺』
というので瘤寺に案内いたしました。
子供等もパパさんが見えないと 『瘤寺』
というほどでございました。
よく散歩しながら申しました。 『ママさん私この寺にすわる、 むずかしいでし
ょうか』。
この寺に住みたいが何かよい方法はないだろうかと申すのです。 『
あなた、 坊さんでないですから、 むずしいですね』 『私坊さん、 なんぼ、
仕
合わせですね。 坊さんになるさえもよきです』 『あなた、 坊さんになる、 面
白い坊さんでしょう。 眼の大きい、 鼻の高い、
よい坊さんです』 『同じ時、
あなた比丘尼となりましょう。 一雄小さい坊主です。 如何に可愛いでしょう。
毎日経読むと墓を弔いするので、 よろこぶの生きるです』 『あなた、 ほかの世
、 坊さんと生まれて下さい』 『ああ、
私願うです』」という件がある。日本人
以上に素晴らしい文章を書く八雲の可愛いとも思える日本語の会話もいいが八雲
が仏教に対しどの様な感情を持っていたのか伺い知ることが出来る。
話が前後するが八雲が横浜に到着した時のエピソードも紹介されている。ラフカ
ディオ・ハーンは一八九〇年の三月八日、
四十歳のときにC・D・ウェルドンと
いう挿絵画家と一緒に日本を目指してニューヨークを出発いたしました。 同じ年
、
明治二十三年の三月十八日、 カナダのバンクーバーの港からアビシニア号と
いう船に乗りまして、
およそ二週間の船旅で明治二十三年の四月四日に横浜港に
到着いたしました。
そして山下町九十三番地にあるインターナショナルホテルに
泊まることになりました。
ところが横浜に到着早々上陸するやいなや、
人力車を雇いましてハーンは食事
の時間さえも惜しんで、 まず寺を訪問するんです。 この寺が一軒だけではなく
て二、
三軒出てくるようでございますけれども、 その寺がどこであったのか長
い間不明とされてまいりました。 しかし最近になりまして、
それは野毛山不動
尊だとか延命院だとか言われております成田山横浜別院ではないかというように
インターネットでは教えております。
どこまで信憑性があるのかちょっと私も言
えないのでございますけれども、 そういう一つの説がございます。
それが本当
だとすれば成田山横浜別院にまず彼は人力車で行ったわけでございます。
そのとき偶然、
英語に堪能な真鍋晃という青年がそのお寺にいたんですね。 二
人の間に交わされた興味深い会話が彼の作品の中に残されております。
私はいろ
んなところでその文章を紹介しましたので詳細は省きますけれども、 ハーンは当
時の西洋における最新の仏教研究について、
正確にしてしかもすごい理解を持っ
て来日したということは明白でございます。
当時はヨーロッパ、 特にイギリス、 ドイツ、
フランスなどで仏教研究が非常
に盛んでございまして、 その最新の知識を持ってハーンは日本に来ているわけで
す。
ところが当時日本では、 まだ新しい仏教研究というのが起こっていなかっ
た。
南条文雄や高楠順次郎といった先覚者がイギリスのオクスフォードに留学し
て新知識を吸収しに行った時代、
その時代にハーンは既にそういう見識をしこた
まためこんで、 そして日本にやってきているわけでございます。」
この話の内容も大変興味をそそられる。横浜到着後早々お寺を訪ねていることと
八雲自身が仏教に対してどの様な最新知識を持っていて真鍋晃という青年とどん
な話をしたのか、おそらく仏教に対するものと思われるが今の時点で語る資料も
ない。(後になってこの資料を調べてみた。八雲の仏教に対する並々ならぬ関心は
理解されたが八雲自身の仏教の学術的理解がどの程度であったのかは判らなかった
。只この時代難しい仏教教理を英語で話せる日本人の青年がお寺にいたという事実
には驚いた。)
当時のアメリカの思想界ではダーウインの進化論に基ずくスペンサーの哲学が知
識人を席巻していた。この思想こそ宗教と科学を融合するものと考えられていた
。彼らにとっても南北戦争をとうして精神的荒廃に直面した多くのアメリカ人にと
ってもキリスト教の終末論よりは仏教の唱える縁起説や生成発展する輪廻転生説は
とても魅力的なものがあつた。
再び先生の講演に戻ればこの時代的背景が八雲に与えた精神的影響について次の
ように述べている。
「 ハーンの伝記にはいろんなものがございます。 その中の
一つにE・スティーブンスンという女性の方が書いた
『評伝ラフカディオ・ハー
ン』 という日本語になったものが恒文社から出ています。 その中に、
一八八二
年の十月八日の日曜版のデイリー・シティ・アイテムで、
ハーバート・スペンサ
ーの社会学原理を書評したということがきっかけになりまして、
生涯にわたって
ハーバート・スペンサーという社会思想家、
哲学者に傾倒するようになったとい
うことが書いてあります。
スペンサーという人は大変重要な存在でありまして、
ハーン自身がそのことを
はっきりと認めております。 スティーブンスン女史は、
「ハーンの人生を決定
づけたもう一つの体験はエドウィン・アーノルドの 『アジアの光』 との出合い
があった。
これはブッダの生涯を装飾的な言葉でうたった物語詩であるが、 誠
実さは見えても生彩が欠けている。 しかしハーンには大きな影響を与えた。
書
評はすでに一八七九年十月二十四日のアイテムに発表しているが、 ハーンはその
『アジアの光』
を一八八〇年代を通じて読み続けている」
と書いております。
残念ながら一八八九年にデイリー・シティ・アイテムという新聞に発表したと
言われている 『アジアの光』
についての書評は入手することはできておりませ
んけれども、 その四年後の一八九三年に 『アジアの光』 の新刊を読んだときの
感想を、
ハーンがアメリカ人の親友のW・D・オーコーナーという人に次のよう
に報告しております。
「君はアーノルドの 『アジアの光』
のすばらしい新版を見ましたか。 私を魅
了してしまいました。 不思議に新しく美しい礼拝の芳香で私の心は満たされてし
まいました。
結局のところ、 ある深遠な形の仏教が未来の宗教になるかもしれ
ません」 と。 ハーンがいかに大きな影響を 『アジアの光』 から受けたか。
あ
ちこちに 『アジアの光』 について彼が書いたり書評をしたり評価をしているこ
とでもおわかりになるかと思いますけれども、
ハーンはこの中で、
仏教は未来
の宗教になるかもしれないというように高く評価をしております。
ハーンは仏教のどんな点に関心を抱いたのかということでございますが、
彼の
作品に 「高度な仏教」 というのがございます。 これは時々、
あまり仏教のこ
とをご存じない方が大乗仏教というように翻訳されておりますが、 そうではなく
て高度な仏教程度の意味の 「The
Higher Buddhism」 という小論文でありますけ
れども、 その中でハーンがこういうことを言っております。
「私はあえて自分
自身をハーバート・スペンサーの学徒と呼ぼう」 と。
ハーバート・スペンサーはイギリスの社会学者で、
進化論を社会学の中に取り
込んだ人ですけれども、 日本でも一時大変はやった人でございます。
ハーンも
大変大きな影響をハーバート・スペンサーから受けています。 「ハーバート・ス
ペンサーの学徒と呼ぼう。
私が仏教哲学にロマン的な興味以上の関心を持つよう
になったのは、 ハーバート・スペンサーの総合哲学に親しんでいたからである。
仏教もまた一つの進化論であるから」 というふうに書いています。 すなわちハ
ーンはスペンサーの学徒である。
スペンサーの進化論を高く評価しています。
仏教も進化論であるというところにハーンの共感を呼んだ、 一時的な興味ではな
くて、
もっとまじめな関心を引くことになった理由でもあったわけであります。
仏教が一つの進化論であるというのはどういうことかと申しますと、
仏教が持
っている輪廻の思想です。 このことを彼は進化論と考えております。
先ほど紹
介いたしましたハーンの友人への手紙の続きをとらえてまいりますと、 「輪廻は
遊牧民から文化人へと、
数えきれないほど無数の動物の形を通じて、 ウジ虫か
ら王様へと大きく進化するところに証明されるのではないでしょうか。
あらゆる
近代の哲学は、 目に見えるものは目に見えないものの流出したものに過ぎない。
あるいは妄想、 至高の夢の所産である、
あるいは影である、 などといろんな考
え方をしているけれども、 私は正しい人間は今や東洋の信仰を教えることによっ
て、
全西洋の宗教世界に大変革を起こすことができるのではないかと考えていま
す」
というようなことを述べているわけです。
ではなぜハーンは輪廻の考え方を高く評価したのかということですが、
今でも
実はアメリカ人の半数ぐらいは進化論を拒否しているというか、 学ぼうとはしな
いのです。 そんな中でハーンは、
下等な動物から上等な動物に進化していると
いう進化論を高く評価していたわけで、 その関係で、
ヒンドゥー教から一部は
受け入れたわけですけれども、
仏教の輪廻の考え方を高く評価しているわけであ
ります。」この様に八雲の思想的根底には仏教的なものがあり日本行きは単なる
東洋趣味だけではなかったのである。 焼津で滞在した山口音吉宅は城の腰と呼ば
れた海岸近くにあり着物姿の八雲が下駄を履き焼津の街中を散歩する風情が偲ばれ
る。ある時は時間を掛け小川村にあるお地蔵さんにまで出向いたのだろう。地蔵信
仰は最も庶民的な信仰であり死後地獄から天上界まで輪廻する人の後生を救済する
菩薩信仰である。スペンサーの社会進化論に傾倒し人の輪廻転生に大いなる共感を
覚えていた彼が本堂に奉納された甚助の板子を目にしたのは容易いことであった
だろう。
再び講演に戻れば「 多神教であるギリシア人、 ケルト人、 日本人に共通するよ
うな、
霊魂は死によって肉体を離れるが、 生によって再び肉体につながり、 輪
廻転生を繰り返すという考え方に共感していたのである」。
それゆえかハーンは
カルマと行為について、 カルマをする、 行為をすればそれが直ちに消えるのでは
なくて、 その印象が残されていく、
それが業となって蓄積されていくわけですが
、 そういうカルマという言葉を好んでいた。 そして因果応報についてよく語って
いた、
というように曾孫に当たる小泉凡さんは語っております。
確かに仏教そのものも、
世界の大宗教であるキリスト教とかイスラム教に比べれ
ば周辺の宗教であるわけですけれども、
それとともにハーン自身が非常に多面性
を持っていた。 そのハーンにふさわしい研究の対象に、
仏教というのはそういう
意味でなり得たというように思われるわけですが、
その上に仏教というのはケル
トの心とも言えるような輪廻転生を説いている宗教であったということです。」
西洋の二元的価値観にだけ捉われない八雲のこの様な精神の多様性こそが彼を仏の
国日本に呼び寄せた原動であり多感な青春期を過ごしたギリシャ、アイルランドの
心を日本および日本人に見出したのであろう。更に八雲の仏教に対する現代的意味
と役割を次の様に述べている。「西洋人は
「我」 とか 「自我」 というものを実
在する最も信ずべきよりどころであるというように固く、 固く信じている。 仏教
徒は、
そういう 「自我」 というものは幻影、 夢、 幻のごときものなのだと。
あらゆる忌憚とか罪業の根源であって、 決して我々の頼るべきものではない。
夢
、 幻のごときものであるというふうに仏教徒は考えている。 そういうように彼は
考えています。
西洋に根強く見られる仏教と相反する思想というものを取り上げ
まして、
それがいかに多くの人類の不幸を引き起こしているのかということを書
いています。
仏教は先ほど申しました常のものはない、
自我と称するものは夢、 幻のごとき
ものだというわけですから、 それと正反対の信仰というのが西洋の考え方です。
「つまり、
固定したものがあるという妄想、 言いかえれば性格、 身分、 階級、
信条の区別は、 ある不変の法則によって定められているという妄想。
不変で不死
である有情の霊魂は、 神の気まぐれによって永遠の幸福か、 永遠の煉獄へ行くよ
うに運命づけられているという妄想。
これらの妄想からいかに多くの人類の不幸
が起こっていることであろうか」、
これはキリスト教への批判ですね。
彼は大変キリスト教を嫌っていたわけです。 その理由に関して、 「疑うまでも
なく、
神というものは怨みを持ったら最後、 どこどこまでも怨み続けるという観
念、 罪は贖 (あがな) うことができず、 罰は切り捨てがたいという観念、
こ
のような観念は社会の進歩がずっと未開の時代でなければ価値のない観念であって
、 これからますます進歩する未来の人類進化の道には、
そんな観念はお払い箱に
なってしまうに決まっている」 と、 そのように断言しております。
そしてさらに続けて言っております。
「東洋思想と西洋思想が接触することに
よって、 そのような西洋的な観念が一日も早く衰滅し、 明るい結果を招くことが
望まれる。
そんな西洋的な観念の発達させた感情が、 我々の中に尾を引いている
間は、 本当の意味の寛容の精神なぞ生まれるわけがないし、
真の人類同胞の観念
も、 世界愛の目覚めも起こりっこはないのである」
と。
こういうように永遠不滅の自我というようなものを認めていけば、 性格、 階級
、
民族の差別というものを認めない無我の立場に立つ仏教というものとの大きな
隔たりがありまして、 自我というものがあったら、
慈悲とかそういうような考え
方が生まれてこない。 相手の立場に立つということもできないわけですから、
そ
ういうのは無我の立場に立つ仏教の持っている今日的な未来的な意義である。
そ
ういうようにハーンが考えていたというように私にも思われるのでございます。
少し前の時代に自我の確立なんていうことがよく言われました。
日本人は自我
の確立が足りないのだというようなことが言われまして、 西洋的な自我というも
のに、
猿まねのように同調する人がおりましたけれども、 西洋的な自我の行き着
くところは、 やはり人類の滅亡以外の何物でもないわけです。
それは現代の世界
の有り様がよく示しているかと思いますけれども、 それぞれが自我を張り上げて
いますね。
戦争以外の何物も起こってこないわけでございます。
人類の滅亡とい
うことが目に見えているわけであります。
ハーンがすでに百年も前に仏教の無我説の今日的、 未来的な意義を見出して、
東
洋思想と西洋思想が一日も早く手を握ることを望んでいたということは、 驚嘆す
べきことではないかと思います。
世界の状況が今日のようにグローバリゼーショ
ンが進みまして多くの民族が協調しなければならない時代になってまいりますと、
共生の理想、
共生という言葉は仏教とは少し違うようですけれども、 そういう理
想の実現が焦眉の急になっているわけであります。
そういう時代にやはり仏教の
無我説という考え方がますます重要になっていくのではないかと思います。」
以上前田専学先生が講演されたものを見てきたがさすが専門家ともいえる論説であ
る。
ブッダ、ゴータマが説えた「縁起」「諸法無我」は自我そのものを縁りて起こる現
象と捉える。現象であるから自己が依るべき実態がないと捉えるがそれを働く本質
こそが生命の実相と捉える。夢幻の自我に執着し対象化することにより自然本来の
あり方から遠ざかりあらゆる差別相が生まれ対立社会が生まれる。自と他の対立を
離れた平等性に至った時生命の実相慈悲の自覚に至るのである。仏教徒の究極の
目標は平等智の獲得と慈悲への目覚めである。
仏教思想は「無我」から「空」と発展するが存在するもののあり方や形は環境から
の圧力、進化圧により決定される。存在するものに定性は無く全てが変化するから
、縁起するから無(空)ではない。空(不生不滅のエネルギー体)の本来的働きが
あるから縁起する。不生不滅体の生滅を縁起(変化)という。この変化の力、環境
からの進化圧を受け一途に進化の方向を目指していく。輪廻転生を理性的に語れば
このようになる。小泉八雲が次代を担う宗教として仏教を評価したのはこのような
ことであろう。
ただ単に八雲の書いた作品だけの鑑賞では気ずかない深い精神性にふれ八雲の再認
識できたことはわたしにとって大きな収穫でもあった。
2006,4,24
追記:以下の原稿はある書き込みの私の書き込みと質問等である。
私は八雲縁の地焼津の地で生まれ育った者です。子供の時から彼の滞在した音吉の旧宅の前を行き来し顕彰碑を覗き込んだり漂流の中に描かれた甚助の板子が奉納されている小川地蔵尊が遊び場の一つであったりして他の子供たちと比べても彼を随分と身近に感じ育ってきました。西欧的文明の発祥地であるギリシャで生まれ育ち多感な子供時代アイリッシュして育った事もその歴史的背景を考えれば新天地アメリカを目指した動機の一つだったのかと思ってもいました。彼にとってのアメリカも約束の地ではなくようやく訪れた日本が彼の生涯の地であった等々少年にしては少し八雲に関しては博学でした。家庭をもち生活に追われてからは作品も読まなくなりなりましたが
最近彼の宗教性とか精神性について少し調べてみようかと漠然と思うようになりました。キリスト教に代表される西欧的価値観は基本的には二元論であり神と人間との関係は隔絶的であり神に赦され祝福された人のみが天国の来世を約束される宗教社会に育った彼が万物に神が宿り仏と人間の同一を説く日本及び日本人の宗教や精神性を彼がどのように理解して実生活を送っていたのか大変興味があります。
焼津は随分と後になってから行きましたが、よいところです。柳田国男のいう常民とか郷土というイメージが生きています。八雲の時代でしたらその色彩がもっと濃かったのではないでしょうか。
ぷりんすは西大久保に生まれ育ったので八雲終焉の地の記念碑は子供のころから見ていましたが、八雲の何たるかは大人になるまで知りませんでした。しかも東京ですから明治のころと今の様子はもうまるで違います。ただかろうじてひまわりの舞台になった高田村の草っぱらだけは記憶にあります。今は新目白通りとなって面影はありません。
さて八雲の宗教観ですが、宗教多元主義だったと思います。これは近年宗教学者ジョン・ヒックにより提唱されたもので、多元的価値を認める立場を宗教の場にもあてはめたものです。自身の中にいろいろな要素を混在させていた八雲ですから、今のこの主張を知ったなら膝を叩いて共鳴したのではないかと想像しています
「さて八雲の宗教観ですが、宗教多元主義だったと思います。これは近年宗教学者ジョン・ヒックにより提唱されたもので、多元的価値を認める立場を宗教の場にもあてはめたものです。自身の中にいろいろな要素を混在させていた八雲ですから、今のこの主張を知ったなら膝を叩いて共鳴したのではないかと想像しています。」
プリンスさん書き込みありがとうございました。前知識としてお聞きしたいことがございます。ジョン ヒックの宗教多元主義のことですが私も学者ではありませんので当人もその思想のなんたるかも知りませんが多元的価値を認めるとは一元二元論を合わせもつ相対としての考えなのかそれとも独自の絶対的基準をもつ一元論的な考え方なのでしょうか。私の宗教観の概略を述べます。
私たちの現前にある実存するこの世界は意識以前に於いても意識以後に於いても自ら作ったものでもなく唯そこにある世界言い換えれば究極存在(神性、仏性、大宇宙、大自然)より与えられし世界です。そこで私たちは生活しその究極存在の秩序を嗅ぎ取り対象化抽象化して科学文化を発展させて来ました。しかしその世界は空間的には無辺で時間的には永遠の世界であり人間の理性を超えたものがあります。また私たちは先見的、経験的に自己が生じそして帰り行く根源的世界として究極存在を感得しそれがもつ目的意識に適う価値生活を送ろうと努力するのです。
人間にとって限りなく深遠な意味を有しつつ創造的に発展をしつずけるこの世界全体そのものに私たち人間が直接現前している事実が私たち人間と究極存在の一体を直感させるのである。(大江精四郎)ジョン フックの考えはこのように考えている私と何か共通性があるのでしょうか。
>浅原録郎さん
はじめまして。とても深い議論で、私がコメントしてどうなるというものでもなさそうなのですが。
こうした議論になると日本では、偏狭な一神教と寛容な多神教という二分論を持ち出す人が目立ちますが、最近議論を呼んでいる靖国神社の来歴などをみれば、多神教が寛容であるなどという議論の虚妄は自明です。
無学にて、ぷりんすさんご指摘のジョン・ヒックという名前は初めて聞いたのですが、多様な宗教を認めるという価値観に関連するものとしては、私は宮澤賢治「銀河鉄道の夜」を挙げたいと思います。
賢治が法華経を信奉していたことはよく知られていますが、その賢治が後半生を注いだこの作品には、明らかにキリスト教の影響が見てとれます。そして主人公ジョバンニがたびたび言う「たったひとりのほんとうの神様」というのは、「宗教宗派の違いを超えた真実」を指し示しているものと私には思えるのです。文学専攻であったならばつきつめてみたいテーマではあります。
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