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ホリエモン Sun Also Rise 徳川慶喜 光子とリヒャルト 音なき音
green grass DNAと生命論 物質と形 首塚稲荷 青葉の笛
小泉八雲 正法眼蔵 私の坐禅と漱石 西田幾多郎 ブロッケン現象
靖国問題 近松門左衛門 正義 Zen Mind 日本武尊
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冨士、浅間 いつかある日 青葉の笛2 聖徳太子 愛宕神社と明智越
簿記 宗教哲学 チベット問題と
仏教
青葉の笛3 チベットと中国
四川大地震 チベット問題2

大崩海岸 焼津から見えているだろう赤石岳山陵
我が心の風景 

私の生まれ育った静岡県の焼津市は地勢的には日本列島を縦断するフォッサマグナと呼ばれる断層の南端が海底に潜り込む地殻変動が定期的に発生する場所である。

東の県都静岡市に接する大崩海岸は日本海の糸魚川から続く山岳構造線の南端部にあたり富士を望む流麗な海岸美を見せる。太古海底火山が噴火した際海底が隆起し其の名が示すように断崖絶壁の山が駿河湾に深く切れ込んでいる。その山の破断面には噴出したマグマが次ぎ々と海に流れ込み海水によって枕状に固化した痕跡が見られる。

市内の西外を流れる大井川は南アルプスの赤石岳を源流としてその豊富な水量が大量の土砂を下流部に堆積させ志太平野と呼ばれる肥沃な平原を作り出した。駿河湾を還流する黒潮と大井川源流の3000Mを越す南アルプスの山々が北からの冷たい季節風を遮るため冬も比較的暖かく年間を通じ安定した気温であり志太平野上にある焼津市をはじめ多くの町村でお茶や蜜柑の栽培が盛んな土地柄でもある。

その様な土地に生を受けた私が持つ二つの原風景ともいえるイメージの風景がある。一つは今は消滅した田園の風景である。志太平野を作り出した太井川の土砂は砂礫で水捌けがよくしかもその地下水脈により良質な米が生産された為昭和の初期までは広い水田が郊外の至る所広がっていた。

初夏,青々とした水田に爽やかな風が吹きぬけ満々と水を湛えて流れる細い水路に水草の黄色い花が浮かび両岸の土手には今も名前が知れないぶな系の木が若葉を茂らせ延々と並んでいる。そんな風景の中水路沿いに延びる農道を歩く自分の姿なにかにつれて蘇る。

あとの一つは雪をいだいた高い山々のイメージである。子供の頃冬の小学校の校庭で遊んでいてふと山の方に目を向けると安部奥の山のまた奥にひときは高い山々が雪の峰を抜けるような青空に広げている。

今もって南アルプスの聖岳や赤石岳あるいはその前衛の大無間、小無間の山々なのか定かではないが子供時代の視野の低い目線から見たその風景は圧倒的迫力で自分に迫ってきたものだった。幾重にも重なる山の向こうに聳える雪山の神秘的光景は雪の無い土地に暮らす者にとっては畏敬の存在でもあった。

そして遥かなその山々にはどんな未知の世界が在るのだろうか。何時かあの山に近づき見たいものとおもうようになっていた。海のある土地に生まれ育ち何故水田であり山なのかと問われても何故だか良く分からないが高度成長の走りからバブルの破綻した今まで自分と家族の生活を支えるため無我夢中で過ごして来た中ふと心の中にそれら二つのイメージが浮かぶのである。

禅では「花は紅くれない柳は緑」と言い哲学者西田注1幾多郎は「我々が何か見聞きする時何らの思惟を挟まない純粋なる経験こそが真の実在である」と言う。清らかな川の流れ、無心の花、癒しの木々、孤高の山の心象は全てが変化して過ぎていった我が人生の中で今も変わらず原点の風景であり、子供時代に経験した純粋なる経験故にイメージを超えた我が心其のものになっているのかも知れない。

注1、       明治、大正、昭和を生きた哲学者で青年期自己の実在に悩み禅に打ち込み寸心の居士号を持

テレビ番組を見て

2004228日午後9時からNHKスペシャルで神奈川県茅ヶ崎市の教育実験校での授業風景が放送されていた。この小学校で教えている校長及び教員が不登校や学級崩壊を防ぎいかに生徒達に考える力を引き出す事が出来るか苦悩する記録である。この校長先生は癌を患いこの番組が放送される前の今年1月に体調が急変し帰らぬ人となった由。ほぼ同年代のこの方の生き方や死に様に少なからずショックを感じた。

日本の教育現場では生徒が授業について行けない等の理由で学級崩壊が多発し多くの社会問題化しているのは周知の事実である。この現状を打破する為科学文部省が打ち出したゆとり教育実施の文脈があるのだろうがこの授業風景を見て思ったのは教師が一方的に授業を進めるのではなく生徒に事実を直視させその背景や解決への道筋を自ら考えさせて行くのにはどのように工夫をし同じ人間として生徒たちと向き合えるかとの事であった。

教師の人格、性格、育った環境、生徒からみてもまた同じことがある。言葉で言えば簡単であるがこれはとても大変なことである。人生経験や人間の普遍性とか価値観は共通のものがあるとはいえその表現の仕方や結果としての行動は千差万別である。ここに行き詰まると当事者の苦悩が始まる。

前記の校長は若い教員を補佐すると共に自らも教壇に立ち自分の生き様や余命幾ばくもない死への恐怖について生徒に問いを発していく。「私は後
3ヶ月の命と医者から宣告されている。胃の削除により食べて栄養を摂ることが出来ない為このような点滴装置を体に付けて大変な思いをして生きている。

だけど生きたいんだ。君たちが仮に同じ立場だったら何を考えるか私に教えて欲しい」と。、校長の病気について生徒たちはある程度の事は気付いていたのだろうが面と向かってこのような究極的設問を受け緊張が走った。日常では余り考えたこともない死について問われれば大人でも答えに詰まるだろうし死について考える事は生を考える事に他ならないと生徒は直感的に感じているからだ。

少しずつ始まった話し合いの中から命の意味や永遠性へと話題が発展して行く。この様な重いテーマを小学校で論ずる賛否は有るだろうが混沌として結論の見えない問題に対しはどのように自分が接したら良いのかの訓練にはなるであろう。翻ってもし私が教師だったら、この校長であったらとも考えてみた。

明日なき命が宣告されたなら(基本的には命あるものは全てそう、その事を考えないようにしているだけ)私だったらどうなのであろうか?生徒に対してこの様な質問が出来るであろうか、共に考える事が出来るような生き方をして来たであろうか?人の基本的苦悩は何処から来るのだろうか。

生きたいと願いながらも確実に来る死、善を為そうと願いつつ為す悪、根本にある価値と反価値
(生を尊び死を忌む心や感覚的に感ずる物のみを絶対しする心)の絶対的矛盾。この矛盾から人の苦悩は始まる。言い換えれば人は苦悩から宿命的に逃れることが出来ないのである。

しかし人が生と死の究極に立ったらどうであろうか、死があるから生があるとも言えるし生があるから死があるとも言える。要は生と死は単独では有り得ないのです。生きつつ死ぬ、死につつ生きる存在なのだ。

それは一つのものであり時間的空間的にもなんらの前提や制約のない絶対的存在であり事実である。絶対的だからこそ生死を越えて存在し続けるものなのだ。生や死を対立的に捉えることではなく永遠に存在し続けるものとして自覚した時人は苦悩から開放されるのであろうか。

人は感覚器官からの情報を知覚する。それは自己対他者としての知覚である。本来あるがままに存在する自然界のもの全てが人の知覚と言うヒィルターを通った時他者として矛盾対立をおこす。花を見て心和み他人の苦悩を我が苦しみと感じ人の喜びを自分の喜びと感ぜられるる時自己の存在する意味や心の自由が得られるのであろう。


生と死は人にとって永遠のテーマであり難問である。だから詩が生まれ芸術が生まれる。亡き校長先生のご冥福を祈ります。

色即是空 空即是色

山川草木悉有仏性

日本人であれば日常生活の中一度は般若心経の中に書かれている色即是空、空即是色の言葉を聞いたことがあると思う。私も子供のころ仏壇にあった漢訳の経典を手に取った記憶がある。

訳の判らない言葉の羅列に戸惑ったものだったが大人たちが僧侶の唱えるその経を神妙に聞いているのを見て何か大事な事、有難いことが書いてあるんだなーなんて思ったりしていた。

成長し東京での社会人生活をしばらくしていたが東京砂漠の中で次第に疎外感にさいなまれていった時ふと本屋で手にした般若心経の解説本が気になり買ってしまった。その本によれば色とはこの世に存在するもの、形あるもので空とは実体の無いものである即ちこの世に存在するものの全てに実体は無く言い換えれば実体の無いものが存在するものであると言う様な解説がされていた。

こんな当たり前の事が書かれている経を何故大人たちがありがたがったり死者への手向けとして唱へるのかかえって不思議に思った。そんなことがあって般若心経のことを調べたり勉強したりしてきたのでそのあたりの事をすこし書いてみた。

釈迦滅後
500年位後釈迦の説いた教えを忠実に保持しようとする出家を中心とした上座部系の集団と社会的繋がりを重視する大衆部系の集団が会合(結集)を持ち最終的には話し合いが決裂し袂を分かったらしい歴史的事実があります。

社会から隔絶し個人の修行を重視する上座部系に対し大衆の救いを優先し菩薩行を唱える所謂大乗の教えを重視する一派が今の中央アジア付近で膨大な量に及ぶ般若系の仏典を製作していたらしいのです。そのエッセンスとして作られた般若心経は鳩摩羅什注1玄奘三蔵等の名訳として東アジア特に日本の禅宗では大事に扱われている経典である。

前置きが長くなりました。人は何かを拠り所として生きています。美しい顔を持つ女性がそれを誇りに永遠にその美しさを保持したいと思うのは当然なことです。しかし存在するものは全て空でありそれが叶わぬ事は又当然と言わなければなりませが彼女が突発的な事故でその美しき顔を失ったとしたらその悲しみは如何なものであろうか。

その思い執着が強ければ強いほど深い悲しみに襲われます。移ろい行くもの変化するものに執着すれば結果は明白です。では人の真の価値とは何であろうか、人は何に拠り所おいたらよいのだろか。

深く静かな呼吸の中で穏やかに考えてみてください。これが本当の自分か、いやこれも違う、これも、あれも本当の自分ではないと究極の所までゆくと真に拠ってゆく何物も無い事(無)に気づいて行く筈です。

自己の全否定これが色即是空なのです。これ以上考える事ができない、どうしようと一切の考えを放擲した時空っぽになった自分に逆流的に満ちてくるある物があるそうす。一切の思考を放棄するという事は生きながら死ぬと言うことです。

実体の無いものに何かの拠り所を置いて生きてきた古い自己が死んで何かが違う新しい自己が蘇る復活(肯定)です。刻々変化する森羅万象の中に働く自由自在な力こそが生命その者であり形無きもの何者でも無いが故に全ての存在するものの中に宿る(仏性といわれる)。

その仏性こそが真実の自己の姿である。そこを自覚することを禅では「花は紅柳は緑」と言い清がしさに満ちた世界の出現です。これが空即是色です。現代的、哲学的に言えば「否定即肯定」です。

一人よがりの世界からあらゆる束縛から解放され花は紅と思う自由な心が他人に優しくない筈がありません。これが仏教でいう大非大慈です。今はこのように般若心経の言葉を理解しています。

注1鳩摩羅什 西暦350頃〜409年。「羅什」とも略称される。中国の南北朝時代初期に仏教経典を訳した僧。多くの門弟を育てた。東アジアの仏教に多くの影響を与えた。
下線部分:久松真一博士(1889〜1980岐阜県に生まれる。京都大学教授等歴任FAS協会を設立)によれば「生死の対立は人にとって絶対対立である。人間自身この対立を統一できない。しかしながら絶対対立が現れるところにのみ絶対統一が可能になる。それは絶対他者によるものである。人が絶対否定される時真実の全体的人間が蘇る.。すなわち絶対他者はそれ自身の真実態を絶対否定された人間に於いてそれの絶対自者として現ずる。

明日香を旅する

今私たちが佇む此処明日香{飛鳥}の地の下には日本国家の基礎となった飛鳥天平文化の遺跡が静かに眠っています。聖徳太子が十七条の憲法を発布して以来中大兄(なかちおおえの)皇子(みこ)(天智天皇)、中臣(なかおみの)鎌足(かまたり)等による大化改新、大海人(おおしあまの)皇子(みこ)(天武天皇)による壬申の乱を経て天皇親政による律令国家へと変貌を遂げた古代史の真っ只中に私たちは立っています。

この動乱の時代に生きた多くの
皇子(みこ)皇女(ひめみこ)達の悲しくも哀れに流された赤き血がこの地に多く咲く彼岸花の花に転生し千数百年の時空を超えて私たちに語りかけて来るようです。その中で悲劇の皇子として今も多くの人に語り続けられるこの人を紹介してみよう。

天武天皇の皇子であり父帝亡き後無実の罪で死に追いやられた
大津(おおつの)皇子(みこ)は文武の才に恵まれこの人より日本の文芸が始まったと言われている程の秀才であつたという。日本書紀では容姿も優れ均整のとれた美しい皇子であったと書かれている。

異母兄の
草壁(おさかべ)皇子が皇太子に任ぜられたが父天武の信頼厚く人望のある大津は次期天皇たる器として世間の期待を一身に集めていたがそれが彼の悲劇のもとにもなっていった。

天武天皇が崩御するとその后が一時的に皇位を継ぎ女帝持統天皇となったが次期天皇の位を巡り宮廷内では権力闘争が次第に活発化していったものと思われる。本来現持統天皇の息子である草壁が正統の皇位継承者であろうが父帝の信頼厚かった異母弟の大津の立場は微妙なものとなり遂に謀反の疑いがあるとの讒言(ざんげん)により囚われの身となり賜死となった (二十四歳)

義母持統天皇の歌 春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すちょう天香具山(今回の宿がある場所)
後世この事件は仕組まれたものとし大津皇子に多くの同情が集まりその残された詩歌と共に古代史の悲劇として歴史の一ページを飾った。

大津皇子は天武天皇が朝鮮出兵のため下った九州の地で仕えた大田おおたの)皇女ひめみことの間に生まれ姉の大伯おおくの皇女ひめみことの兄弟愛を詠った詩歌も数編残されている。

大津皇子おおつのみこ天智称制二〜天武十五(663-686)が愛人石川いしかわの郎女いらつめに送った歌(万葉集)

あしひきの 山のしずくに妹待つと 我がたち濡れぬ 山のしずくに

意訳  足引山で木々の雫で濡れてしまうほど貴女を待っていたんですよ。

石川いしかわの郎女いらつめが大津皇子に送った返歌

    我を待つと 君が濡れけむ足引の山のしずくに ならましものを 

意訳  行けなかった私を足引山の木々から落ちる雫しずくに濡れるほど待っていてくれたなんて、せめて貴方を濡らした雫になれればよかったものを。

天賦の才に恵まれながらも理想国家建設の半ばで斃たおれた皇子の愛情溢れるこの歌を愛する人は多く

特に寡黙な現代男性と比して大らかな愛を詠う万葉人の優しさに女性達の支持が多いのも頷けるのである。皇子の亡骸は二上山に葬られ妃はその死を痛み殉死したと言う。

又皇子の最後の地である盤余いわれの池は現在定かではないが今宵我らが泊まる香具山の麓にあったとも言われている。最後に死に臨んだ皇子の詩一首を紹介しよう。

ももずたふ盤余の池に鳴く鴨を今日見てや雲隠りなむ

意訳 明日なきわが身ではあるが盤余の池に遊ぶ鴨を見ていれば過ぎし平安の日々が思い出される事よ。

20052,1     浅原録郎から同行の人達へ

母の句集より

我が母親と代表句の紹介

句集発行に際し

 卒寿の記念に母に何かやってあげたいと思っていた折句集発行の話が兄弟の中からもち上がりました。発行に協力していただいた皆様に心より御礼申し上げます。母は大正二年に生まれ浅原家に嫁いで以来七十年、子宝にも恵まれ八男二女の子供を育て上げ大正、昭和、平成、と三っの時代を生き抜き今にいたっております。

しかし母の生きた前半の時代は戦争と混乱の時代でした。最愛の弟を上海事変でその下の弟達を中国の北支戦線、太平洋上ガダルカナル島で相次いで失ってしまったのです。

本来ならば生きる気力も失せてしまうほどの深い悲しみの淵に立ちながらそれを心の中に秘め子供達のために懸命に働き続けたのです。子育てを離れ今平穏の時の中で生活をしておりますが、弟達の悲しい記憶が時々頭を過ぎる様で物思いに耽る時もあります。しかし「禍福はあざなえる縄」の如し、正に母はこの不幸を今の幸福な晩年の生活を築く原動力に変えて来たのだと思うのです。

まだまだ元気が良く俳句も作っております。もっと長生きして女性として日本のおばあさんとして更なる
幸福な余生を過ごせる事を切に願ってやみません。

富士登山叶わぬままに老いしかな代表作

平成十二年十一月三日焼津市文化祭俳句部門 

                    焼津市長賞受賞作

男の子ばかり育てヾ障子貼る

平成二年十一月三日

焼津市文化連盟会長賞受賞句

智体悲用

この耳慣れない言葉はFAS協会の創始者久松真一の言葉である。あらゆる差別を生む自己の意識の根源に存在する絶対平等性(平等智)に目覚めこの平等智(慈悲、愛)を主体にして現実世界に働き出す働きのことである。

我々は自己を取り巻く外界に反応しそれを対象化して行動するので常に自己対他者としての意識を働かせ自ずと対立の中で生きていると言わざるを得ない。

平等性に目覚めるとは自分と他人の差別意識がなくなる事であり、君が僕で、僕が君(鈴木大拙)と言うことであり、生も死も、善とか悪とかの対立も無いと言う事である。言い換えれば善を成そうとして必然として成す悪との葛藤に悩むのが人間であるがこの様な人間の基本的悩みも本来的には無いと言うことである。 本来的に平等であるべき世界が何故差別化される世界になっているのか久松先生の言葉を借りてみよう。

 「大乗仏教の根本思想である真如の随縁とは真如の(はたら)きを意味しそれ自体では如何なる働きを絶した真如の体が特定の機縁に応じて発露(発現)するそれの用きである。言い換えればそれは如何なる縁起(生滅)をも絶した非縁起的主体の縁起である。反対語として迷いの中で生滅(縁起)する縁起的主体の縁起がある。」また「我々の意識を超えたところで働く真如は体験の世界でありその体は不変にして一であるがそれに応じて働くところの機縁は多であり変動する機縁に応ずる唯一不変の真如の用きが貫徹している事を知らなくてはならない。」と

少し判りにくい文章でなので意訳すれば

1、       人間の理性では計り知れないが故に真如とも空とも呼ばれるものの本来的働きすなわち天体の運行から生命現象の細部に至るまで等しく働く不変の力がある。

2、       この働きが機に縁じてあらゆるものを現象化(差別化)させてゆく。

3、       人の意識に作用するその働きは時間の経過とか空間の変化を分別させる。

4、       その働きかけは本質的には唯一不変(非縁起的主体の能動的働き)なものだが機に縁じ転じて行くので人の意識に時間的経過を分別させる。(意識の経過方向が時間の経過と錯覚する)

5、       過去とか未来を分別するのは意識の作り出した虚構(差別意識)今この現在しか実存しない。

6、       我々のこの現実世界は意識の始源である瞬間々今この現在(絶対現在)の絶対平等と意識の作り出す虚構絶対差別の二重構造の世界。

7、       虚構の差別化意識を増長し迷いの中に迷いを重ね対立の中で生きるか対立のない平等博愛の中で生きるのかそこが問題である。

 我々が人間として生まれ時として味わう感動とか喜びそれも真如の随縁である。その様に感ずることが出来るのはその本質が慈悲であるからに他ならない。そこに宗教の本質があると思う昨今である。

歴史の認識

暑い最中の仕事も終わり夜家に帰り食事後のテレビを見ると郵政民営化法案の審議のニュースが流れ政局問題が絡んだ非難中傷に些かうんざりする。小さな政府、公共事業の適正化、効率化の問題を孕んだこの問題にも国民の関心は低く官僚、政治家の既得権保持の私欲にしか映らずこの国の未来に暗雲を見るのは私一人ではあるまい。

外交に目を転ずれば朝鮮半島の非核化、拉致問題、竹島の帰属はたまた中国との文化的、歴史的摩擦日本人としては梅雨空の様にすっきりしない日々が続く。これらは夫々の国の歴史的事実に対する認識のずれから起こるのであろうが歴史は見る立場が違えば全く違う歴史になる厄介な問題を孕んでいる。この問題を中国問題だけに絞って自分の意見を整理してみたい。

日清戦争以後この国を戦場とした幾つかの戦闘占領を通じ多くの中国人に人的物的社会的損害や迷惑を掛けたのは事実でありこの点歴代の日本の首相は遺憾の意をのべ戦後60年以上にわたり平和国家建設にまい進し憲法に規定された不戦の誓いをとうしてきた事も歴史的事実である。

しかるに非難を浴びせる当の中国は
195010月明らかに民族的文化的、歴史的に到底同じく国とは思えないチベットに侵攻し19593月のチベット民衆蜂起をへてダライラマのインド亡命政権の樹立以降今もってチベット人の人権は回復されていない。

多くの中国人移住者が(チベット人
600万人の内同数の中国人が住み着き(多くが中国政府の政策的移住者?)政治的経済的主要ポストを握り自々区とはいえ我々から見れば昔日本が満州国でやってきた事と同じではないかと思うし抑圧された痛みのわかる国が加害者になっても良いという論理では歴史の教訓はない。
勝者が歴史を作るのが歴史の一般論と敗者(チベット亡命政府)から批判されても中国政府にとって仕方が無いことであるが日本に対するときの論理は全ったくといっていいほど反対の立場である。
凡そものの在りようは国家も例外なくして自己矛盾を孕む。現実主義の中国人の個と共産党独裁の国家ナショナリズムの矛盾を止揚する方策を中国自身が持たねばその近未来は無い。

私はチベットの熱烈な支持者でもなく反中国でもないが歴史的に見てこの国は中華思想を喧伝されるように自国中心的な所があり地理的要因もあり自国に迎合しない日本が古代より余り好きでないことはあるのだろう。

問題点を絞ってみよう。

国民党との内戦に勝利した以後中共政府は

1.      チベツトは中国の一部であると軍事行動により主権を蹂躙した。(何故中国の一部なのか明確な説明も無い、私には自国の西側国境に対する安全保障の為の口実にしか過ぎない思い)

2.     この行為は国際的に認知されいない。(仏教立国で深い精神性を持つ独立国)

3.     チベット侵攻時4000人の死者、1959年の民衆蜂起時のチベット人87,000以上の虐殺の責任の未表明

このようにチベツト問題一つとっても現在の中国政府が日本に声高に歴史の総括を迫るのが納得できないのである。ではあるが日本自身客観的に自国がなにをしてきたのか、正しい歴史検証をして困難ではあろうが周辺国との間で共通の歴史認識を持とうとする努力は加害側の立場として最も大事な事である。

自己と世界と歴

私たちの現前にある実存するこの世界は意識以前に於いても意識以後に於いても自ら作ったものでもなく唯そこにある世界言い換えれば究極存在(神性、仏性、大宇宙、大自然、空、絶対無、真如)より与えられし世界です。

そこで私たちは生活しその究極存在の秩序を嗅ぎ取り対象化抽象化して科学文化を発展させて来ました。しかしその世界は空間的には無辺で時間的には永遠の世界であり人間の理性を超えたものがあります。また私たちは先験的、経験的に自己が生じそして帰り行く根源的世界として究極存在を感得しそれがもつ目的意識に適う価値生活を送ろうと努力するのです。

人間にとって限りなく深遠な意味を有しつつ創造的に発展をしつずけるこの世界全体そのものに私たち人間が直接現前している事実が私たち人間と究極存在の一体を直感させるのである。(大江精四郎)従来の歴史学は歴史的事実を対象的に把握し学問として抽象的に論じたもので言ってみれば学問の為の歴史学であり人間存在の根源を問いそこから世界がどのように展開し成り立っていったのかという視点が欠けているのではないかと思う。

例えばロンドン市内で最近おこった同時爆破テロで英国政府はこの事件は文明の衝突といったものではなく単なる極悪の犯罪者の集団が引き起こした赦しがたき事件であるとの談話を発表した。テロ実行者を特定し検挙しても第二第三のテロはまた必ず引き起こされるのである。ユダヤの神をほうじその一神教的偏狭さで国を追われ文化を否定され人間の尊厳を否定され続けたイスラルの民、国家がその数千年の歴史の教訓を生かしきれず今も国の内外で対立、衝突の歴史を繰り返しているのがその証左であり普遍的共通価値観を共有出来ない人類の歴史の矛盾が先鋭的に露呈しているのである。

既に述べたように私たちが此処に現存しているということは本来的には神(究極存在)に赦され祝福されているからである。特定の民族、特定の宗教集団ではなく全人類が赦され祝福されているのです。この現実世界を与えられていると言う事はそうゆう意味なのでありそのことから究極存在の目的意思とは慈悲そのもでであるといえるのです。

その目的に適う価値生活が個人国家のエゴを無くし他人へのおもいやりを生活の基本となすと言う事なのである。

その自覚の開けが世界の開けとなり新たな歴史の創造即ち「外対立なくして内差別ない」世界の創造に人類は向かうのである。中世の神律(唯一絶対神)の束縛から解放されても近世の人間主義(理性哲学)を自らのものとしても、自己と世界と歴史の根底に潜む矛盾対立を超克する術を知らねばならないのである。
F:Formless
 self :All mankind SSuperhistrical histry 
槍ヶ岳登山



2005815から18北アルプス槍ヶ岳登山に出かけた。本来は地元の山である荒川、赤石岳縦走であったが前線の複雑な動きが読めず稜線付近の天候が悪化しそうな雰囲気もあり急遽穂高あるいは槍ヶ岳に変更となった。静岡市にすむ同行のMさん宅に朝5時頃迎えに立ち寄り他焼津市のメンバーであるKさんと計3人で国道52号線から中央道岡谷JC経由長野道松本ICまで約3時間の快適なドライブの後沢渡でマイカーを乗り捨てタクシーにて上高地入りした。

幾度となく訪れた上高地から降り出した雨の中横尾までの3時間明神池の観光などしてのお気楽登山の初日であった。盆の終わりとはいえ此処横尾は蝶、常念の縦走路や槍、穂高への分岐に位置している為多くの登山者で賑わいを見せていた。
今日は横尾山荘泊まりの為宿泊手続きを早々済ませ横尾大橋から前穂高や屏風岩が雲間に見え隠れする様に感激しながら風呂に入り夕食を済ませた後床についたが眠れぬ夜に悶々とした。(同宿者の堺市からの
2人組のいびきのせいか?)翌朝515分昨夜決定した槍ヶ岳へ向かった。

ほとんどの人が穂高方面へ入山の為静かな登山になり梓川源流槍沢の川音や道々に咲く花を楽しみ約二時間程で槍沢ロッジに到着した。その後槍沢のテント場大曲を経て播隆窟(槍ヶ岳登山開祖の播隆が篭った岩窟で明治時代英国の宣教師で登山家の
Westonも槍ヶ岳登頂の際この岩窟を利用した)を越え漸く見え出した槍ヶ岳山荘を目前にした辺りから急激に疲労感が増し息絶え絶えの最終登山になってしまった。

高度差
1,460Mを標準時間で登る不可能さをまたも思い知った。Mさんは疲れも見せず早速山荘南に位置する槍の穂先3180mを目指し部屋から出て行った。軽い高山病も少し良くなった翌朝まだ暗い430分頃煌くオリオン座の横をかすめては消える流星を見つつヘッドランプを頭に装着槍の穂先を目指し岩に取り付いた。下から見上げると黒き100mの岩峰は垂直の壁となりまるで海に漂う蛍烏賊の明りの様に登山者の群れが上へ上へとつながっていた。

身軽で昨日も一度登った
Mさんはどんどん先に行ってしまい少々怖がりの私とKさんは先行者の様子を見ながら幾つかの鉄杭、鎖、梯子に緊張し明るく成り出した山頂にたどり着いた。程なくさし始めた陽光に浮かび出る常念山脈や黒部源流の山々、北には南岳、中、大喰を経てそそり立つ穂高の峰々に言葉を失うほどの感激を味わうことが出来た。山に入ると食欲を無くし食べる気のしない定番料理をパスし山荘で焼くおいしいパンとドリップコーヒですっかり元気を回復し640分スタミナ一杯のMさんと競争するように一気に上高地へ下り着いた。(休憩時間を除き7時間)そのまま乗鞍高原の宿に投宿し白濁の温泉で疲れを癒し18日午後早く静岡に帰りついた。


北海道旅行


                        富良野森の時計

以前から登りたかった北海道の深田百名山は大雪山(旭岳等)、トムラウシ、十勝連峰の十勝岳、阿寒岳(雌阿寒、雄阿寒)、知床系の斜里岳羅臼岳札幌近郊の後方羊蹄山、他幌尻岳利尻岳の九座を数える。その内観光も兼ね比較的楽で時間的制約の中登頂可能な旭岳と十勝の二座単独登山に狙いを定め旅行計画を練った。先ず問題点の洗い出しである。

1、23日で観光も出来る時間があるか

2、どこの空港に降りたらよいか

3、費用は49800円以内で行けるか

4、安全な山であるか

1については仕事を休める限界

2は広い北海道で旭岳、十勝が半日以内の移動可能な空港があるか

3はまともに航空券を買えばそれだけで予算が終わる

4北海道の山は2290mの旭岳が最高峰で標高は低いが緯度が高い為気象は本州の3000m峰に匹敵9月半ばには初雪となる。

これらの条件から到着空港は旭川空港が必然でありオフシーズンの9月(冬山には少し早い)に格安北海道ツアーを探すことになった。インターネットで格安北海道ツアーのキーワードを入力、日本旅行の赤い風船がヒットした。先ず基本料金23日占冠アルファーリゾート朝2食つきウイークディ29800円が目に付いた。
オプションは羽田駐車料
3日間6500円夕食バイキング4270円が予約前払い35002日目1食とレンタカー3日間乗り放題10,000+千歳空港乗り捨て料4500円復路飛行場新千歳変更料+12000円増しで決定お金を早速振り込んだ。参加4人で割ると140550円諸経費を加えても予算内の旅行は可能であろう。

913日(火)羽田発1055JALにて旭川へ1時間30分の機上の人となった。到着後レンタカー借受の契約早速旭岳温泉登山口に向かった。雲の多い天気予報に反した今にも雨の降りそうな中ロープウエー駐車場に着いたとたん大粒の雨が降り出したところに下山者と遭遇、山頂付近の様子を尋ねたところ稜線は大荒れで30mぐらいの強風が吹き荒れ視界はゼロとの事旭岳登山はあっさり諦めることと成った。

そのまま国道
237号線経由美瑛へ向かい眼下に広がる雄大な田園風景を楽しんだ後フジTVのドラマ寺尾聡主演「優しい時間」の舞台になった富良野プリンスホテル敷地内の喫茶店「森の時計」に立ち寄り文字通りの優しい時間を過ごした後今日明日泊まる占冠のアルファーリゾートへ車を走らせた。

富良野市から目的地まで
1時間30分暗くなり掛けたR38の真っ直ぐにのびる広大な森の中じっと路肩で私達を見ている蝦夷鹿や北狐にびつくりしたり感激したりしてホテル近くの食堂で夕食を摂り730分頃ツインタワーニ棟が照明に照らされている広大な敷地を有するホテル群の一角にある指定ホテルに到着した。

凡そ物事の価値判断は費用対感激度で決まる。いくら素晴らしいホテルでも宿泊費が高ければそれほど感激はしないだろうし安い費用で期待以上の豪華さ、内装であれば感激度は高いものがありすごく儲かった気になる。今回の宿は正に後者にあたり旅の疲れもすっ飛んだ感じであった。

フロントに明日の天気を尋ねると曇りから雨との由、週間天気予報の快晴からとんでもない天気に変わっているのである。大陸に向かった台風15号が朝鮮半島寄りに向きを変え上陸後温帯低気圧になり強い偏西風に乗り一気に北海道上空に達したらしい。

部屋に入り明日十勝岳に登るか観光で諦めるかどちらでも対応できる様支度を済ませた。翌朝は5時出発の為朝食はホテル準備の弁当を受け取り定刻出発深い霧が周囲を包み冷たい雨がシトシトと歩道を濡らす最悪の天気であった。事前に調査した十勝岳遭難の事例が頭を過ぎる。天候不順時山を甘く見ての事か知識不足なのか判らないが山中での疲労から来る凍死が幾例か報告されている山であるからして阿寒、釧路方面の観光に残念ながら急遽変更となった。

もし阿寒湖にある雌阿寒岳が霧になっていなければ登山資料は用意しておいたので登れば良いと微かな期待を込め道東道高速を使い足寄経由2時間30分後現地到着したがオンネトウ湖畔近くの雌阿寒温泉登山口でも雨は降り止まずホテル近くよりも更に温度が下がっており完全に諦め釧路湿原散策の為さらに南下、湿原展望台に立ち寄りハイキング情報を手に入れ雨に打たれての冴えないハイキングをとなった。私としては信州の高原湿原の方が数倍素晴らしい感じがしたのは負け惜しみ気分が多分にあったのだろう。


当日は早めにホテルに帰着。明日は当地は快晴らしい。15時15分新千歳空港発の飛行機に乗らねばならない為明日の登山は時間的に無理があり今回の十勝岳は諦めざるを得ない。唯天候不良の為山の全容を見ずして立ち去るのはいかにも残念。快晴であれば当初予定の美瑛町登山口望岳台に立ち寄り十勝連峰の全容だけは見ておかなければならないのだ。

夕張経由千歳へのコースをまたまた変更上富良野へ戻り通称白樺街道に急ぐ事となった。
登りカーブのピークに差し掛かると突然噴煙を上げる十勝岳の噴火口が車窓に飛び込んできた。初日富良野街道からの十勝岳は上半分が雲に隠れ冴えない風景だったが今日のそれは光に溢れ噴煙を青空にたなびかせ威風堂々存在感を示す山に変貌していた。

望岳台からは十勝岳を真ん中に左には美瑛、美瑛富士右には上ホロメットク山富良野岳が雄大な裾野を広げ素晴らしい正に北海道の山々が展開していた。旭川方面には旭岳が噴煙を上げその奥にはトムラウシにつながる山塊が静かに佇んでいたのである。ああこの山岳風景を見る為北海道まで来たんだと一人頷き心其処に残し千歳空港へ向かった。



望岳台

美瑛の丘
心と言語

人と動物の基本的違いについて時々考える時がある。
先ず身体的には直立二足歩行が人の大きな特徴である。遠き昔人が森から平原に移り住んだ時立ち上がる有利さを学習して以来脳及びその収容器具である頭骨の安定化が進み脳そのものが質的量的に飛躍的に進化したと言われる。

もし動物に心のようなものがあるとすれば感覚器官の捕らえた感情的なものだけだろう。例えば猫が陽だまりで気持ちよさそうに昼寝をしている顔を見ていると彼が本当に今幸福?なんだろうなと思ってしまう。

しかし猫自身そう思うことはないのだろう。人の場合寝ている時にでも良い夢を見れば笑い声を出したり心地よい感覚に生きている喜びの実感を言葉で感じ表現できるのである。

考える力即ち言葉が使える事も人の特徴である。
別な言い方をすれば心と呼ばれるものが人には有る。思うと言う働きは言葉(言語)そのものであり更に換言すれば言語は人の精神そのものである。

人は1人では生きることが出来ない社会的生き物であり、遠く狩をしていた時代からグループで力を合わせないと獲物をとる事も出来ないし時には命を失う危険もあった。作戦を練ったり狩に必要な武器を考案したりその情報を伝達したりする事は自分たちの生存をかけたとても重要なことであった。

狩の時代は食料調達自体とても不安定であり平原に入り野性の麦等の穀物を栽培する技術を習得してからは生活は安定し更に言語の重要性は増していったが脳の進化が言語自身の進化を可能ならしめた。人の心の働きは不思議複雑に満ちている。

それは言語自身が複雑微妙な働きを持つ事に他なら無いからである。言語はその共同体の中で普遍的な意味を持ち空間的共通意味性と共に時間的情報を包含している。今話している事は死者達が話している事でもあるし未来の人達が話しているとも言えるのである。またこの様な意味においての普遍性とは別にとても個別的な意味合いをも持つ。

普遍的な言語を使い一人々が考える事の内容はとても個別性に満ちている。私自身の考えることは私そのものであり断じて他人では無く自我そのものである。
この様に普遍性と個別性を併せ持つのが言語であるが人が体験直下に経験する言葉にならない言葉、言語以前の根源語と言うものがある。

山に登り苦しかった山道から頂上に出た時に味わう感動や素晴らしい景色が突然目に飛び込んだ時言葉にならない言葉が出ることがある。それはあーだったりおーだったり全く意味が無いといえなくもないがそれが言語以前の言語である。
その後意識化が始まり素晴らしいとか大変だったなーとか景色はいいが山頂自体はつまらないとか様々な思いが駆け抜けてゆく対象化がはじまる。

対象化とは差別化のことであり自然本来の姿が言語により抽象化されてゆくのである。抽象化とは概念化と同義であり言語で説明すればするほど本質が隠蔽され分からなくなると言う言語自体が持つ限界もある。私達の身体は環境からの栄養を摂取して成り立っているし心の働きも身体の一部である脳細胞によるもであるからして環境そのものである自然が無ければ人は生きてゆくことは出来ない。

人は生かされ生きる自然そのものとい言われるのも当然の事実である。ただ心のより深い働きを精神と呼べばより深みのある言語が精神であるとも表現できる。生命の発生以来それを可能ならしめた自然の目的意思が言語の根源である。先のあーとかおーは意識して言った言葉では無く心から出た一瞬の言葉であり普遍性、個別性の分離以前の根源語であり自然が発する目的意思本質を人が感知しそれと同化した瞬間でもある。

自然を神仏と置き換えればそこから繋がる言葉は神の声仏の意思となり個別的でありながら普遍的な意味合いを持ってゆく。生命の母昇り行く太陽におもわず合掌するのはその神性(自然の目的意思)を直感するからである。いわゆる人の精神性とはその様な心のあり方を指すのだろう。

発展肥大化し自然破壊が進む現実世界でストレスに悩む時人が自然との一体感を直感出来る山登りは単なるレジャーではなく無心になれると言うか山を見れば山になり花を見れば花の心に転じて行ける古来から語り続けられて来た禅の心、東洋の心を体験出来る経験の場所でもある。
山に何故登るのと問われればこの様に答えるだろう。言葉に成らない真の感動を味わえるから。と

(禅の心。。。心を言葉で表せば知:知覚 情:感情 意:意志でありその未分以前統一状態
が体験直下である。体験の対象そのもの万物、自然が自己自身に他ならないという自覚の有り様 万物と自己は同根) 

与えられもの



DNA構造モデル

私はよく究極存在とかその目的意志という言葉を使う。超越的な絶対者という意味にとればそれは神仏でありその意志である。合理的立場に立てば創造的な力(エネルギー)とその方向性という意味合いでもある。

始原唯の一点であったこの宇宙のビッグバンエネルギーが熱に打ち勝ち重力、電磁力、核力等に分離して物質の究極素粒子から原子、分子の生成結合へと変化させ物を形作っていった力学法則を指すがその働きには生成、安定、生滅と意志の様な方向性があるからである。

細胞膜の形や
DNAの二重螺旋の構造などそこに働く力(主として電磁力)の不思議さは法則性のある物理,化学的反応とはいえ私の理解力を超える。そこに超越という宗教的問題がうまれる。アミノ酸からたんぱく質へそこから細胞への過程は確率的には生成不可能と思われる複雑微妙な問題があり、進化論だけでは説明がつかない。

ゆえに創造論も完全否定出来ないのである。創造論といっても神が全てを作り上げたという神話的創造論も受け入れ難い。結論の出ない問題を自身で納得しようと思えば進化論、創造論双方が矛盾しない考え方に落ちつかざるを得ないのである。

程よく調和され私達の生存のベースになる与えられしこの自然があったからこそ生命が生まれ、何らかの意志に答えるかの様に生命が進化を遂げてゆく。この与えられた自然と生命の意志を単にエネルギーから質量への転換といった物理法則だけでは捉らえきれない何かが残るのである。

もし生命を含む宇宙が最も安定した形に進化していく過程にあるとすればそれを可能ならしめている意志の様なものは宇宙の誕生以前から存在していたことになる。

大自然の統一力を全体意思と名ずければその目的はものを現わそう、形づくろう、進化させようでありそれの一つである私達生命もその目的意志に適う生き方をしてこそが本来の有り方である。与えられし自然、与えられし命、この様な与えられているという事実を一人々が深く考える事はとても大事なことである。

物質論的な生き方の行き着く先は質量からエネルギーへの転換生滅となんとも夢の無い事になってしまうからである。


題名は忘れたが以前NHKのテレビで熱帯のジャングルで水溜りに産み落とされた蛙の卵がお玉じゃくしに変身する前如何に外界からのストレスに対応し自身の生命を守っているのかを紹介した番組があった。

細胞分裂を繰り返し大きく成長した卵は(この状態が卵と呼んでいいのか分からないが)ほぼ球形で半分がお玉じゃくしになった時腹の部分にあたる白色の部分と背中になる黒色の部分に見事に分かれている。樹間から陽光が差し込み卵を照らすと今まで白色の部分が突然ひっくり返り黒い部分が上になってしまった。

紫外線から細胞を守る為の見事な適応力である。成長してお玉じゃくしや蛙になれば日差しを避け物陰に入るとか土の中に潜れるが卵には場所を変えるような運動能力が無い為姿勢を変え生体に害を及ぼす紫外線からわが身を守る術を本能的に知っているのである。

太陽エネルギーはこの地球の温度を生命が活動できる範囲に保持し、光合成により酸素を作り、生命の新陳代謝を促進する言ってみれば生命の母である。

地球との位置も絶妙な距離関係にありその総体の熱量が僅かに変動しても地球環境に重大なダメージが加わる。

このように微妙なバランスの上に成り立っている宇宙の在り方や生命の神秘や進化の能力にはただ々驚くばかりである。

生命がバクテリヤから複雑な生命体へ進化してきたのは激変する環境へ対応する為に突然変異を通して行われる。環境に有利な形質を獲得した個体群が従来の種を結果として駆逐し繁栄して行く。言ってみれば環境があらゆる種の進化を促す進化の圧力即ち進化圧をその意志の様に生命に作用している。個々の生命は生成、生滅を繰り返しながら種としては一途に進化の方向を目指している。

この様な生成生滅をどの様に捕らえたらよいのだろうか。あるもののある瞬間というのは何かに成りつつある状態であり決して固定した状態というのでは無い。有るといっても間違いであり無いといっても間違いである。存在するものは全て有無を超えたものであり有無的存在である。故に生成は単に有るではなく生滅は無でもなく古人が成るとか生の文字を使う意味が理解できる。

エネルギー保存の法則からみても生成はエネルギーから質量への転換であり、生滅は質量からエネルギーへとその総体は不変である。般若心経でいう不生不滅とはこの辺りの事を表現しているものと思われる。

仏教の基本教義の一つに縁起と言われるものがある。縁りて起こる原因と結果の法則である。因としての進化圧があり、果として進化がある。更にもう一つ空の概念がある。ものの本質には実態が無いとという意味であり宗教的には執着を離れ苦からの離脱を説く概念である。

先の縁起の根本原因が空である。空自体は不生不滅の非縁起的のものでありながら縁起の根本主体であり端的に言えば進化圧そのものである。目にも見えず理解を超えたものでありながら厳然と存在し生命の進化を促す進化圧こそが空と呼ばれるその実態である。

先に進化圧は環境そのものと表現したが
環境とは自然であり宇宙であり神であり仏であり空であり創造の力であり不変のエネルギーであり生命そのものと置き換えることが出来るのである。

サイボーグテクノロジ

ここ数年サイボーグテクノロジーの進歩は目を見張るほどらしい。電極を埋め込んだ脳から取り出した脳波(パルス)をコンピュータへ送り込み体に装着した義手をコンピュータからの信号で筋肉を操作させ失われた物を掴む機能を回復させたり、人工耳骨を頭に埋め込み補聴器で拾った音を脳に直接認識させ発音できるようになった。
小型カメラの映像を信号化し直接脳に送り脳の視覚野で映像を認識する試みも既に始まっている。身体の機能を欠損した人にとってはその機能回復は朗報であろう。人の生理は微妙な働きがあり、例えば冷熱感知の場合皮膚細胞が温度検知のセンサーであり神経経路を使い情報を脳に送る。脳は結果として鼻にクシャミの信号を送ったり汗を出させたりする。

それでも体内調節がうまく出来ない時暑いな、寒いなと思い服を脱いだり重ねたりする。仮に指を全欠損し指先が温度検知の能力を喪失したと仮定する。欠損した部分にマイクロチップを埋めその部分が熱い物体に触れた場合脳がその物体から手または腕を引くよう命令を出せば火傷は免れる。

この様に良い事ずくめのように見えるこの技術も大きな問題を抱える。それは倫理的問題である。センサー、信号、神経回路、脳の思考の手順をショートカットして人工的なセンサーの人工的な信号を脳自身が思考しないで腕や手の筋肉細胞に指令を出してしまう点である。

思考しないままで脳が反応する事はいい意味で考えれば脳の進化かもしれないが脳自体が外部信号だけで支配されてしまうと言う危険がある。軍事的に活用すれば人への思いやり、愛情を感じる脳のある部分を麻痺させ興奮して破壊する事に喜びを感じる脳のある分野に刺激を発信すれば凶暴かつ強烈なサイボーグソルジャー(兵士)を作ることが出来る。

人のもつ倫理や理性を退化させ動物のような兵士が戦争を始めたら結末は語るまでもない。生理的コントロールまでを可として思考を省くことを否としても多分その線引きは難しいものと思われる。


彦根藩祖井伊直孝

私の父方の祖母の実家焼津市中里地内の村松宅に井伊直孝朝臣産湯の井戸なる史跡がある。石柱と産湯の水を汲んだとされる井戸跡が保存されており近年整備され綺麗になったが子供の頃父親の自転車に乗せられその史跡を見に連れて行かれたことがあった。

その時の父親の説明では徳川四天王の一人井伊直政がある戦いの折駿河の田中城に滞陣、その時村松家の娘が奥女中として御殿に上がっておりお手つきとなって自宅で出産した男児が後の二代目となった直孝であるとの事であった。

身分低き者が母親のため井伊家を離れたが家康武蔵転封の折(1590年8月)箕輪
12万石の大名になった父直政と六歳の時正式に対面したらしいが諸説があって定かではない。直孝六歳当時1596年には秀吉の天下統一が完成し翌年には朝鮮へ出兵している。

誕生前の1589年家康は駿河を始め自国領五ケ国の総検地を始めており翌1590年2月家康軍は北条氏討伐にも出陣しているから重臣の直政も駿府在住の家康を訪ねたり自軍の東進の為藤枝田中城や当地には幾度となく滞在していたものと思われる。

父親の話していた戦が小田原攻めであればこの話は真ぴょう性が高い。(田中城は1573年3月武田より奪い取った城で家康騎下の武将高力清長なる者が入城し以後不明な点が多く1601年旗本の酒井忠利が一万石で入封、その間は徳川直轄領的な土地であったのではないか。故に家康の重臣たる直政は田中城への出入りが自由に出来たのではないかと思われる。)

他の伝聞では箕輪12万石の大名となった直政が東海道岡部宿に逗留の際夜伽に差し出した娘が当該の母親であったり(年代に矛盾)、男子誕生の時正妻の嫉妬のため井伊家を離れたとか諸説紛々であるがあまり信用出来ない話である。中里地内にある若宮八幡宮の社は直孝出生の地として直孝自身が建立したとの伝承がある(1627年若宮八幡宮を再興し自身の産土神として認知、寛永の三筆と称された松花堂昭乗に書かせた棟札を奉納している。)

いずれにしても成人のおり病弱の兄直勝の名代として参陣した大阪冬の陣で手柄を焦り真田幸村の真田丸をごり押しし手痛い敗戦を喫している。その後の夏の陣では大阪方の有力武将木村重成を討ち取る等武功をたて正式に家康から家督を継ぐ様命令を受けた。父直政居住の佐和山城から彦根城初代当主へと転進し徳川譜代大名一の35万石の大大名となった。(内5万石は徳川預かり領)。父親が言っていた井伊家では直孝を二代目先祖として尊崇していたとの意味はこの様な経歴を指していたのだろう。

井伊家所領の益津郡方の上庄の存在(遠州井伊谷が支配地の井伊が駿河の益津郡に何故所領があったのか不明であるが続地の中里の村松家は庄屋として所領管理の任についていたのでは?)産湯の井戸跡、井伊家寄進の社、井伊家からの古文書等から村松家ゆかりの娘が直孝を生んだのは紛れも無い事実であろう。

しかし遠州井伊谷の一豪族に過ぎない井伊家だが今川の内紛に関わり今川氏真により所領を没収、流浪の末家康に見出され家名を復興し徳川幕府の大老職を拝命されるほどの名家になったプライドが二代目先祖として尊敬された直孝の出自を意識的に隠していたのではなかろうか。私の父親も一族が語り継いだこの話を聞き歴史好きの子供であった私に語り継いだものと思われる。

伝聞、風聞

若宮八幡宮

祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと)。当地で誕生したという彦根藩主井伊直孝が寛政6年1794)?に武運長久を祈願して八幡宮を進請したもので、それを実証する棟札(むなふだ)を所蔵する。ご神体は、馬上の木像といわれている。年代が全く合わない)

井伊直孝(いいなおたか)・産湯の井(うぶゆのいど)

井伊直孝(彦根藩の祖。)(1590〜1659):直政次男。1615年、病弱だった兄に代わり、家督を継ぎ、兄に3万石分与し、15万石で近江彦根藩主となる。大阪の役の功により、5万石加増、さらに、1617年、5万石を加増される。1626年、5万石加増され30万石となる。徳川家康に信任され、関ヶ原の戦いで勇名をはせ、16武将の一人といわれ、彦根藩主となった遠州井伊谷城主井伊直政(15611602)が天正18年(1590)の夏の東進途中に側室がこの地の新村?五郎右衛門方で臨月を迎え、直孝を出産した。このとき、屋敷の西方にある井戸の水を沸かして産湯に使ったことから井伊直孝・産湯の井と呼ばれるようになった。(この時は箕輪城主として下向途中か。しかし新村姓など聞いたことが無い)

於阿吾さま

 松平周防守の娘が井伊直政のところへ輿入れした時に、於阿吾(おあご)は腰元としてついて行きました。遠州浜松から上州箕輪へ行ったのです。ところが数年ののち於阿吾は直政の子をみごもってしまうのです。

井伊家はどのように揉めたのか、ともかく彼女は身を引いて、駿河の益津郡にある実家へもどります。(藤枝の小川国男氏エッセイより。。。直政が箕輪城主になったのは1590年であり8年後1598年には高崎城へ移っている。

於阿吾という腰元が数年後に直孝を生んだと証する小川氏の記述にも矛盾がある。直孝の生年は1590年)また12歳、1602年に親子対面し箕輪城に引き取られたとあるが直政は1601年から亡くなる1602年三成亡き後の佐和山城主として彦根に在住していたのでこの点にも間違いがある。

余談

直政、直孝父子の軍事的貢献は徳川幕藩体制確立をサポート。しかし歴史の皮肉と言おうか関が原の戦いで戦場離脱を図る西軍島津に対し阻止を挑んだのは井伊隊であった。時移り幕末の鳥羽伏見の戦いで武田の伝統を受け継ぎその象徴であった赤備の甲冑、具足を脱ぎ捨て一早く薩摩(島津)の攻める前線から離脱、遁走したのは井伊の軍勢であった。



固定観念

一億光年のX星という星があれば今見ているのは一億年前のX星の姿である。縦軸に距離横軸に時間をおけば単位時間当たりの光の移動距離を示すことができ、横軸を空間距離として3次元的に表すと図のようになる。空間の歪みがなければ地球からの距離に反比例し、X星の大きさに比例したおおきさで地球上で確認できる。それが爆発による光であれば今現在X星はかけらやガスとなって存在していない。存在していないものを見るという事も不思議な事である。

日常的経験のなかで言えばまるで映画を見ているのと同じである。過去を見ると言うことは時間を遡ることであり時間軸ではマイナスである。現実にはこの様な事はあり得ないので私達は虚像を見ていることになる。

水面に落とした石により波紋が生じる。その波紋の広がりは投げ入れた石の潜在エネルギーの大きさに比例する。最初の一波を起した水自身は静止したままで波の振動だけが水に共振して移動して行くだけなので水からみれば最初の波と終わりの波は同じではない。

水からみれば静止、波からみれば連続となる。波動であり粒子でもある光も水波と同じである。光波は次から次と伝播してゆくので一億年をかけて地球に到達した時最初の波は既に消滅している。

時間を遡るというのはこの様な事を意味する。この様に時間軸を無限大的に引き伸ばすと在ると思うものが無く、無いと思うものが存在したりして時間をはじめ如何に人間の固定観念があやふやなものであるかが判る。

固定観念では時間は流れるもの、経過するものと理解しがちであるが正確には静止しながら連続するもの、経過しながら止まるものであろう。(時間は空間の変化を表す尺度で人間の意識上のものでその様な実体があるのでは無い。

X星からの光エネルギー-電磁波-が不変一定なものであればX星からの円錐の軌跡のどの部分を切断しても金太郎飴の様に同じ図柄が確認出来るだろう。時間が一方向に経過するものと錯覚するのは人間の記憶という脳の生理によるものである。

電磁波が網膜の原子に衝突すると電子が飛び出し:光子と電子の交換:脳の視覚野へ電気信号が送られ像を再現、それが海馬に順次保存される。)

時間的永遠と無限の空間が交わる現在此処、絶対現在に於いては意識の経過による一切の観念もなく
時間即空間が成立する。経過する時間がなければ変化する空間もない。

ただ在るのは無始以来の現前に広がる空間に働くエネルギーが姿を変えつつ演じる多彩な現象というドラマのみである。そこから全てが生じまたそこへ帰り着く。水は液体から気体へ時には固体へと変化を繰り返すがその本質は不変であり須らく自由である。

人の生き方は時間そのもの、時間に限定され制約され自由さを失う。時々には時間を忘れる生き方も大切な事と思う。

存在するものの全ての根源であるエネルギー体とは重力、電磁気力、原子核力、粒子間力の四つの力である。本来的にはこの力は統一力であったという。この力の作用によりあらゆる現象が生まれる。宇宙の誕生から生命の誕生進化に至る膨大な歴史や複雑微妙な在りかたにそれを人は神性、仏性として感知するのである。

自己とは

考える葦」「我思うゆえ我」とか道元の「自己を知ろうとすれば自己を忘れろ」また哲学者西田幾多郎の「絶対矛盾するものが自己なり」宗教学者であり禅者の久松真一は「無相の自己」を説く。自己とはつまるところ心とは何かと同義であろう。


有限でありながら無限を願う自己の心、価値ある生活を送りたいと思いつつ惰性日常の自己の葛藤、この様に心には生と死、価値と反価値の対立がある。心の働きとは知覚、感情、意志の総合的表れであり人の基本的苦悩とは生と死の矛盾を真に知ることであり、その解決の不可能さが苦悶となり意思的にはディレンマの状態とる時である。


古今の博識はこの様な問題にどの様に答えてきたのか。達磨はその弟子慧可に対し「おまえの心を此処に出して見ろ、そうすればお前に心の安心を与える」といい臨済宗中興の祖と云われる白隠は「一度死んでみろ。二度とは死なない」という。

煩瑣な禅の公案は興味があっても現代人にはなんとなく馴染めないものがある。わが国最大の思想家と云われる道元にいたっては「心を忘れた時真理自体がおまえになる」いわれてもなす術も無い。現代語で語られる西田の「絶対矛盾的自己同一」の論理も難解である。

一般的に人は否定的自覚に陥った時宗教的にならざるを得ない。久松真一はその未完の書「起信の課題」の中で「生死の対立は人にとって絶対対立である。人間自身この対立を統一できない。しかしながら絶対対立が現れるところにのみ絶対統一が可能になる。それは絶対他者によるものである。人が絶対否定される時真実の全体的人間が蘇る.。すなわち絶対他者はそれ自身の真実態を絶対否定された人間に於いてそれの絶対自者として現ずる。」と述べる。これも難解である。

ここでいう絶対対立とは生と死、価値と反価値の妥協の無い対立を示す。日常生活の中では意識しない二律背反、人間存在の究極が示されている。西欧思想の根底にある二元論に対し東洋ではものの存在の在り方は二つの対極を含みながらそれ自体は統一された一と捉える一元論である。日常を生きる自己(自我)に対して本来の自己(真我)という二つの自己があり分裂をしながらもそれは一つのものとみる一体不二論である。

分裂したものを一として捉えることは人間自身では出来ないと言うのである。統一出来るのは絶対他者のみであると断定している。ここでの絶対他者とは本来の自己、真我のことであり分裂し苦しむ自己の対極にいる苦しまない本来の自己が対立を統一出来ると言うのである。
その本来の自己が生起(自覚化)する条件として自我の絶対否定がある。言葉尻を捉えても絶対に自己ではないと思えば絶対の他者である。これを判りやすく光と影に例えれば影は光の本来的働きであり影が光を作るのでは無い。

光である真我の働きとして影である自我が現象として(実体の無いものとして)存在しているにすぎないと言う事である。
実体の無いものであるとの意味は絶対否定と同義でありその時本来のもの真我が本来の自己として働き出すのだろう。

西田はこの事を「あたかも球が回転する如きに自覚の転回がある」と言い、久松は「私は死なない」言う。人間の限界性、有限性を突破して生死を超えた自覚の表明であろう。
己自究明が禅の眼目であるならその論理的手懸かりを得る久松論文は大変参考になるものである。

下線部分 日常を生きる自己は肉体という形があり精神的にもある形にはまった拠りどころを持つので有相の自己と呼ぶ。本来的自己は空なるもの無的主体としての能動的創造的力(エネルギー)ゆえ目にも見えず形無きゆえに無相の自己と呼ぶ。

金   峰   山


廻り目平 登山口 西俣沢登山口登山標識
長野県南佐久郡川上村は長野山梨に県境を接する百名山金峰山の主要登山口の一つである。
この村の特徴は奥秩父連山と八ヶ岳に挟まれた高冷地の特徴を生かしたレタスの生産で、その額が日本一を誇るばかりではなく秀麗な八ヶ岳の峰と金峰山を始め奇怪な岸峰の山々の織り成すユニークな風光である。

人と呼んで日本のヨセミテ渓谷と称された風景を愛する人は多く何より私もファンの一人である。昨年山仲間と共にこの登山口を利用せず山梨県牧丘町へと抜ける林道を進み車が通る道では最高点といわれる大弛峠に駐車して奥秩父山塊の稜線を進み朝日岳から対面の金峰山を見ながら時間切れの為山頂に到達出来ず撤退した経緯がある。

その帰路林道脇の白樺唐松林の見事な黄葉が忘れられなくて今回再度の山行となった。金峰山は古来から山岳修験道により開かれた山でその名は修験道のメッカ吉野山金峰山寺(キンプセンジ)に由来する。

面白いのは長野県側ではキンポウザンと呼び山梨側ではキンプサンと呼ばれる点である。その事について調べたことは無いが私の勘では山を開いた修験者が山梨県側の人間であり、主として山梨側の人々がその特異な山頂の岩峰(五丈岩)を大日如来の化身である蔵王権現の降り立つ場所として尊崇したのではないかと思っている。

その証拠に山梨県側に金峰神社なる社があり奥宮たる金峰山を遥拝出来るようになっているからである。そして信仰の対象として山岳密教の聖地の寺と同じ名前をつけたとものと思われる。山岳修験道は日本古来の神道が主として真言密教系のの仏教と結びつき日本固有の宗教として発展した経緯がある。

彼の空海がその師恵果から師々相伝の印可を受け密教を中国から持ち帰り真言宗を開教。以来日本仏教に多くの影響を与えたが彼が全国を歩き修行した地点で数々の奇跡を起した伝説が語りつがれている。特に多いのが温泉の場所を錫杖で探り当てたと言うものである。

この話は空海弘法大師の宗教家としての偉大さカリスマ性を高める為後世の人々が作り上げた伝説であろう。しかし現代では温泉の水脈のある岩盤地帯に金銀、水銀その他の希少金属等鉱物資源の鉱脈がある事が知られており鉱山技術の高い知識を持つ空海が時の権力者の庇護を受けるよりは自己の宗教的純粋性を保つ為各地の金属鉱脈を捜し歩きその収益から自力で高野山を建立した秘話がある。

その鉱山開発の副産物が温泉の話であった。山梨県の奥秩父山塊には岩山が多く名前を知っているだけでも昇仙峡の山、小川山、御座山、瑞垣山、金峰山がありそれらの山裾を結ぶ林道が今では名前をクリスタルラインと変え有名なドライブコースとなっている。

その名の通り水晶の鉱脈が走りこの地帯は古来より有名な水晶の大産地である。またそれを使った工芸が盛んな土地でもあった。
この様に山岳密教と結びついた山はなんらかの鉱物資源と結びついた所が多く山岳宗教、金峰山(金峰山寺)、山頂祠、水晶(鉱物資源)とは一つの線で繋がっていると思われるのである。

深山に分け入る修験者とも山師(鉱山師)とも見分けがつかない人達により山が開発され(金、水晶鉱脈)その経験技術が中世の築城術、河川土木等に伝承されて行き武田信玄が抱え武田滅亡後家康が重用した甲州金山衆の元になっていったものと思われる。

この記述は文献で調べ上げた事ではなくあくまでも私の空想である。よって正確性は責任を持てないが登山の折この様な事を考えながら登るのもまた一つの楽しみである。
*戦国時代に於ける武田の土木水準は抜きん出ており笛吹川の信玄堤の建設領内の隠し金山の開発は有名

禅の思想

左 道元禅師
曹洞宗をひらき、永平寺の開祖となった我が国最大の思想家といわれる


右 雪舟画 国宝
達磨慧可断肘図
己身究明、不退転の決意を示すため自分の肘を切り達磨に弟子入りを請う慧可
大徳寺塔頭龍源院静的な素材を使い動的な禅の世界を表現する枯山水庭

私は神社仏閣を訪れるのが好きだった。過去形で書き出したのは今は昔ほどでは無いという意味である。特に禅宗寺院が好きで石庭の持つ簡素な美しさの中に見え隠れする幽玄とか神秘性に心引かれ何時か自分で作庭したいものと思い続けてきた。

その鑑賞研究のため京都には随分かよっものだった。大徳寺本坊の矩形の白砂の中に配置されたたった一本の小さな椿の木の情景は今も鮮烈な印象を保つ。

余り通俗的な宗教とか信仰には関心が無いのに文化としての宗教には関心が深い私であるがその中でも禅の持つ文化性精神性に魅かれ今に至っている。枯山水庭の持つ美的要素とは何か、作庭者は何を表現しようとしたのか興味が尽きることは無かったのである。

日本の文化に大いなる影響を与えた禅とは禅の精神性とは何であろうか。禅はインドで生まれ中国で進化し日本で大成したといわれる。その歴史と思想の概略を述てみる。

禅は古代インドの言葉でジャーナといい静慮、集中を意味しそれを音訳した漢字が禅である。それへのアプローチは学と行があり、学とはあらゆる存在が現象であり実体の無いものと観察しその差別相を如何に統一し自覚化出来るか理性的に学ぶ事である。
例えば影を見て光の存在を知るが影と光は別々のものでありながらこの二つは切り離す事が出来ない。光を本性とし影を自性とすれば本性自性一体不二であると知ことである。
行とはあらゆる差別相を座すことにより超越することである。腕足を交差し座ることは二足で立つことを止め人間らしさを捨てより動物的になること理性を捨て去る行為である。上下、左右、心と体、生と死等の差別意識を離れるという行為実践である。これらの学行を一体化して系統化したのが禅宗といわれる集団である。

古代ギリシャ文明の影響を受けたと思われるインドの地で生まれたゴータマ(釈迦)は自己の実在に悩み若き日出家の身となり「縁起の法」「諸法無我」を説いたその難解な哲学故にインドではヒンヅー教にとって変わられたが東の中国では老荘思想の文化的背景もありインテリ層の支持や現世利益を求める性向の強い庶民の熱き支えに急速に全土に広がって行った。

その広がり定着の中で中国的に変質してゆく仏教思想にインドからの渡来僧は大きな失望を感じその言語的制約もありゴータマブッダの説く思想を端的に表現する必要にせまられていった。

何を端的に伝えたら良いのか、それは「人間の心」である。俺が俺がと思う欲望に満ちた自我と清浄に満ちた本来の自我も同じ心の内にある「本性不二」であり形のみ知って仏教の本質、心の解放を知らねば意味が無いということである。その象徴的人物が日本でも良く知られる「達磨さん」菩提達磨である。

西暦520年中国梁の都健業に到着した達磨は国王武帝に拝謁有名な問答を交わした。武帝曰く「仏に帰依し、仏法を保護する我にどんな功徳が?」、達磨答えて「功徳なし 無功徳」、再び武帝問う「仏法の最高の真理」とは、再び答えて「知らず 不識」。ブッダゴータマの教えとは「心を集中させ、心の働きを一つに集めて来ると自分とは何か、この世界とは何かとが判ってくる」これ以外には何も無いと言う事であろう。

この話の真偽はさておき老荘の「なすことを止め自然にまかす」無為自然の土壌のある文化の中で生まれた中国文明とインド、ヨーロッパ文明の交流を物語るものであろう。水は高きから低きへ文化も同じであるが同じレベルのものが交わるとより高きものへと変化を遂げる。禅思想の系統的発展が中国の地でなされたのはこの様な時代的背景が在った。

達磨によって蒔かれた「己自究明 自己とは」の一粒の種は中国で成長し栄西、道元らの留学僧によって日本にもたらされ豊かな実りとなった。

自然と自己の未だ分らざる世界、主客未分の世界に溶け込む禅の世界観は己を捨て命を捨てるのが本分とする武士層の支持や京都五山文学能に代表される文芸、茶道建築庭園文化の創出と合いまって日本の風土の中で完成されていった。

私が惹かれた言葉にブッダ釈尊の最後の説法として涅槃経に書かれた「自灯明」である。臨終を迎えた彼が最後の弟子であり説法巡礼に付き従ったアーナンダに対して諭した言葉である。

嘆き悲しむ弟子にブッダは「悲しむなかれ、私が亡き後は自己を灯火とせよ。良く調えられし自己の心ほど頼りになるものわない」と。これほど端的に表現された言葉を私は他に知らない。一瞬の中に永遠を、不幸の内に幸福を見、差別の中に平等を悟るこの心の自由さこそブッダと称された彼が生涯をかけ希求したテーマに他ならなかったからである。

sub6 essey.htm へのリンク
DNAと生命論

DNAとはデオキシボリ核酸(Deoxyribo Nucleic Acide)を省略したもの。DNAの遺伝情報によりアミノ酸の配列が決まりその順番によりアミノ酸が結合してたんぱく質が合成されるという。

遺伝子情報を持つDNAには二種類のDNAがある。細胞核内のDNAと核外にあり細胞へエネルギーを供給するミトコンドリアDNAである。核のDNAは両親から受け継いだ夫々のDNAが一対の縄の様に組み合わさりそれがコピーされてゆくがミトコンドリアは父親の精子の運動をつかさどる長い尻尾の部分にあり受精が完了すると生滅

してしまい母親のDNAだけが生き残り継承されてゆく。そこからミトコンドリアの系統を遡ると9人のアフリカ人の女性に人類は行き着くという。人類の祖先として聖書の創世記のイヴにちなみミトコンドリア・イヴといわれている。元々ミトコ

ンドリアは生物としては独立した存在であったらしく原初太陽光からの光合成により二酸化炭素から酸素が生まれた時それを利用した生物は驚異的なエネルギーを手に入れた同時に細胞自体の酸化という問題に直面した。酸素の影響から生命

活動に必要なDNAとかそれらを作っているたんぱく質を保護するために細胞内に核をつくりその中にDAAを取り込むような進化を遂げて行ったらしいがその防御能力は完璧ではなく次に考えた事がミトコンドリアを利用することであった。ミトコ

ンドリアは酸素を使いブドウ糖からエネルギーを効率的に作る能力に長けこれを取り込みことに成功した核内DNAは酸素の毒害から逃れまた活動に必要なエネルギーの供給を受ける二重の成果を獲得した。この様な進化を遂げた原生生物が多様

な生命へと分化してその枝に我々人間が存在している。また「遺伝情報を伝達しタンパク質合成の鋳型となるアダプター分子」であるメッセンジャーRNA(mRNA)と「タンパク質合成の介在をするアダプター分子」であるトランスファーRNA(tRNA)が発見された。

専門家の意見に従えば進化初期の細胞内には、核酸としてはRNAのみが存在し、後にRNAの誘導体としてDNAが作られるようになったと考えられている。すると生命の初期はDNAではなくRNAということであろうか。素人なのでその辺りになるとよく解らない。

生命は偶然発生し進化したのか神が創造したのか、また最近唱えられるようになった知的デザイン論的(生物は偶然によって創造されたとするには複雑すぎるので、なんらかの高度な知性が働いたに違いない。つまり世界を創造したのは神だとはせず、なにかの知的な存在(デザイナー)だとする考え)なのか私には結論出来る知識も才能も無い。

最近の分子生物学の研究成果の大部分は科学的に正しいだろうしその様な論理を大事にしなければ人間の進化は社会的に停止してしまう。只いえることは無機的なものから有機的なものへ、無生物的なものから生物的なものへの初期的な変化の過程は科学では解明出来ないものであろうということである。自然界にはそれが神の領域とはいわないがその事を拒否する原理が存在しているからである。

物質がありそこには働く力があり突発的偶然的にたんぱく質の合成が行われ生命となり環境からの進化圧が加わり高等生命体の誕生があったのかそれとも進化圧そのものがなんらかの意志のようなものでありそれに応じてDNAの塩基配列を変え

うる能力を生物自身の力ではなく原初から何らの必然がありあたかも後天的に獲得した能力に見えているだけなのかどの様に考えても自由であろう。所詮理解できない事だから。この不思議さ複雑さを素直に認める気持ちの方が大事であろう

し無意識ではあるがこの不思議さの命を与えてくれた自然に対し畏敬の念がなければ人間にとっては未来はない。
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物質と形

ビッグバーンが発生し空間の膨張(インフレーション)と共に空間温度が低下し始

めビッグバーンエネルギーは四つの力に分離していったという。

高温の宇宙では物質の最小単位と考えられている素粒子であるクオークは自由に飛

び回っていたが宇宙が冷えてきて最早単独では存在出来なくなりグルーオンとい

う素粒子と結びつき(原子核内物質の)陽子や中性子となった。

更に温度が下がると陽子や中性子が潜在的に持つ強い力が顕在化して陽子と中性子

を結合し核融合し重水素やヘリウム、その他更に重い若干の元素が誕生した。

3000から4000度Kまで冷えると電磁事象を司る電磁気力(電子)が分離して中性子

と陽子の複合体原子核の電荷に捕捉され原子が誕生。

この時宇宙はプラズマ放電の世界から暗く透明な世界となり光が直進出来るように

なり重力が分離した。重力は物質同士に働く遠隔力で様々の空間物質をかき集め銀

河の形成や星を作り出してゆく。

さらに温度が下がると恒星が合成した100種類以上の原子が活動を始め多数の変化

に富む分子構造を持つものや結晶構造物をもつ個体群を発生させていったという。

さらに低温化が進み惑星系(地球)では海中の様な穏やかな環境で分子がより安定

的に結合して複雑かつ精巧な形をつくり原始生命の発生に繋がっていった。

ちょっとした科学文献を調べたり学校で勉強すればこの程度のことは理解できるが

私のような凡人が理解できないのは何故無機的で固く感情や意志とは無関係とのイ

メージがある物質からしなやかで美しい体、驚異的な運動能力を持ち意志も感情も

あり、150億光年の宇宙をイメージを出来る知性を持つ人間のような存在、(宇宙

から見たら時間的にも空間的にも塵の一片にも満たないような存在ではあるが)高

等生物が生まれてきたのかである。物質の濃い溶液からは自然発生的に結晶が出来

るがそれは無生物であり動くもの生物の根源、細胞には何かしら意識の様なものが

働かなければ自然発生的には生じないだろう。

私には何かの必然があったとしか考えられない。人間存在を知(知性)、情(感情

)、意(意思)と定義すればその未分以前の原意識は原初エネルギーの発現である

。エネルギー体そのものは不生不滅の存在であるから生まれたとか滅したとかを超

越している。素人考えながらそのエネルギー体には意識系と物質系があり物質系の

力がある時は結晶化に作用して無機的なものを合成し、意識系の力がたんぱく質等

の有機的なものを合成し生命の素細胞を作り上げたのではないだろうか。科学的に

は何らの裏づけも無いがこのように考えなければいつまで経っても結論は出ない。

何故神を信ずるのかと問われたキリスト者が「我 非条理ゆえにそれを信じる」と

答えた話がある。科学の世界でも後に書く未知の多次元世界の様相は三次元世界の

常識が全く通用しない世界と予測されており何が真実かは本当の所は誰も解らない

のが現実だろう。

ある著名な天文学者が「宇宙の中心には神はいない。存在するのはこの宇宙空間の

隅々にまで働く力学法則のみである。」と言ったことがある。

神のような知能をもち自身の生死をイメージ出来るような天才ならいざしらず凡人

には神のような存在も必要であり、そこまで考えなくても「自分は何所から来て何

所に行くのか」が人生の命題となる。

物質の究極素粒子クオークが生まれる場所は無限に存在する閉じた紐のようなエネ

ルギー体でそれが絶え間なく揺らぎながらして生み出していくという。

我々の実感できる三次元空間に時間軸が加わる四次元空間の他にまだ六ないし七個

の隠された異次空間の存在が考えられており全てがそこから始まりそこへ帰り着く

らしいがその世界は余りにも極微な世界故検証が難しくまだ哲学的世界を脱してい

ない。

以前奈良東大寺の華厳宗の根本経典である華厳経に現代科学の最先端の学問である

統一理論(ひも理論)に似たような世界観が書かれた箇所があった気がした。間違

えているかも知れないが宇宙に張り廻られた網の結び目の一つ々に夫々の小宇宙が

ありそれが連関しあいながら宇宙全体の在り方を語る多次元空間(空の思想)を連

想させられる物語である。網の目のような紐の振動により生み出された素粒子が広

大無辺な宇宙をつくっている現実をみれば二千年以上前にインドの地において経典

を編纂していた人達には「統一理論、ひも理論」に似た世界観があったのだろうか。

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首塚稲荷



私の自宅近くの(静岡県焼津市)俗称大富街道の北道原旧バス停にある首塚稲荷の

縁起をその向かいに住む母親の実弟の叔父に尋ねたことがあった。同地区の叔父所

有の畑を自宅用地として購入しようとした時法務局で当該地の資料を閲覧したがそ

の時地名の字が首塚となっていたので気になっていたからである。叔父の話では戦

国の昔武田に攻め込まれ西に落ち延びようとした今川の武者達がが追っ手に討たれ

放置された首を当時の村人が哀れに思い塚を立て供養した場所が現在の北道原の稲

荷堂でありそれから首塚と呼ばれるようになったと説明をうけた。村人が殺人を

犯したとか悪事を働いたのではなくむしろ悲劇的な死を遂げた人々の後生を弔った

清めの土地であるからして何の心配もいらないといわれ購入した。今も現在地でつ

つがなく家族共々平穏な日々を過ごしている。この街道は奈良時代大化の改新当時

定められた官道で西国から東国に抜ける旧東海道にあたる。大井川西の初倉駅から

大井川を渡渉し私の生まれた旧小川村の地蔵尊(小泉八雲の漂流に書かれた寺)付

近にあった小川駅を経て花沢の里から日本坂を越え安倍の市につながる古道であり

東国の任地に向かう中央官庁の官吏やまた東国からは中央に運ばれる産品や年貢の

荷駄隊、大陸や朝鮮半島との軍事的緊張から九州の防衛の為動員された東国出身の

防人達が行き交った古道である。駿河の守護職今川義元が不覚にも敗れた桶狭間で

敗死後今川家は一途に凋落の坂道を転がっていった。北の大軍略家武田信玄、東に

関東の雄北条氏、西には軍事的天才織田信長の圧力を受け後を継いだ氏真では海道

一と呼ばれた名門今川を支える力がなく駿河は各勢力の草刈場の様な国に成ってし

まった。義元亡き後今川のくびきを脱した家康は信長と同盟後駿河進攻の機会を狙

い信玄と密約を交わした。大井川以西を家康が以東を武田領にする内容であり以降

私達が住む志太地方も激しい戦乱に巻き込まれていく。

日本坂から府中へ
花沢山塊より府中方面 花沢城城址

武田信玄の幾度かの駿河侵略があり駿府の館が武田の手に落ちた後、1570年元亀元

年一月四日戦禍は焼津に及んだ。日本に航空路線が開かれ東京から西に向かう飛行

機が富士山を過ぎた地点から西寄りに機首を変える航空標識が立てられていた静岡

市と隣接する花沢山の麓近く日本坂に繋がる戦略拠点である要衝花沢城に対して信

玄の息子勝頼が直接指揮する精鋭部隊が攻撃を開始した。武田の先鋒は今川から寝

返った将兵で忠誠心を具体的な戦果で示す必要がある為当に骨肉の争いとなり花沢

城攻防戦は激しいものとなり城兵3000人の内生き残ったも者が僅か920名程であっ

たといわれる。その一部が氏真が駿府より落ち延びている掛川城や高天神城を目指

し旧官道を西に逃走、過っての身内である旧今川の武田先鋒隊であってみれば本来

武士の情けをかけたいのだろうがそれも出来ず追撃し小川駅を1Kmほど過ぎた冒

頭の首塚稲荷のある付近で討ち取ったものと思われる。

近年市街化が進みのどかな農村地帯であったこの地も往年の面影は無く歴史的な官

道であり日本で最初の駅制の敷かれた由緒ある東国への街道も新設された150号バ

イパスによって分断され見る影もない。「兵のどもの夢の跡」花沢城も新幹線、東

名高速の建設により大部分の遺構が消失したりして文字通り夏草に被われた「夢の

跡」化している。余談ではあるが今川氏真は家康の主筋にあたる事と掛川城を攻め

た家康に要求された開城を呑み明け渡した功により幕府創設時高家として家名の再

興を許されている。掛川城、高天神城を獲得したあと家康は遠州から駿府に至る覇

権を求め焼津の当目城や用宗の持船城、藤枝田中城を攻撃し武田軍と激しい戦闘を

続けた。焼津市石脇にある家康旗掛け石の遺構もこれ等の戦闘に関連したものであ

り、彦根35万石藩祖井伊直孝の父親直政も家康の恩義に応える為従軍この地中里の

村松家(私の父方の祖母の実家)の娘に世継ぎとなった直孝を生ませている。

(直孝出生は小田原攻め参陣の時であろう)

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小泉八雲の精神性
小泉八雲と我が町焼津とは八雲が晩年避暑に訪れた事から始まる。当地に関係する

随筆数編を通して子供の頃から馴染みの名前であった。また八雲最中なる菓子も発

売されておりご当地ソングにも八雲の名前があり全国的に通用する有名人が皆無の

ため殆んどの市民がその名を知っている有名人でもあった。子供時代夏の縁日の一

つ海蔵寺通称小川のお地蔵さんの祭典があり兄弟と連れ立って良く行ったものだっ

たがその寺に八雲が書いた「漂流」の舟板「甚助の板子」が奉納されていた。その

様なものに子供時代から興味を持っていた私からみれば八雲は遠い存在ではなかっ

たが八雲について余り知らない方の為その人生とか経歴を概略紹介してみる。

以下資料は焼津信用金庫ホームページより転載させて頂いた。

このページで私が書きたいと思っていたのは八雲自身の精神性や宗教観を推測する

為である。子供時代「怪談」や「耳なし芳一」を読み怖い思いをしたことがベース

になっているが日本古来の霊魂、霊性や怪談に興味を持つ外国人がなんとなく奇異

に感じていたからである。

八 雲 年 譜

1850 6月27日 ギリシャのレフカス島に生まれる
1868 明治維新
1869 20歳で 渡米.5年の貧乏生活の中にも勉強を続ける
1874 新聞記者になる
1890.4
(明治23年)
通信員として挿し絵画家とニューヨークを出発、横浜港着
挿し絵画家より報酬が悪いことを知り、通信員をやめる
  〃 . 8 知り合いの斡旋で松江中学の英語教師となる (40歳)
1891.2 小泉セツ(23歳)と結婚、日本研究に没頭
1891.11 松江を離れ、熊本第五高等学校に転任    
1894.7 神戸クロニクル社に入社し、神戸に移る 『知られぬ日本の面影』出版
1895 帰化し夫人の姓をとり小泉とし、出雲にちなんで八雲と名乗る 『東の国より』出版
1896.8 東京帝大(東大)文学部講師として赴任、市ヶ谷に住む 『心』出版
1897
(明治30年)
夏、初めて焼津に来る  富士登山
1899 夏、家族とともに焼津に遊ぶ 『霊の日本』出版
1900 夏、家族とともに焼津に遊ぶ 『影』出版
1901 夏、家族とともに焼津に遊ぶ 『日本雑事』出版
1902 夏、家族とともに焼津に遊ぶ 『日本御伽噺』『骨董』出版
1903 帝大講師を退く 来焼中止(心臓病にて水泳はドクターストップ)
1904. 4 早稲田大学文学部に出講 家族とともに焼津に遊ぶ
1904 9月26日 狭心症のため逝去  享年54歳

次に八雲が育った境涯と日本を訪れる事になった事情や焼津との繋がりについてや

はり焼津信金のホームページから転載させて頂く。

ハ−ンの生い立ち

 小泉八雲、即ちラフカディオ・ハ−ン(ヘルンとも言う)は、1850

年(嘉永3年)6月27日、ギリシャのレフカス島(ギリシャ本土に接

して西側のイオニア海に浮かぶ美しい小島)で生まれました。父はアイ

ルランド人でイギリス軍の軍医、母はギリシャ人でした。

 ハーンが2歳の年に父が転任となったため、彼は母と父の実家アイル

ランドのダブリンへ移ります。しかし、いろいろなことがあって、ハー

ンが6歳のとき母は離婚され、生まれ故郷へ帰ります。以後再び会うこ

とのなかった母を、ハーンは生涯慕い続けるのです。

 母と別れたハーンは、資産家で子どものなかった大叔母(父の母方の

叔母)に引きとられますが、13歳で入学したイギリスの学校で、遊戯

中に友達の持つ縄が当たって左目を失います。彼は幼い頃から強い近眼

で、その上一方の眼をなくし、以後ずっと目に苦しむことになります。

青年時代

   ハーンが16歳のころ、大叔母が破産します。その後彼は、フランス

の学校に入りますが、彼の考えに合わないことからまもなく退学、そし

て19歳の年、1869年ハーンは新天地を求めてアメリカへ渡り、ワ

シントンから西へ650キロほどにある町、シンシナティに落ちつきま

す。そこでは、始め食事も満足にできないほど貧乏な生活に苦しみなが

らも、図書館へ通って勉学に励む時間を持つことができました。やがて

その町で発行される新聞の記者となり、彼の文才は広く認められるよう

になります。そしてこの頃から、東洋について興味を持ちはじめます。

 しかし彼はそこに安住せず、1877年ずっと南、ミシシッピ川がメ

キシコ湾に注ぐ河口近くの大都市ニューオリンズに移り、小さな新聞社

に勤め、更に南部の大新聞社「タイムス・デモクラット」の文学部長と

なります。経済的にも時間的にも若干の余裕ができた彼は自らの著述や

外国文学の翻訳も盛んに行いました。またその記事を通して、彼は南部

の最も優れた新聞記者の一人に挙げられるほどとなります。


日本の“心”に触れる

 ニューオリンズでは、1884年にこの町の百年祭記念博覧会が開か

れ、日本からも美術工芸品が出品されました。ハーンは毎日のように会

場を訪れ、片方の近眼の目をこすりつけるようにして日本の出品物を眺

め、”西欧芸術にはないすばらしい優雅さがある”と感動していたとい

うことです。その会場では、日本の文部省から派遣されていた服部一三

という役人とも知り合いました。

美術工芸品を通して“日本の心”に直接触れたことが、ハーンと日本を結

ぶ上で大きな意味を持ったのでしょうが、彼が来日するまでにはまだ時

間がかかります。ニューオリンズで10年過ごしたハーンは、1887

年ニューヨークの書店「ハーパー社」と、西インド諸島の印象記をく契

約を結んで、南米の北岸に近い小島、フランス領マルティニック島へ渡

り、その地で仕事のほか著作に励みます。

憧れの国“日本”に

南の島で2年間を過ごしたハーンはニューヨークに帰り、ハーパー社

及びカナダ太平洋鉄道汽船会社と日本に関する記事を送る契約を結び、

1890年(明治23年)3月5日ニューヨークを出発、バンクーバーから汽船

に乗り4月4日横浜に着きました。この未知の国に彼は大変な興味を持

ちますが、ハーパー社との契約条件が悪く、さらに同行した画家よりも

条件が劣っていたことを憤慨して、特派員の契約を破棄してしまいます。

 それはハーンが職を失うことを意味しましたが、横浜滞在の当時米国

海軍の軍人マクドナルド氏や、ニューオリンズで知りあい当時文部省の

要職にあった服部一三氏らの世話で出雲の国島根県松江中学校の英語教

師となることが決まりました。ハーンは既に英訳の「古事記」などを読

んでいたので、神々の国出雲へ行くことを非常に喜んだのです。

ラフカディオ ハーンが何故日本に行くことになったのかまた彼がそれを何故欲し

ていたのかがこれら資料からは判然とし無い。「美術工芸品を通して“日本の心”

に直接触れたことが、ハーンと日本を結ぶ上で大きな意味を持った」とあるがはた

してこれだけであったのか以前からの私の疑問であった。

アメリカでの最初の結婚生活も破局をきたし西欧的価値観や文化に馴染めずキリス

ト教を代表とする神への宗教的疑問や懐疑が彼の根底にあったのではないかと漠然

と思っていた。彼の生まれたギリシャは古来多神教の風土があり、父親の国アイル

ランドもキリスト教が入ってくる前ケルト民族特有の宗教があった。万物に精霊が

宿り自然との共生や仏と人間の一体を説く仏教的思想は彼にとってはかけ離れた異

端の思想では無く彼の余り恵まれなかった青年期の鬱積と重なり人間と神の関係が

懸絶するキリスト教的社会で生涯を生きることは本意でなかったはずである。最近

ネット上で資料を漁っていたら得心の行く資料に出会うことが出来た。前田専学

氏が
「小泉八雲と仏教」の題で平成17年4月22日に国際仏塾で講演したものであ

る。東大の印度哲学を卒業しその方面の権威でもある先生の講
演内容は全体的に

示唆に富む素晴らしい話であったが自分達の学問的後援者の方に質問された「八雲

は仏教者であったのか」と質問され答えに詰まり後日お答えさせて頂くと言うこと

で猶予をいただきその後自身で研究されたことを話したものである。私と同じ様な

疑問を持っていた人もいたのである。

以下は博士の講演から主要な部分を引用しながら私自身の考えも述べて行きたい

。先ず昨年起こったスマトラ沖の大津波が国際語としてマスコミで英語で

Tunamiと表記されていたのは小泉八雲が明治二十九年六月十五日に実際に起こっ

た宮城・岩手・青森三県を襲った津波で死者二万人にも及んだ三陸大津波を主題

にして『生神様』 という一文を書いた。その中に「“Tsunami”shrieked the

people」という一文がありそれが欧米で出版されTunamiの国際語となった由来を

述べていたのも興味深かった。

妻せつが語った夫婦の会話に「成女学園の地所だと思いまけれども、 その学園の

近くに瘤寺というのがあるんです。 「山寺のお隣であったのが気に入りました。

昔は萩寺と申しまして萩がなかなかようございました。 お寺は荒れていましたが

、 大きい杉がたくさんありまして淋しい静かなお寺でした。 毎日朝と夕方は必

ずこの寺へ散歩に出かけました。 たびたび参りますので、 その時のよい老僧と

も懇意になり、 いろいろ仏教のお話などいたしまして喜んでいました。 それで

私も折々参りました。 日本服で愉快そうに出かけていくのです。 気に入ったお

客などが見えますと、 『面白いのお寺』 というので瘤寺に案内いたしました。

子供等もパパさんが見えないと 『瘤寺』 というほどでございました。 
 
よく散歩しながら申しました。 『ママさん私この寺にすわる、 むずかしいでし

ょうか』。 この寺に住みたいが何かよい方法はないだろうかと申すのです。 『

あなた、 坊さんでないですから、 むずしいですね』 『私坊さん、 なんぼ、 仕

合わせですね。 坊さんになるさえもよきです』 『あなた、 坊さんになる、 面

白い坊さんでしょう。 眼の大きい、 鼻の高い、 よい坊さんです』 『同じ時、

あなた比丘尼となりましょう。 一雄小さい坊主です。 如何に可愛いでしょう。

毎日経読むと墓を弔いするので、 よろこぶの生きるです』 『あなた、 ほかの世

、 坊さんと生まれて下さい』 『ああ、 私願うです』」という件がある。日本人

以上に素晴らしい文章を書く八雲の可愛いとも思える日本語の会話もいいが八雲

が仏教に対しどの様な感情を持っていたのか伺い知ることが出来る。 

話が前後するが八雲が横浜に到着した時のエピソードも紹介されている。ラフカ

ディオ・ハーンは一八九〇年の三月八日、 四十歳のときにC・D・ウェルドンと

いう挿絵画家と一緒に日本を目指してニューヨークを出発いたしました。 同じ年

、 明治二十三年の三月十八日、 カナダのバンクーバーの港からアビシニア号と

いう船に乗りまして、 およそ二週間の船旅で明治二十三年の四月四日に横浜港に

到着いたしました。 そして山下町九十三番地にあるインターナショナルホテルに

泊まることになりました。 

 ところが横浜に到着早々上陸するやいなや、 人力車を雇いましてハーンは食事

の時間さえも惜しんで、 まず寺を訪問するんです。 この寺が一軒だけではなく

て二、 三軒出てくるようでございますけれども、 その寺がどこであったのか長

い間不明とされてまいりました。 しかし最近になりまして、 それは野毛山不動

尊だとか延命院だとか言われております成田山横浜別院ではないかというように

インターネットでは教えております。 どこまで信憑性があるのかちょっと私も言

えないのでございますけれども、 そういう一つの説がございます。 それが本当

だとすれば成田山横浜別院にまず彼は人力車で行ったわけでございます。 
 
そのとき偶然、 英語に堪能な真鍋晃という青年がそのお寺にいたんですね。 二

人の間に交わされた興味深い会話が彼の作品の中に残されております。 私はいろ

んなところでその文章を紹介しましたので詳細は省きますけれども、 ハーンは当

時の西洋における最新の仏教研究について、 正確にしてしかもすごい理解を持っ

て来日したということは明白でございます。 

 当時はヨーロッパ、 特にイギリス、 ドイツ、 フランスなどで仏教研究が非常

に盛んでございまして、 その最新の知識を持ってハーンは日本に来ているわけで

す。 ところが当時日本では、 まだ新しい仏教研究というのが起こっていなかっ

た。 南条文雄や高楠順次郎といった先覚者がイギリスのオクスフォードに留学し

て新知識を吸収しに行った時代、 その時代にハーンは既にそういう見識をしこた

まためこんで、 そして日本にやってきているわけでございます。」

この話の内容も大変興味をそそられる。横浜到着後早々お寺を訪ねていることと

八雲自身が仏教に対してどの様な最新知識を持っていて真鍋晃という青年とどん

な話をしたのか、おそらく仏教に対するものと思われるが今の時点で語る資料も

ない。(後になってこの資料を調べてみた。八雲の仏教に対する並々ならぬ関心は

理解されたが八雲自身の仏教の学術的理解がどの程度であったのかは判らなかった

。只この時代難しい仏教教理を英語で話せる日本人の青年がお寺にいたという事実

には驚いた。)

当時のアメリカの思想界ではダーウインの進化論に基ずくスペンサーの哲学が知

識人を席巻していた。この思想こそ宗教と科学を融合するものと考えられていた

。彼らにとっても南北戦争をとうして精神的荒廃に直面した多くのアメリカ人にと

ってもキリスト教の終末論よりは仏教の唱える縁起説や生成発展する輪廻転生説は

とても魅力的なものがあつた。

再び先生の講演に戻ればこの時代的背景が八雲に与えた精神的影響について次の

ように述べている。 「 ハーンの伝記にはいろんなものがございます。 その中の

一つにE・スティーブンスンという女性の方が書いた 『評伝ラフカディオ・ハー

ン』 という日本語になったものが恒文社から出ています。 その中に、 一八八二

年の十月八日の日曜版のデイリー・シティ・アイテムで、 ハーバート・スペンサ

ーの社会学原理を書評したということがきっかけになりまして、 生涯にわたって

ハーバート・スペンサーという社会思想家、 哲学者に傾倒するようになったとい

うことが書いてあります。 

 スペンサーという人は大変重要な存在でありまして、 ハーン自身がそのことを

はっきりと認めております。 スティーブンスン女史は、 「ハーンの人生を決定

づけたもう一つの体験はエドウィン・アーノルドの 『アジアの光』 との出合い

があった。 これはブッダの生涯を装飾的な言葉でうたった物語詩であるが、 誠

実さは見えても生彩が欠けている。 しかしハーンには大きな影響を与えた。 書

評はすでに一八七九年十月二十四日のアイテムに発表しているが、 ハーンはその

『アジアの光』 を一八八〇年代を通じて読み続けている」 と書いております。 

 残念ながら一八八九年にデイリー・シティ・アイテムという新聞に発表したと

言われている 『アジアの光』 についての書評は入手することはできておりませ

んけれども、 その四年後の一八九三年に 『アジアの光』 の新刊を読んだときの

感想を、 ハーンがアメリカ人の親友のW・D・オーコーナーという人に次のよう

に報告しております。 
 
「君はアーノルドの 『アジアの光』 のすばらしい新版を見ましたか。 私を魅

了してしまいました。 不思議に新しく美しい礼拝の芳香で私の心は満たされてし

まいました。 結局のところ、 ある深遠な形の仏教が未来の宗教になるかもしれ

ません」 と。 ハーンがいかに大きな影響を 『アジアの光』 から受けたか。 あ

ちこちに 『アジアの光』 について彼が書いたり書評をしたり評価をしているこ

とでもおわかりになるかと思いますけれども、 ハーンはこの中で、 仏教は未来

の宗教になるかもしれないというように高く評価をしております。 

 ハーンは仏教のどんな点に関心を抱いたのかということでございますが、 彼の

作品に 「高度な仏教」 というのがございます。 これは時々、 あまり仏教のこ

とをご存じない方が大乗仏教というように翻訳されておりますが、 そうではなく

て高度な仏教程度の意味の 「The Higher Buddhism」 という小論文でありますけ

れども、 その中でハーンがこういうことを言っております。 「私はあえて自分

自身をハーバート・スペンサーの学徒と呼ぼう」 と。 

 ハーバート・スペンサーはイギリスの社会学者で、 進化論を社会学の中に取り

込んだ人ですけれども、 日本でも一時大変はやった人でございます。 ハーンも

大変大きな影響をハーバート・スペンサーから受けています。 「ハーバート・ス

ペンサーの学徒と呼ぼう。 私が仏教哲学にロマン的な興味以上の関心を持つよう

になったのは、 ハーバート・スペンサーの総合哲学に親しんでいたからである。

仏教もまた一つの進化論であるから」 というふうに書いています。 すなわちハ

ーンはスペンサーの学徒である。 スペンサーの進化論を高く評価しています。

仏教も進化論であるというところにハーンの共感を呼んだ、 一時的な興味ではな

くて、 もっとまじめな関心を引くことになった理由でもあったわけであります。 
 
仏教が一つの進化論であるというのはどういうことかと申しますと、 仏教が持

っている輪廻の思想です。 このことを彼は進化論と考えております。 先ほど紹

介いたしましたハーンの友人への手紙の続きをとらえてまいりますと、 「輪廻は

遊牧民から文化人へと、 数えきれないほど無数の動物の形を通じて、 ウジ虫か

ら王様へと大きく進化するところに証明されるのではないでしょうか。 あらゆる

近代の哲学は、 目に見えるものは目に見えないものの流出したものに過ぎない。

あるいは妄想、 至高の夢の所産である、 あるいは影である、 などといろんな考

え方をしているけれども、 私は正しい人間は今や東洋の信仰を教えることによっ

て、 全西洋の宗教世界に大変革を起こすことができるのではないかと考えていま

す」 というようなことを述べているわけです。 

 ではなぜハーンは輪廻の考え方を高く評価したのかということですが、 今でも

実はアメリカ人の半数ぐらいは進化論を拒否しているというか、 学ぼうとはしな

いのです。 そんな中でハーンは、 下等な動物から上等な動物に進化していると

いう進化論を高く評価していたわけで、 その関係で、 ヒンドゥー教から一部は

受け入れたわけですけれども、 仏教の輪廻の考え方を高く評価しているわけであ

ります。」この様に八雲の思想的根底には仏教的なものがあり日本行きは単なる

東洋趣味だけではなかったのである。 焼津で滞在した山口音吉宅は城の腰と呼ば

れた海岸近くにあり着物姿の八雲が下駄を履き焼津の街中を散歩する風情が偲ばれ

る。ある時は時間を掛け小川村にあるお地蔵さんにまで出向いたのだろう。地蔵信

仰は最も庶民的な信仰であり死後地獄から天上界まで輪廻する人の後生を救済する

菩薩信仰である。スペンサーの社会進化論に傾倒し人の輪廻転生に大いなる共感を

覚えていた彼が本堂に奉納された甚助の板子を目にしたのは容易いことであった

だろう。

再び講演に戻れば「 多神教であるギリシア人、 ケルト人、 日本人に共通するよ

うな、 霊魂は死によって肉体を離れるが、 生によって再び肉体につながり、 輪

廻転生を繰り返すという考え方に共感していたのである」。 それゆえかハーンは

カルマと行為について、 カルマをする、 行為をすればそれが直ちに消えるのでは

なくて、 その印象が残されていく、 それが業となって蓄積されていくわけですが

、 そういうカルマという言葉を好んでいた。 そして因果応報についてよく語って

いた、 というように曾孫に当たる小泉凡さんは語っております。 
 
確かに仏教そのものも、 世界の大宗教であるキリスト教とかイスラム教に比べれ

ば周辺の宗教であるわけですけれども、 それとともにハーン自身が非常に多面性

を持っていた。 そのハーンにふさわしい研究の対象に、 仏教というのはそういう

意味でなり得たというように思われるわけですが、 その上に仏教というのはケル

トの心とも言えるような輪廻転生を説いている宗教であったということです。」

西洋の二元的価値観にだけ捉われない八雲のこの様な精神の多様性こそが彼を仏の

国日本に呼び寄せた原動であり多感な青春期を過ごしたギリシャ、アイルランドの

心を日本および日本人に見出したのであろう。更に八雲の仏教に対する現代的意味

と役割を次の様に述べている。「西洋人は 「我」 とか 「自我」 というものを実

在する最も信ずべきよりどころであるというように固く、 固く信じている。 仏教

徒は、 そういう 「自我」 というものは幻影、 夢、 幻のごときものなのだと。

あらゆる忌憚とか罪業の根源であって、 決して我々の頼るべきものではない。 夢

、 幻のごときものであるというふうに仏教徒は考えている。 そういうように彼は

考えています。 西洋に根強く見られる仏教と相反する思想というものを取り上げ

まして、 それがいかに多くの人類の不幸を引き起こしているのかということを書

いています。 

 仏教は先ほど申しました常のものはない、 自我と称するものは夢、 幻のごとき

ものだというわけですから、 それと正反対の信仰というのが西洋の考え方です。

「つまり、 固定したものがあるという妄想、 言いかえれば性格、 身分、 階級、
信条の区別は、 ある不変の法則によって定められているという妄想。 不変で不死

である有情の霊魂は、 神の気まぐれによって永遠の幸福か、 永遠の煉獄へ行くよ

うに運命づけられているという妄想。 これらの妄想からいかに多くの人類の不幸

が起こっていることであろうか」、 これはキリスト教への批判ですね。 

 彼は大変キリスト教を嫌っていたわけです。 その理由に関して、 「疑うまでも

なく、 神というものは怨みを持ったら最後、 どこどこまでも怨み続けるという観

念、 罪は贖 (あがな) うことができず、 罰は切り捨てがたいという観念、 こ

のような観念は社会の進歩がずっと未開の時代でなければ価値のない観念であって

、 これからますます進歩する未来の人類進化の道には、 そんな観念はお払い箱に

なってしまうに決まっている」 と、 そのように断言しております。 

 そしてさらに続けて言っております。 「東洋思想と西洋思想が接触することに

よって、 そのような西洋的な観念が一日も早く衰滅し、 明るい結果を招くことが

望まれる。 そんな西洋的な観念の発達させた感情が、 我々の中に尾を引いている

間は、 本当の意味の寛容の精神なぞ生まれるわけがないし、 真の人類同胞の観念

も、 世界愛の目覚めも起こりっこはないのである」 と。 

 こういうように永遠不滅の自我というようなものを認めていけば、 性格、 階級

、 民族の差別というものを認めない無我の立場に立つ仏教というものとの大きな

隔たりがありまして、 自我というものがあったら、 慈悲とかそういうような考え

方が生まれてこない。 相手の立場に立つということもできないわけですから、 そ

ういうのは無我の立場に立つ仏教の持っている今日的な未来的な意義である。 そ

ういうようにハーンが考えていたというように私にも思われるのでございます。 

 少し前の時代に自我の確立なんていうことがよく言われました。 日本人は自我

の確立が足りないのだというようなことが言われまして、 西洋的な自我というも

のに、 猿まねのように同調する人がおりましたけれども、 西洋的な自我の行き着

くところは、 やはり人類の滅亡以外の何物でもないわけです。 それは現代の世界

の有り様がよく示しているかと思いますけれども、 それぞれが自我を張り上げて

いますね。 戦争以外の何物も起こってこないわけでございます。 人類の滅亡とい

うことが目に見えているわけであります。 
 
ハーンがすでに百年も前に仏教の無我説の今日的、 未来的な意義を見出して、 東

洋思想と西洋思想が一日も早く手を握ることを望んでいたということは、 驚嘆す

べきことではないかと思います。 世界の状況が今日のようにグローバリゼーショ

ンが進みまして多くの民族が協調しなければならない時代になってまいりますと、
共生の理想、 共生という言葉は仏教とは少し違うようですけれども、 そういう理

想の実現が焦眉の急になっているわけであります。 そういう時代にやはり仏教の

無我説という考え方がますます重要になっていくのではないかと思います。」
 
以上前田専学先生が講演されたものを見てきたがさすが専門家ともいえる論説であ

る。

ブッダ、ゴータマが説えた「縁起」「諸法無我」は自我そのものを縁りて起こる現

象と捉える。現象であるから自己が依るべき実態がないと捉えるがそれを働く本質

こそが生命の実相と捉える。夢幻の自我に執着し対象化することにより自然本来の

あり方から遠ざかりあらゆる差別相が生まれ対立社会が生まれる。自と他の対立を

離れた平等性に至った時生命の実相慈悲の自覚に至るのである。仏教徒の究極の

目標は平等智の獲得と慈悲への目覚めである。

仏教思想は「無我」から「空」と発展するが存在するもののあり方や形は環境から

の圧力、進化圧により決定される。存在するものに定性は無く全てが変化するから

、縁起するから無(空)ではない。空(不生不滅のエネルギー体)の本来的働きが

あるから縁起する。不生不滅体の生滅を縁起(変化)という。この変化の力、環境

からの進化圧を受け一途に進化の方向を目指していく。輪廻転生を理性的に語れば

このようになる。小泉八雲が次代を担う宗教として仏教を評価したのはこのような

ことであろう。

ただ単に八雲の書いた作品だけの鑑賞では気ずかない深い精神性にふれ八雲の再認

識できたことはわたしにとって大きな収穫でもあった。


2006,4,24

追記:以下の原稿はある書き込みの私の書き込みと質問等である。

私は八雲縁の地焼津の地で生まれ育った者です。子供の時から彼の滞在した音吉の旧宅の前を行き来し顕彰碑を覗き込んだり漂流の中に描かれた甚助の板子が奉納されている小川地蔵尊が遊び場の一つであったりして他の子供たちと比べても彼を随分と身近に感じ育ってきました。西欧的文明の発祥地であるギリシャで生まれ育ち多感な子供時代アイリッシュして育った事もその歴史的背景を考えれば新天地アメリカを目指した動機の一つだったのかと思ってもいました。彼にとってのアメリカも約束の地ではなくようやく訪れた日本が彼の生涯の地であった等々少年にしては少し八雲に関しては博学でした。家庭をもち生活に追われてからは作品も読まなくなりなりましたが
最近彼の宗教性とか精神性について少し調べてみようかと漠然と思うようになりました。キリスト教に代表される西欧的価値観は基本的には二元論であり神と人間との関係は隔絶的であり神に赦され祝福された人のみが天国の来世を約束される宗教社会に育った彼が万物に神が宿り仏と人間の同一を説く日本及び日本人の宗教や精神性を彼がどのように理解して実生活を送っていたのか大変興味があります。

 焼津は随分と後になってから行きましたが、よいところです。柳田国男のいう常民とか郷土というイメージが生きています。八雲の時代でしたらその色彩がもっと濃かったのではないでしょうか。
 ぷりんすは西大久保に生まれ育ったので八雲終焉の地の記念碑は子供のころから見ていましたが、八雲の何たるかは大人になるまで知りませんでした。しかも東京ですから明治のころと今の様子はもうまるで違います。ただかろうじてひまわりの舞台になった高田村の草っぱらだけは記憶にあります。今は新目白通りとなって面影はありません。
 さて八雲の宗教観ですが、宗教多元主義だったと思います。これは近年宗教学者ジョン・ヒックにより提唱されたもので、多元的価値を認める立場を宗教の場にもあてはめたものです。自身の中にいろいろな要素を混在させていた八雲ですから、今のこの主張を知ったなら膝を叩いて共鳴したのではないかと想像しています

「さて八雲の宗教観ですが、宗教多元主義だったと思います。これは近年宗教学者ジョン・ヒックにより提唱されたもので、多元的価値を認める立場を宗教の場にもあてはめたものです。自身の中にいろいろな要素を混在させていた八雲ですから、今のこの主張を知ったなら膝を叩いて共鳴したのではないかと想像しています。」
プリンスさん書き込みありがとうございました。前知識としてお聞きしたいことがございます。ジョン ヒックの宗教多元主義のことですが私も学者ではありませんので当人もその思想のなんたるかも知りませんが多元的価値を認めるとは一元二元論を合わせもつ相対としての考えなのかそれとも独自の絶対的基準をもつ一元論的な考え方なのでしょうか。私の宗教観の概略を述べます。
私たちの現前にある実存するこの世界は意識以前に於いても意識以後に於いても自ら作ったものでもなく唯そこにある世界言い換えれば究極存在(神性、仏性、大宇宙、大自然)より与えられし世界です。そこで私たちは生活しその究極存在の秩序を嗅ぎ取り対象化抽象化して科学文化を発展させて来ました。しかしその世界は空間的には無辺で時間的には永遠の世界であり人間の理性を超えたものがあります。また私たちは先見的、経験的に自己が生じそして帰り行く根源的世界として究極存在を感得しそれがもつ目的意識に適う価値生活を送ろうと努力するのです。
人間にとって限りなく深遠な意味を有しつつ創造的に発展をしつずけるこの世界全体そのものに私たち人間が直接現前している事実が私たち人間と究極存在の一体を直感させるのである。(大江精四郎)ジョン フックの考えはこのように考えている私と何か共通性があるのでしょうか。

>浅原録郎さん
はじめまして。とても深い議論で、私がコメントしてどうなるというものでもなさそうなのですが。
こうした議論になると日本では、偏狭な一神教と寛容な多神教という二分論を持ち出す人が目立ちますが、最近議論を呼んでいる靖国神社の来歴などをみれば、多神教が寛容であるなどという議論の虚妄は自明です。
無学にて、ぷりんすさんご指摘のジョン・ヒックという名前は初めて聞いたのですが、多様な宗教を認めるという価値観に関連するものとしては、私は宮澤賢治「銀河鉄道の夜」を挙げたいと思います。
賢治が法華経を信奉していたことはよく知られていますが、その賢治が後半生を注いだこの作品には、明らかにキリスト教の影響が見てとれます。そして主人公ジョバンニがたびたび言う「たったひとりのほんとうの神様」というのは、「宗教宗派の違いを超えた真実」を指し示しているものと私には思えるのです。文学専攻であったならばつきつめてみたいテーマではあります。


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正法眼蔵
我が国の思想史、宗教史上道元の存在は大きい。その書正法眼蔵は大変難解で理解

し難い。今回手元にある朝日選書、森本和夫著「正法眼蔵入門」をベースにしなが

ら自分なりの理解が出来たらと想い少しずつシリーズのように書いてみた。

先ずは巻1、現成公案の巻の一行目

諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、
諸仏あり衆生あり


仏教の基本概念は「縁起」であり「空」である。この世界に存在するものは全て現

象であり実体の無いものとして捉える。般若心経でいうところの「色即是空」であ

る。このように存在自体が空(無、真理)だから絶対否定された時「空即是色」と

絶対肯定される。何ものにも限定されない自由なもの空(無)だからこそ全ての存

在するものの中に現象を働く根源的(仏性)なものとして宿る。天台大師最澄が

いう「山川草木悉有仏性」である。「諸法の仏法なる時節」を見てみる。個々の存

在するものが仏法なる時節であるなら迷いが有、悟りが有ると続く。その後も有、

有である。この場合の時節とは何を意味するのかが重要であろう。人が全てを経験

する時直ちに意識化が始まり概念化する。概念が概念を生み止まるところがない。

時間の経過もなく空間の移動もない絶対現在今、此処、経験直下そのものが真の実

在であるから今此処での経験するものが全て真理の表れである。時節とはこのよう

な状況を意味するのであろう。真理(空)からみればあらゆる差別の相を示しなが

ら肯定(ある)となり、現象(色)からみれば実態のないものとして否定となる。

全体の意味は「個々の存在は全て異なる様相を見せながらもそれ自体(不生不滅体

の縁起した)真理の現れである。今、此処で即ありのままに見れば迷悟もそれを知

ろうとする行為も生も死も、苦を解脱した者がいることも苦の解脱をし得ないもの

がいることも真理の現われとして当然である」このようになるのであろうか?。

「現成公案」の巻第二行目は「万法ともにわれあらざる時節、まどいなくさと

りなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし
」となる。

また時節という言葉があり、今度は「なし、なし」である。時節とは自分なりの解

釈であるが竹の節から連想すれば成長点と成長点の間、つなぐもの、固定したもの

として考えれば過去から未来へ流れる時の間、瞬間と理解する。我々が経験する瞬

間、時間空間、主観客観未分以前いわゆる純粋経験の場という状況である。

「万法ともにわれあらざる時節とは、自我の否定である。仏教はものの本質には決

まった性質自性がないとみる。経験直下全ての概念もなく、抽象化も無いそのよう

な状況下、自分というものもなく他人というものないのである。時間空間の未分以

前今、此処での経験そのものが自己であり唯一の実在であるから対立や差別のな

い平等そのものである。ゆえにまどいなく、さとりもなく、苦を解脱した者もなく

、苦を解脱しないものもない、生じるとか滅するとかの自覚もなくあらゆる対立差

別がないのである。執着を離れた時平等性の自覚に至るということであろうか。

「現成公案」の巻第三行は「仏道、もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あ

り、迷悟あり、生仏あり。」
豊倹とは多い少ないであり有無、差別感のことであ

る。

有無の観念もなく対立観もなく平等智を得れば「有即無」「色即是空」「平等即差

別」を理解出来るということであろう。

「現成公案」の巻第四行は「しかもかくのごとくなりといえども、花は愛惜に

散り、草は棄嫌におふるのみなり。」
となる。真理を捉えるには知識ではなく経

験、体験上でなければならないということであろうがこの言葉はわたしにとっても

好きな言葉の一つだあり詩的な表現がいい。

森本氏の訳によれば「しかも、このようなぐあいではあるのだが、まさしく、花は

愛惜されつつ散り、草は棄嫌の的となりながら生えるのである」である。

しかし花は誰かに見せようとして咲くのでもなく、惜しんで散ろうとするのでもな

い。草もまた然り、嫌われて抜かれるために生えるのでもなくただ自然のままに在

ることが真理であり美醜を問い、価値反価値を問う人間のあり方が反自然であり問

題となる。

次の段落は新たな展開となる。第一文で「迷悟あり」、二文で「まどいなくさとり

なく」、第三文でまた「迷悟あり」といわれたのを踏まえて迷いとは、悟りとは何

かを追求する件である。

「自己をはこび万法を修證するを迷いとす、万法すすみて自己を修證するは

 さとりなり」


この辺りからますます理解し難くなっていく。先ず言葉の定義付けをしないと自分

自身が混乱してくる。法とはなにかである。簡単にいえば全ての存在の根拠といえ

る。次に仏である。仏は本来ほどけるの大和ことばから来たという。心の中で疑

問が糸の様に絡み合った状態から解放されすっきりとほどけたことを指す言葉で

あったらしいがこれらの事から仏法とは自己を含めた存在の根拠を理解し心の自由

を得る方法となるがこれもまた概念過ぎて分かりにくい。ともあれ、あれこれ自己

を分析し概念化しても仏にはならないよ。対象の事物、それが花であれば花の心に

転じていければそれが仏でありさとりなんだ。とこんなことでしか表現できない。

この後の段落にも幾つかあるが専門の研究者の解説にも種々の相違点があり理解し

ずらいので割愛して一般的に有名な次の段落に進む。

「仏道をならうといふは、自己をならう也。自己をならうというは、自己を

わするるなり。自己をわするるといふは、万法に證せらるるなり。万法に證

せらるるといふは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむなり。

禅の眼目は「自己とは何か」を希求することである。己自究明としてのそれは単に

人間一般を問うことではなく、自己を対照的、分析的に問うことでもない。

真に今生きていること存在していることが問題となるような実存的な問いでなけれ

ばならないという。それを道元は「仏道をならうというは、自己をならうなり」と

表現する。「自己をならう」とは自己が自己を対象的に究明することではなく問う

自己と問われる自己が一体となることであるといわれる。問うといっても人間は言

葉で思考する。換言すれば事実を言葉で抽象するからあらゆる事実を言葉自身が隠

蔽してしまう。そこを対応させたのが「自己をわすれた」ありかたとなる(無心

、脱落)。そのようなありかたこそ(言説によらない)事実を事実として現実を現

実として露にしてくる。露になるのではなく実際には本来露になっている事実に人

間が気ずかないだけであろうが、その現前の事実に自己が成ること、そのことによ

り一切が自己で、自己が一切である自覚を得るのである。一切の現実がそのありの

ままの現実において現成する。(「万法に證せらるるといふは、自己の心身お

よび他己の心身をして脱落せしむなり」
)。

更に幾つかの段落を飛ばし生と死のテーマに入る。

たき木は火となる、さらに帰りてたき木となるべきにあらず。しかあるを、

灰は後、薪は先と見取すべからず。知るべし、薪は薪の法位に住して、先あ

り後あり。前後ありといえども、前後際断せり。灰は灰の法位ありて、後あ

り先あり。かの薪は火となりぬる後、さらに薪とならざるごとく、人死ぬる

後、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといわざるは、仏法の定

まれるならいなり。この故に不生という。死の生にならざる、法輪の定まれ

る仏伝なり。この故に不滅という。生も一時の位なり、死も一時の位なり、

たとえば、冬と春の如し。冬の春となるとおもはず。春の夏となるといはぬ

なり。

生と死の問題は人生にとって最大のテーマである。生も絶対の事実であり死も絶対

の事実である。生あるものは必ず滅する。どんなに努力をしても死だけは避けるこ

とが出来ない。この無常観を脱し意義ある人生を送りたいと願うのは人として当然

である。しかしながら、現代の宗教者、思想家は迷う衆生である我々に対し否社会

に対し真の責任というか役割を果たしているのかと疑問に思はざるをえない。そこ

にカルト的宗教の罠にはまる不幸がある。本来一人々が対峙して捉えなければなら

ない問題でありながら巨大教団という組織に取り込まれ問題が変質し社会との間で

対立、摩擦を引き起こしているのは、論外である。宇宙の構造が論じられ、生命の

しん秘が科学的に解明されつつある中で、それらと矛盾しない宗教、思想であらね

ば現代を生きるものとして、受け入れることは出来ないが、理性的にそれを知れば

人生の安心を得ることが出来るかといえばそれもならず、人間性を越えたものに絶

対的に盲目的に追従出来るとも思えずその間隙をついて様々な社会的問題が発生し

ていく。これが現代世界の抱える切実な問題である。この普遍的テーマを道元がど

の様に考えていたのか勉強するのも解決への一つの糸口になるのではなかろうかと

思った。しかし同じ日本語とはいえ現代語との表現の違いもありその理解は難しい

。特に問題の核心と思われる時間論、時節や有時等の理解がないと全体が把握出来

ない難しさがある。私自身その筋の専門家でもなく研究者でもないので幼稚で独断

的になるかもしれないが道元もしくは仏教思想がいっている時間論を少し掘り下げ

て見ようと思う。

通常我々が時間というのは無限の過去から現在を経て無限の未来へ流れる直線的な

継続であり空間の変化現象を定義ずける原理、尺度であるから実体はない。現在此

処に立って過去をみれば過去は既に現在ではなく、未来は未だ現在ではない。本来

的にないものをあると錯覚するのは人間の意識の経過方向が時間の経過方向と一致

することからおこる。このことから知、情、意の未分以前現在の今此処での体験、

経験のみが唯一の実在であるといえる。つまり主観の認識作用と実在の現象作用は

本来は不可分にして一である。薪が燃えて火となり灰となる。燃えるという現象は

「燃える」ものがあり「酸素」があり発火点に達するという条件が揃えば可能であ

る。条件により生起する、これが「縁起」である。熱力学の第二法則を持ち出すま

でもなく、この変化の方向は一方的であり不可逆反応はない。灰は薪とならないの

は自明の理でありこのことから死は生とならないと表現されている。しかしこの逆

対応「生が死にならない」とはどの様に解釈したらよいのか。先に述べた現在に立

てば「さき 過去」もなければ「あと 未来」もない前後際断のあり様が示されて

いる。道元のこの文中には現在という立場に立てば薪はあくまで薪であり、灰では

ないよ、薪が灰となるとはいえないと同様に生が死となるとはいえないんだ。とつ

ながってくる。ここで問題となってくるのが「生が死となるのではない」を何故「

不死」と呼ばず「不生」と呼ぶのか、また「死が生となるのではない」を何故「不

滅」となるのかである。仏教の基本思想は「縁起の法」であり、「空」である。

縁起とは原因と結果の法則であり、空(空体)はそれを働く本体の無始以前の能動

的力でありエネルギー体である。生はエネルギーから質量への転換であり、滅は質

量からエネルギーへの転換であるがその総和は不生不滅である。この辺りの消息が

生にあらず、滅にあらずとなり「不生不滅」を説く仏教だからこその表現になるの

であろう。結局「生死」は存在せず生も条件による一時の生起であり、死も条件に

よる一時の生起である。それを働くもの(仏性)は「不生不滅」だから生死という

現象に執着するのではなく生きている時は一瞬一瞬懸命に生きることが大事である

となるのであるがやはりこの部分の理解は核心部であるだけに理解し難い。

死につながる生、連続する生死と捉えると理解しがたいが、「根源的な命、不生不

滅の命」が時として生という形をとったり、死という形(縁起)をとるのであって

両者は断絶の関係でもあるが「連続しながらも連続しないもの」と考えればなんと

なく分かる気もするのである。

中間的まとめ

我々の生きる根源的命は父祖以来の無限から継承された絶対生命である。それはい

かなるものに創造されたものでもなく、自立自存の生命である。その現れ方は生滅

しながらも不生不滅であり、不生不滅でありながら、生滅するものである。この生

滅的作用が起動する方向として時間がまたその行ぜられる広がりとして空間が抽象

される。その根源的生命(絶対生命)の生滅において一切の現象はその主体的現象

として真(超越界)と俗(現象界)が一体となる。換言すれば我々の日常的世界は

実存と虚存の二重世界である。このことは一切の現象が絶対生命の主体的現象であ

り、つまり我々の主観の認識作用といっても他の何ものかを認識するのではなくし

て認識主観が自己を認識することであり自己を自己の内に見出すことに他ならない

。この見出すものと、見出されるものが一体不二であるところに覚(悟)がある。

(久松真一論より山崎晴久氏の論文に準拠)

また道元の前後際断とは未来と過去を相対的に見るのを断じ時間的永遠と空間的無

限が同時に存在する絶対現在、絶対当拠(ここ)に立つことである。絶対の現在か

ら見れば過去の実体はなく、未来は現在から想定した未来だからその実体はない。

このように現在の一瞬一瞬を過去や未来と並べて見るのではなく絶対の相と見なす

のが前後際断である。

このような文章を書くと絶対とか相対等の言葉を使うことが多くなる。絶対とはな

にものにも限定、特定されないもの、(過去未来を絶した現在此処での実在する生

命を絶対生命という)相対とは比較対象するものをたて論ずる立場であるが生にし

ても死にしても、移り行く一時期ではなく、生はあくまでも生全て(絶対の生)、

死はあくまでも死全て(絶対の死)である。このことをこれも良く知られている「

全機」の巻の中で次の様に説かれている。

生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず、生は成にあらざるな

り。しかあれども、生は全機現なり、死は全機現なり。しるべし、自己に無

量の法ある中に、生あり、死あるなり。

端的にいえば相対に死して、絶対に生きる、と言うことであろう。

生あるものは、必ず死ぬ。これが真理と思ってはいけない。真理(無量の法)があ

るから、生や死がある。その真理とは、人間の理性では量り得ないものであり、存

在するすべての内にありながら、それを存在あらしめているもの、活機に他ならな

い。だからこそこの活機は有る時は生となり、有るときは死となって現れる

。我々は永遠の命の中で生や死という形をとりながら生きているのだ。私はこのよ

うに理解したが、これを読んだ人はどの様であろうか。

(また自己をならうの箇所で「真に今生きていること、存在していることが問題と

なるような実存的な問いでなけれならない」との記述があるが、これをいま少し今

日常的問題に照らし補足してみる。子供が親を殺したり、親が子供を殺したり、は

たまた幼児を対象とした眼を覆いたくなるような事件が多発する。人間存在の深淵

に潜む矛盾が問われる事柄であるが、このような事件に接すると同じ人間として「

人間であることが嫌になる」瞬間でもある。人間一般を問うような問題でありなが

ら個々人に突きつけられた問題でもあって個々人が真に自己の実存的問題と捉えて

欲しいのです。善を求め悪を憎むだけでは解決はない。善悪の葛藤は人間に内在す

る絶対二律背反でありこの二つは人間の自覚の根底で一つに結びついている。真に

実存的な問いとはこの様な自覚の二律背反的構造が露になる問いということである

。善を為そうとして必然的に悪を犯している日常的自己の深い反省、その矛盾に対

する洞察が「人間であることが嫌になる」の深い自己否定につながる時忽然とその

二律背反的構造が瓦解し絶対善=慈悲、愛に至る。生に立ち死を、善に立ち悪を脱

れることは出来ないのである。)

禅宗の始祖達磨がその弟子慧可に「心をだして見せろ」といった。慧可が懸命に求

め努力して出した最後の答えが「不心可得 心はどこにも見つかりません」であっ

た。すると達磨は「おまえのために安心を与えた」と言いはなつ。「不心可得 そ

こが安心のところ」と言うのである。禅は問題の提起だけではなしに答えも既に与

えているのです。問いが答えであり、問うものと問われるものが一体、否定即肯定

とはこのようなことなのです。

         
    京都妙心寺塔頭,東林院の沙羅双樹、一日花の花は朝に咲き夕べには落ち
    る。六月に初夏をつげる花としてその凛とした純白の風情に心惹かれる。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の
理をあらわす。仏教教理は人生の否定面が強調され過ぎそこから蘇る肯定面が歴史的に
誤解され理解されていないのが残念である。

有時の巻
現成公案の巻を離れ、有時の巻に進む。道元が正法眼蔵を書いたのは鎌倉幕府成立

後五十年程後の時代である。藤原時代の仏教は「末法思想」による社会不安を呼び

起こしており機能不全の状態であった。武家政権の登場により新たな思想、仏教が

必要とされる社会的要請もあり宗教的天才を多く輩出した時代でもあった。

禅は印度で生まれ、中国で発展、日本で完成したといわれるがこれは道元の時間論

の評価を示すものと思われる。

有時の巻巻頭には「有時高高峯頂立 有時深深海底行」との言葉が書かれている

。この言葉は元来中国の禅匠薬山のものであるがこれを手懸かりにして存在と時間

の関係を論説したのが「有時の巻」である。有る時は高い高い山の頂に立ち、有る

時は深い深い海底を行く」これは二つの意味から構成されている。「有る時は向上

一途、何人をも寄せ付けない高い頂の上にあり、有る時は苦界の海底に沈みそこに

泳ぐ一切のものと共に歩む。」薬山の心の境地を示すものである。道元はこの「有

る時」を「有時」と名詞的に置き換える。「有」とは有ること(存在)、「時」と

は時間であるがつなげて名詞的に使っているのは「存在とは時間であり、時間は存

在である」の同一性連続性を表現したいがためだろう。薬山のそれは「高い山の頂

に立っている」「深い海底を行く」それぞれの時は彼の自覚の働きが現ずる「時」

であり、彼自身の「有 存在」が現れ出るときとの意味性を持つ。我々の日常的行

為の根底には「時が有り」この時を解明する事が自己を解明する事に他ならない。

毎日の一歩一歩が時の根源に触れ、時の根源からの一歩であるから道元のいう「有

事」とはこの根源に出入りする自己に他ならない。時は経過を持つ。今日という一

歩は昨日からの一歩であり明日への一歩でもある。今日の自分は昨日の自分を表し

明日の自分を起動する。その「時」に成り切った有り方での自己は時の内にあって

変じながらも変じない。不可逆的的時の中でそれに束縛されない自由な自己である

。これが有時の功徳といわれるものでこの様な時の経過性を道元は「有事に経歴の

功徳あり。いはゆる、今日より明日へ経歴す、今日より昨日に経歴す、昨日より今

日へ経歴す、今日より今日へ経歴す、明日より明日に経歴す」と述べている。この

様に己自究明としての禅に時の思索を取り込んだ道元はかの鎌倉時代という時代背

景をして稀有の思想家として評価を受ける所以である。

これらの記述は大橋良介氏のテキストを一部参考にしながら自分の理解の為書き換

えをしたものである。

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私の坐禅と漱石
漱石が参禅した円覚寺山内帰源院と小説
「門」のモデルとなった三門
帰源院に残る「仏性は白き桔梗にこ
そあらめ」の漱石句碑
北鎌倉円覚寺の早朝、薄霧の漂う境内を箒で掃き清めていく。この寺は鎌倉時代後

半八代執権北条時宗が中国より無学祖元を招聘し建立した寺である。禅に関心を持

つ一般人(居士)に広く門戸を開放する寺院であり臨済宗円覚寺派の本山でもある

。明治の文豪夏目漱石もこの寺での参禅経験があり小説「門」にその体験内容が書

かれており寺内に「仏性は白き桔梗にこそあらめ」の句碑を残す。

二十代半ば父親の死が契機となり考える事がありこの禅門を叩いたが本格的に坐ろ

うとした堅い決意ではなく法然の「朝に紅顔ありて、夕べには白骨となす」の人の

世の無常に打たれての少し厭世的行為であった。

土曜日仕事が終わると東京深川の勤め先から都電で東京駅まで行き横須賀線北鎌倉

のホームに立てばその前が円覚寺である。東京の喧騒を離れ杉木立が覆う静寂な雰

囲気と歴史の中に溶け込むような気分が救いであった。社会人や学生が対象の土日

参禅会が開かれている居士林という木製の看板がかかる建物に入ると首都圏の男女

の大学生らしい十数人が端座していた。初心者には坐禅の簡単な説明と規則の説明

があり坐禅会が始まる。以前臨済宗中興の名僧沼津市原の白隠禅師縁の寺三島龍澤

寺の専門道場で一週間座った経験があったため、坐り方や道場内の規則には精通し

ていた為知らない人ばかりであってもなんの気後れもせずその雰囲気に溶け込むこ

とができた。坐禅の時間は一柱といって線香一本が燃え尽きるまでの間座り込む。

足を左右に交差して結跏趺坐の姿勢をとり、眼は半眼にして一メートル先を見つめ

精神を呼吸に集中させていく。具体的には一呼吸吸ったら時間をかけ静かに吐き出

してゆく腹式呼吸を続けてゆく。最初は何事もなく座れるのだがその内色々な意識

が首をもたげ集中を妨げてくる。雑念に慣れてくると微かな周囲の音が耳に入って

くる。梢を渡る風の音であり電車の離発着の音であり普段意識し無いようなものと

呼吸が一体化してくる。足が完全に痺れてく来るころチーンと終わりを告げる鈴が

なり坐禅が終了する。その後般若心経を読誦後、四弘請願と呼ばれる誓いを読誦(

慈悲に目覚め他を思いやる心と行動により苦に満ちた現実を意義ある真実の世界へ

変えていこうとの誓いの言葉である)。最後に白隠が日本語で判りやすく説いた和

賛を唱和してその場に粗末な布団を敷き眠りとなる。夜九時の就寝では中々眠れず

眼を開けると正面に飾られた不動明王の憤怒の顔が睨み慌ててまた眼を閉じる。午

前三時起床の鈴が鳴り居士林を出て暗い中一列につながり法堂へ、法堂の高い階段

を登り回廊の周囲を廻らす欄干を跨ぎ空中に突き出た板の隙間で坐禅を組む。居眠

りでもしようものなら忽ち地上に落下して大怪我を負うであろう旨の説明があった

。この暁天坐禅と呼ばれるものは釈迦(ゴータマ シッタルダ)がかの暁の菩提樹

下で自己の実存に目覚めたとの故事による。

          居士林

夏の間は多少の蚊の襲来を耐えればなんとかなるが冬のそれは耐えがたき寒さに直

面する。暁天座禅終了後居士林に戻り朝食となる。粥と沢庵二切れ薄い味噌汁付、

文字通りの一汁一采である。坐禅中はもちろんいかなる私語も禁止であり特に食を

喫することは坐禅同様禅宗では特別な意味を持つため食べる事に徹し、食を受ける

ことに感謝を捧げる。それを形に表す独特の作法があり食後の片ずけが終わるとま

た居士林から一列に並び本堂へ向かい管長が一般信者へ説法する日曜法話を聞きそ

の終了後広い境内を掃き清める冒頭のシーンとなる。十二時前に解散となるが円覚

寺の三門前には一軒の料理店がありくたびれた体に栄養を補給する為うな重を食べ

たりした。夏目漱石程の知識人、有名人であれば公案と呼ばれる質問を老師と呼ば

れる指導者から受けるのであるが我々のようなアマチュアにはその様なものはなく

只坐るだけである。漱石、小説では主人公宗助が「父母未生以前己面目」なる公案

を突きつけられる。簡単に言えば「父も母も生まれていない前、お前とは誰だ」と

なる。この公案が解けずすごすごと三門を後にするところで小説「門」は終わって

いる。大正五年に出た『文章日記』(新潮社)の扉に漱石が「則天去私」と揮毫し

ています.天地自然の理に従い私我を捨てるとの大意であろうが禅的教養から出た

のは明らかである。一九一〇(明治四十三)年六月、漱石は胃潰(かい)瘍(よう

)で入院し、八月に転地療養先の伊豆・修善寺で吐血、危篤状態に陥った。このと

き、大患の経験の中で、世界をありのままに見ることができるようになったいう。

死んでしまった世界からものを見る即ち絶対の生、絶対の死の体験換言すれば生死

的自己から無生死的自己への自覚を経験したのであろう。。今まで生きてきた私中

心の世界を超え世界自身が他ならぬ私であるとの脱落底を体験したと思われる。長

き間考え続けてきた公案の答えである。

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西田幾多郎
人が生まれこの歴史的世界の中で生活しそして死んで行くことにどんな意味がある

の考え続けてきた。頭の働きも直感力も鈍く、学者や宗教家が書いたものを見ても

良く理解できずにいた。その理解出来ない代表が西田幾多郎であるが理解しずらい

ながらもなんとか少しでも理解したいものと思っていた。

西田幾多郎(1870〜1945)、東洋思想は論理を持たねばならないとの決意

のもと西洋と東洋の思想交流に挑んだ我が国最初の哲学者といわれている。最初の

論文「善の研究」の中心概念である「純粋経験」により人間とは、実在とは何かを

追求した。哲学であるから「純粋経験こそ唯一の実在でありこれによりより全てを

説明する」から出立し、「行為的直観」へとその思索を発展させていった。純粋経

験から行為的直感への発展は人間の日常生活を深く掘り下げ人間の未熟さを克服し

具体的な形にまとめ上げた労作である。

東京帝大選科入学と卒業後の進路の悩み、嫁をめぐる家族の問題、生涯にもうけた

八人の子供のうち五人の子供の死と彼の人生は悲哀に満ちたものであった。昨日ま

で元気でいた子供が今日は小さな骨壷に収まっているこの現実世界の悲哀をどの様

に理解したら良いのか、求めねばいられない精神の苦悩が付きまとっていたのであ

る。彼はこの苦悩を打開する為禅に向かった。それは論理的関心より自分がこの悲

哀に満ちた人生をどの様に送っていったらよいのか人の根本苦の解決を目指すより

切実な問題があったからという。この事は次の言葉「哲学の動機は驚きではなくし

て深い人生の悲哀でなければならない」で表現されており人生の苦しみ、悲哀を耐

えながら到達した思想故に現代に語り継がれ、読み継がれているである。

先ず「善の研究」の中心概念『純粋経験』について簡単に述べてみる。

我々が経験する直下未だ主観客観のない、知識とその対象が全く一致している状態

を「純粋経験」と定義される。禅でいうところの三昧であり、没頭、無我夢中、没

我という状態であり意識活動の基底である。蝉がないていれば蝉の声に同化という

か成りきることである。対象とする世界と自己が一なる世界、見ている自己と見ら

れている自己が一の世界でありいかなる分裂のない平等世界の開けである。

我々の意識現象がその根底において純粋経験でありそれ故意識現象(純粋経験)が

唯一の実在であるといえる。

このように純粋経験とは主観客観未分、知覚感情意志の融合の状態すなわち天地一

杯に鳴き渡る蝉の声であり独立自全の活動であり真実在である。このように見ると

純粋経験として主客のうちにある無意識的な統一力として働く真実在は自然の統一

力に他ならず「我々の主観的統一と自然の客観的統一力はもともと同一でありこれ

を客観的にみれば自然の統一力となり主観的にみれば知情意の統一力となる」この

ように自己の知情意の統一(主観的自己を没し客観的となること)がなる時「我々

の知識が深遠となるいふは即ち客観的自然に合するを意味する」その時我々の「大

いなる深き精神は宇宙の真理に合したる宇宙の活動そのものである」「時間空間の

間に束縛されたる小さき我々の胸の中にも無限の力が潜んでいる。即ち無限なる実

在の統一力が潜んでいる。」この統一力こそ実在の「有即活動」としての唯一の実

在であり純粋経験であり人心の無限に自在な活動は神そのものを証明するとなる。

この神の面影に接することを西田は「この意識統一を自得することでありそれが深

き生命の捕捉であり知的直感である」と述べる。

ただここで問題になるのがこの純粋経験と呼ばれるものが一つの自己実現のあり方

といってもそこに埋没する危険というかそこから現実世界に働き出すものがなけれ

ば古来禅がいましめるものになる。人間存在が基本的に持っている社会性、歴史性

を明らかにすることこそ人間存在をより具体的に説明することに他ならないと気ず

いたものと思われる。その反省が「行為的直観」へとつながっていく。

行為的直観

蝉のミーンミーンを聞く瞬間が主客未分の出来事であり、純粋経験であり、一なる

宇宙的生命であり、深き生命の捕捉であることを述べたがこの生命の直感の立場か

ら論理的に生命を説明し構築するまで多くの苦労があった。後年純粋経験は行為的

直観と呼ばれるようになった。「論理は歴史的世界から離れたものではなく、歴史

的生命の表現的自己形成の形式でなければならない」単なる空想の論理ではなく具

体的な歴史的存在の立場から歴史的生命の成立に於いて求めなければならないとい

うことである。

では表現的自己形成とはどのような意味合いを含むことであろうか。

「表現といえば主観的とのみ考えるのは誤りである。表現することは形成すること

である。歴史的実在の世界に於いて行為的に形成することである。」少し判り難い

言葉である。我々の周囲を取り巻く現実世界の物は常に何かを語りかけるというか

表現的である。我々はそれに答えるかの如く行動しているのが真相である。パソコ

ンであれば自分の考えを記録するもの、情報の処理伝達の道具として立ち現れ、そ

の機能に相応しい行動を呼びかけてくる。我々意識の側から対象界に呼びかけるも

のではない。物の表現性とは当にこのようなことである。パソコンは見られること

により見る我々に逆作用を及ぼし我々を変化せしめる物として表現的に有る。

我々が一杯の水を飲むという一般的日常行為をとってみても、自己は水を飲むとい

うことを知って(見て)いる。そのことは自己の行為が一つの眼を具えそれの直感

として現じたということである。この直感は自覚には至らないが行為する自己とは

この眼であるという。そのような眼としての自己は行為する自己の内面に閉じ込め

られた自我ではなくこの自己の活動すなわち「行為的直感」は行為する自己と対

象界の物との動的関係を示している。物は行為的直感の場において常に自らを表現

し我々自己に呼びかけている。行為一般は唯単に主観から生じるものではなく世界

の構造から捉えられるべきものであり、日常的行為一般でありながら、一方ではこ

の行為いう場において生成しゆく世界の自己形成の焦点でもある。

物を作ることはそれを作った意識的自己からは自立した存在であり物自身客観性を

持つがその根源は同じ世界であり西田はそのことを世界内存在という。「我々は道

具で物を作る。しかしこの物は世界に於いて独立するものであり、また我々を限定

するものである。我々もまたこの世界より造られたものである。我々は歴史的世界

おいて物を創造する。しかし我々もまた歴史的世界から創造せられたものである。

それが世界が世界自身を限定するということであり、我々が物を見るということで

ある。」「真の直感というのは単に自己が自己を失うとか、物と我が一になるとか

いうのではなく自己が創造的になることである。それは自己が世界を離れるという

ことではなく自己が創造的世界の作業要素となることである。」「人間は歴史的世

界(生命)の創造的要素なるが故に、働くことが見ることであり、見ることが働く

ことである。」これが行為的直観である。

さらに簡単にいえば「物となって見、物となって考え、物となって行う」というこ

とである。さらにいえば「自己が意識的自己を越えること、物が自己になること、

自己と物とが矛盾的自己同一であることである。本能も無意識も認識もそこに成立

し我々の自己はそこから働くのである。

西田哲学の根本にあるのは絶対の無である。いっさいの有を否定することによって

すべての有の根拠となる「絶対無」を根拠とした有が
現実的世界であるとの考えで

ある。その様な無の場所、そこから全てが成立しそこで働きそこへ帰り着く。


自己を含む一切、本質、実存、生、有そのものの生起を理解する以前の根源的一に

おいて経験するすること、禅でいう「天地と我と同根」で「万物と我と一体」であ

ることを事実として自らの生のうちで一挙に経験すること、事実をそのままに経験

すること、少しの思慮分別を加えない経験そのものが純粋経験の事実であるが逆に

いえば本質の側面も実存の側面もまた生の側面も有の生起としての万物の有り方も

すべてその一に内に含まれている。そのような場所を「無の場所」というが我々の

現象界を成立させている絶対の場所として「絶対無の場所」と定義される。絶対と

は他の一切との比較を絶する自己否定であるから「絶対の無」とは「無」さえも否

定することであり、自己否定的に自らを限定すると各々の形の世界が、従ってまた

人間の自己が露になる。逆にいえば自己が絶対の自己否定に生きるとそこに絶対無

の場所が露になる。(花岡永子)

以上文献を参照しながら抜粋しながら西田幾多郎の宗教哲学を見てきたが浅学の私

が論ずるには難しいものが多々ある。意識的自己から世界を考える立場を脱却し自

己の置かれている立場すなわち世界から自己を考える、自己の意識は世界の自己形

成であり自覚点であること、なにげない日常の出来事の中にこそ深い真理があるこ

とを気ずかされるのである。

       
      西田幾多郎の思索の道 京都哲学の道

     人は人吾はわれ也とにかく吾行く道を吾は行くなり

参考文献:禅文化研究所刊行禅と哲学 :FAS協会刊行自己・世界・歴史と科
学 現代における
無の哲学の意味 

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               ブロッケン現象
登山に関する用語にはドイツ語から流用したものが多い。山で経験するブロッケン現象も

ドイツ語である。ドイツ中央部ハルツ山脈にあるブロッケン山で経験されることが多かっ

たのでその名がつけられたようである。高い山で夕方登山者の後方から太陽光が差し込

み前方の雲やガスに自分の影が虹のリングの中に映し出される現象である。あたかも光背

を背にした仏が空中に出現したかのようであり山岳修験者が高峰を目指し仏への遭遇を

期待したであろう気持ちが実際に体験すると理解できる。自分が手をふれば影も手を振る

から自分の影であることが直ぐわかるがなによりも感動するのは自分の前方でしか確認

出来ないので他人のものは見えないことである。現代ほど科学知識の普及していない

時代経験した人は虹状のリングの中に浮かび出る仏の姿にかなり驚いたことであろうし

仏の存在を信ずる根拠にしたのかもしれない。

新穂高のロープウエーに乗ったことのある人だったら知っているだろうが展望台に立てば

正面に堂々とした山容の笠が岳を見ることが出来る。この山はどこから見ても笠を伏せた

様な形であるためこの名が付けられたがこの山がある飛騨地方に円空仏で有名な円空が

立ち寄り、修業の為この山に登ったことがあった。当時は決まった登山道もなく現在でも

この山頂に至るのは大変であるがその登頂の困難を極めたこと想像すら出来ない。その

後登る人も無く忘れ去られたようである。江戸時代末期天保年間一人の浄土宗の僧侶

がこの地を訪れた。過去の妻殺しの責め苦を負いその供養と衆生救済の弥陀への本願

から僧籍に入った播隆である。その時百二十年も前に円空が笠が岳に登った事実を知

りこの聖なる山の登拝路の再興を決意する。山、その高峰は人跡稀であり穢れを知らな

い自然があること、その清浄である故神仏が住む地であり神道では山そのものが神その

ものと信じられてきた。かのブロッケン山での光学現象も当地ではブロッケンの妖怪と恐

れられていたことからヨーロッパでは高峰の地は妖怪が住む所と信じられていたようであ

りこの東西の対比も面白い。

播隆は文政六年(1823)三十八歳の六月、人々の登拝を発願し笠が岳への偵察登山を

試みた。下山後登山路建設可能の確信を得た彼は地元の有力者の協力を得て五十日

程で登山道を完成させ八月五日、女性二人を含む信者十八名を伴い山頂に向かった。

夕刻山頂に至った一行は夕日差す中、灯明をあげ焼香参拝の「一心念仏の中、不思議

なるかな阿弥陀仏雲中より出現したまう」ブロッケン現象に遭遇したのである。登山は過

酷な運動である。ましてや三千メートル峰では空気も薄く低酸素の環境である。そのよう

な状況は生体の新陳代謝の低下をもたらし宗教的幻覚を生みやすい。この時代僻地の

山村に住む善男善女の集団が夕闇せまる神秘的光景の中突然の阿弥陀仏出現により

どのようなトランス状態に陥ったのかは想像に難くない。

自分達の宗教的信心を裏打ちされたような異様なトランス体験であったと思われる。揺

ぎ無き浄土教信仰は人が臨終を迎えたとき菩薩を従えた阿弥陀仏が来迎し後生を西方

浄土へと導きいれるものである。阿弥陀仏の来迎を確信することは自分達の極楽往生が

保障されたと同じことであり現世でこれに勝る喜びはないのである。播隆自身にとっても

宗教家である自身のこの様な体験、仏との遭遇はこの山を霊山と仰ぎ更なる登山路の

完成を決意させたようである。この時見た槍ヶ岳の穂先と穂高連山の素晴らしき眺めが

後年両山への登頂のきっかけとなり開山の栄誉を担うことになった。今松本駅前には

その偉業を顕彰し播隆上人の銅像が建つ。

2004年8月16日長野県の美濃戸登山口から八ヶ岳主峰赤岳へ向かった。行者小屋

に荷物を預け空身で文三郎道を通り鎖場を抜け主稜線に立った時突然ブロッケン現象

に遭遇した。八ヶ岳はブロッケンが出やすい山であること夕刻で自分の真後ろに沈み行

く太陽があり山梨県側からは雲が湧き上がり当に雪庇の様に横岳への稜線を雲海が乗

り越えようとしていた。背後の南アルプス方面には薄幕を張ったようなガスが立ちこめブ

ロッケンが最もでやすい状況であった。現代を生きるものとして多少の科学的知識があ

るので驚きは無かったもののそれなりの感激を味わうことができた。

         


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靖国問題
靖国神社に参拝する小泉首相の行為に対し中韓の過剰反応、国内の

論議が騒がしい。この問題の根源は日清日露戦争、韓国併合、日中戦争、

太平洋戦争に対する日本及び関係国間の歴史検証がなされず真の歴史認

識が確立されていない事から起こっている。個人でも隣人同士うまくや

るのは難しい。ましてや国同士摩擦が生じるのは当然である。聖徳太子

の時代大陸への出兵、元寇襲来、秀吉の朝鮮出兵、北方海域での日露の

諸問題と国境問題、朝鮮半島への覇権をめぐる日中の抗争、中国への日

露の抗争、韓国の植民地化、日本軍のシベリア出兵、満州国建国、日中

戦争、英米とのアジアでの権益の対立衝突と挙げればきりの無い抗争

の歴史がある。一国では戦争は出来ない。一方的に責任を転嫁し正当化

すれば結果を未来に引きずる。

今抗争中のイスラエルとレバノンを実効支配しているヒズボラの問題も

一言では言えない歴史的諸問題が在る。

形式化したユダヤ教を批判したキリストの処刑、ユダヤ教、キリスト教

から派生したイスラムの台頭、十字軍によるキリスト墳墓聖地エレサレ

ムの奪還とイスラムの民虐殺、旧約聖書の啓示約束の地へのユダヤ人の

帰還とイスラエルの建国、パレスチナ人の反発、夫々の宗教の聖地であ

るエレサレム旧市街の争奪とテロの続発は二千年の歴史を越える。

現在では軍事に勝るイスラエルが弱者のパレスチナ人が選択出来る唯一

の手段であるテロを怒り軍事行動に走るのは歴史の常套である。

どちらにも言い分があり白黒をつけるには難しい。

三百二十万人もの国民の死と未曾有の災難を国民にもたらした先の大戦

を指導し東京裁判で死刑の判決を受けたÅ級戦犯はその死ををもって道

義的責任を果たしても歴史的責任すなわち国家犯罪の指導者としてのそ

しりは永遠に負わねばならない。その認識の温度差が日中韓の問題とし

てあるのならその解決はさほど難しくない。

日本側から見ればそれが国内問題を逸らすために利用されているのでは

ないかとの不信感があるからである。サンフランシスコ平和条約を受託

し国際社会に復帰した日本が太平洋戦争への責任を自ら認め東京裁判の

法的問題を今後も問わないことでは歴史的決着を見ている。

母方の祖父が健在の頃付き添って靖国神社に参拝に行ったことがあった。

二人の息子を日中戦争で太平洋戦争で一人計三人の息子を亡くした祖父

が戦後大分経った後その訪問が遅くなったことを詫びるような面差しで

拝殿に額ずいた横顔を忘れることはできない。それが遺族の心情であり

かなりの国民の靖国に寄せる素朴な心情である。

Å級戦犯合祀を分祀すればことが収まるであろうか。そのことで中韓か

らクレームをつけられないのであれば先に述べたように知恵はあるのだ

ろうが既に韓国ではそれだけが問題ではないことを表明している。

日中、日韓との平和条約、基本条約締結の中でなにを積み残してきたの

か、それが国際法の中で適正な要求なのか関係国の国内に情報を全て開

示して討論しなければ何時までたっても問題は解決し無いであろう。

領土問題も主権の問題を一時的に棚上げしても現実的な諸問題の解決に

至る英知があるはずである。

               近松門左衛門
現代につながる時代を近世とすれば江戸期元禄の時代からであろう。

この時代文芸の分野では小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、劇作(浄瑠璃)

の近松門左衛門を輩出し現代に至るまでその影響を及ぼしているからである。

最近NHKのBS映画劇場で近松門左衛門の原作を溝口健二が映画化した「近松物

語」を放送していた。戦国の時代から平和な時代へと変革期に入り流通を握る

商人が次第に力をつけ政治行政の分野にその影響力を及ぼしつつある社会背景

をもつ京の町で不義密通のかどで処刑された男女の物語である。

映画としてのこの作品の素晴らしさと溝口健二の演出については何かの機会に

譲るとして原作者である近松門左衛門について思うことを書いてみた。

劇作家としての近松は自身の劇作法を次に様に述べている。「浄瑠璃は憂いを

表現することが肝要である。だからといって哀れなりなどという文句を多く入

れたりまた泣く様な声で語ったりするのは私のやり方ではない。私の描く憂い

は義理によって生じるものである」。

憂いとは「心配する、悲しむ、切ない」等の意味があり、人生の切なさを自身

の劇中で表現したいというのである。そして憂いは義理により生ずると語った

近松の言葉はどのように理解したらよいのだろうか。現代でも基本的には変わ

ることがないが封建時代に於いては社会的、道徳的規範が制度として人間生活

の基底にあった。

誠実な人生を送ることはこの規範の中で生きることと同義でありそこに義理と

いう概念が成立するのである。男女の関係、主従の関係、家族の関係はこの人

間関係を逸脱しないことであり義理を守ることこそが全てに優先した時代であ

る。

この様な義理が社会的に制度化されて来ると本来自由に生きたいと願う人間の

気持ちを抑圧するものとなって来る。ことに男女間の恋愛感情は抑圧が強まれ

ば強まれる程激しく燃え上がる。成就出来ない恋の憂いである。近松の描く男

女の情愛の悲劇はこの抑圧と人間性とのバランスの崩れからおこってくる。一

つの純粋な愛の形であってもそれがひとたび不貞と見なされれば、男女とも裸

馬にくくられ市中引き回しのうえ磔となる。この様な見せしめ行為は極限の人

間性否定でありその類は家族にまで及ぶ。女性の貞操道徳を求めながら遊郭の

苦界で身を売る多くの女性の存在、妻を自分の所有物とみなし良妻賢母として

家を内から支えることを義務付けながら自分は妾を囲いそれを甲斐性として平

然としている亭主の姿がある。

このようなアンバランスはいつ崩壊しても不思議ではない不安定な形でありそ

の崩壊を防ぐ為制度的なものが作られていく。この様な不条理を近松自身が芝

居を通し訴ったえたのかは分からないが男女の情愛はこのような不条理では解

決できない普遍的なものであり、人間社会の義理を憂いとして描き切ることに

より芸術として近松は時代を超えたのである。

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                 正義(Justice)

1964年公民権法(The Civil Rights Act OF 1964)がアメリカで制定された

。人種間による差別を禁じたこの法の施行より表面的な差別は目立たなくなったが

1966年6月17日ニュージャージ州パターソンの町で一人のボクシングチャン

ピオンに殺人に対する不法逮捕不法拘禁事件が発生した。

黒人の社会進出、成功への妬みが証拠の捏造、不当逮捕へとつながり初審、控訴審

の陪審による三つの罪により終身刑が確定し以後二十二年間獄につながれその後連

邦審により無罪が確定した事件である。

実話の映画化「ハリケーン」の粗筋でもある。その再審が行われた連邦裁判所の入

り口上部の壁面に飾られた言葉が日本語スーパーで映し出されひどく私の注意を引

いた。

日本語で翻訳されたものに注意がいってしまったので原文がどの様に書かれてい

たのか記憶がないが日本語では「正義は神の与えし最も堅固な柱である」と表現

されていた。原文はどの様に書かれていたのか調べる術も無いので私なりに再翻訳

してみた。英語に堪能な人がみたら間違いがあるのかもしれないがご勘弁願いたい

。英語のコラム(column)は建物を支える円柱の意味がありそこから力とか堅実の

象徴の意味も派生する。このことから国家という建物を支える正義の柱はcolumnを

使うのが正しいのだろう。

「Justice is the storongest column by the grace Got.」


移民の国、多民族国家であるアメリカは国民の統合の象徴を持たない。アメリカの

それは国家であり国旗である。国家のそれは憲法の理念である。国家理念は犯さざ

れない神から付与されたもの神性そのものである。そしてその神性とは正義であり

公正であり自由であるから国民が法の下に於いて等しくそのことを守られなくては

ならない。これが近代国家の知性であり国民は国家への忠誠心と帰属意識を持てる

のである。

現代のアメリカ社会は多くの問題点を抱える国家ではあるがその底には建国以来の

正義の理念があり国家的統合を保持している事を忘れてはならない。

独立宣言の前文は、「全ての人間は平等に造られている」。これを守ることが正義

であることを宣言している。

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      Zen Mind,Beginner`s Mind(禅へのいざない)
私の手元に一冊の本がある。PHP研究所刊(1998年)の禅入門書の様な本であるが

少し変わった本である。内容が怪しいとか変だという意味ではなくその著者の経歴

とこの本が世に出た経緯である。

著者の鈴木俊隆は明治37年神奈川県に生まれた曹洞宗の禅僧である。昭和11年我が

町(焼津市坂本)にある林叟院の住職となり55歳の時渡米、サンフランシスコ桑港

寺の住職となる。10年程でその職を辞し弟子たちとカーメル山中に専修道場を建立

またシスコ市内にZen centerを開設した。昭和46年12月現地にて死去した。

英語で禅を欧米に紹介した鈴木大拙は思想としての禅を広めた偉大な先駆者であり

以前から良く知っていたが、もう一人の鈴木の存在は同じ町に住んでいたのに全く

知らない存在であった。アメリカに渡ったのは自身の不幸な事件の影響があったの

かは判らないが若い頃から英語を勉強し欧米への関心が強かったのと、なによりも

「坐禅そのものが悟り」と説く道元禅を知ら示めたいとの禅僧としての熱情があっ

たのだろう。印度の地で生まれチベット、中国、朝鮮半島、日本へと東へ向かっ

た仏教が太平洋の東アメリカへと伝播する歴史的必然があるとすればその布教への

使命観もあったと思う。

禅の実習指導の傍ら語った禅の語録を死後弟子達が苦労の末一冊の本としてまとめ

日本の友人である学者の紀野一義が注釈をつけ日本語版として発刊された。

私は暇があると良く本屋に出かける。思想や歴史書のコーナーに立ち寄った時偶然

手にしたこの本が気になり内容を拾い読みし書棚に返そうとした時著者の紹介欄に

焼津市坂本の林叟院住職であったとの文字が飛び込みそのまま買ってしまった。

副題の「Zen Mind 禅の心」Beginner`s Mind 初心」のタイトルにも心惹かれ

た。日本人でも理解が難しい禅をアメリカ人にどのようにして指導していったのか

も興味があった。公案(問題)を与えその見解を示すことにより指導する臨済宗の

禅と違い坐そのものが禅の悟りとする曹洞禅は外国人には判り易いのかも知れない

し禅仏教に誤解や先入観のない分純粋になれるのかもしれない。

この本は三部で構成され第一部は「正しい修業 RIGHT PRACTICE」二部は「正し

い態度 RIGHT ATTITUDE」三部は「正しい理解 RIGHT UNDERSTANDING」である。

禅は言葉では無く体験といわれ特別な苦行ではなく日常生活の中で何が真実であり

自己とは何かを知っていかねばならない(平常心是道)。この現実世界を離れては

ならない。そこに修業の本質がありそこを離れないことが正しい態度でありそれを

純一に徹することにより本来の自己が見えてくる、正しい理解が生まれることを易

しい言葉や比喩を使い語ってゆく。

例えば一日のある時は夜と呼ばれ、ある時は昼と呼ばれる。夜と昼は違うものでは

なく同じ一つのものであるから二元的思考を離れ一元的な思考をすればものの本質

が理解し易すくなると説明する件である。道元が生が死とならないのを「不死」と

言わず、なぜ「不生」と言うのか、「死が生となるのではない」を何故「不滅」と

語るかその理解に役立つだろう。

理論ばかり勉強しても禅は理解出来ないし、指針の無い修業も不安である。その様

な意味合いからいってこの本は一つの入門書、仏教の間違った先入観を捨て初心で

入って行くのには格好の書かもしれない。ただ禅の思想を歴史的、学術的に勉強し

て来た者にはテキストからの逸脱や解釈の粗さは気になる点がありその点訳者の指

摘している所でもある。

「無心」この意味をアメリカ人の聴衆に鈴木大拙は次のように語った。子供が外で

遊んで帰った来た時「何をしてきたの」What did you do?にNothing「なんにも」

と答えたという。無心で遊ぶ子供には行為に対する痕跡、思いがないのでNothing

となる。この様に英語で表現すると日本語以上にわかり易い面がありアメリカの知

識人に大きな思想的影響を残したが60`S(60年代)以後悩める多くのアメリカの若

者は新しい価値観や精神文化を求めさ迷っていた。ベトナム戦争の後遺症でありア

メリカの建国精神の揺らぎである。この時代日本から訪れた禅僧鈴木俊隆による禅

堂の厳しい規則の生活の中から得られる限りない自由な精神の解放は驚きであり喜

びだあったのであろう。先に述べたように些細な日々の生活の中から真理を学び取

るのが禅の修業であるから正しい生活態度が基本になければならない。奔放なヒッ

ピー的生活ではなく真の自由は(不自由の自由)一見自己を縛るような厳しい規則

的生活の中から生まれるのであり彼は禅堂制度の創始者である百丈懐海が創設し道

元が日本で完成させた禅堂清規をアメリカに持ち込み禅の思想を形にするZEN 

PRACTICEとして実践普及させた。その地道な活動によりPRACTICE OF ZENはアメ

リカ禅ブームの先駆けとなった。

キリスト教は生き方を示しても生と死の問題にはなにも答えがないという。生死、

善悪、民主主義共産主義等すべてを対極的に捉える考え方から脱却し表裏一体問う

もの、問われるものが一なる禅的思考が若者の心を捉えたのだろう。


City Center

Beginner's Mind Temple (Hosshin-ji), also known as City Center, was
established in 1969 by Shunryu Suzuki Roshi as a training center in
the Soto Zen .
サンフランシスコの禅センターとして知られる初心者の為の発心寺は1969年鈴木俊隆により
曹洞禅のトレーニングセンターとして創建された。


夏季接心の会場Mountain Center


Summer Work Practice

This program enables participants to learn about Buddhism
through meditation, work, study,

この接心は禅仏教を坐禅と作務、学習を通して参加者が学べる様企画されている。


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                日本武尊
「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるわし」

日本武尊は景行天皇の第二皇子として生まれ大和政権の支配力を九州、東国へ

と広めた伝説的武人である。冒頭の歌はその死に臨み詠った四首の内の一つと

される。

日本武尊伝説に関係する清水の草薙神社は皇子の縁の地である駿河に行幸した

父景行天皇が火責めの難事を剣を用い草を払い勝利した勲功と土地の鎮めの為

建立したとの伝承がある。彼の東国遠征の経路は倭→伊勢→尾張→(駿河)相

模→房総半島→関東→陸奥(計略にかかり野におびき寄せられた皇子が草を薙

ぎ払い草に火をつけ難を逃れたという伝承の地が清水の草薙であり我が町焼津

であるというがこの記述は日本書紀であり古事記は相模となっている)となっ

ているが日本書紀の記録をとれば相模の前に駿河の地に立ち寄ったと思うのが

自然であろう。

東国を平定し倭への帰路は足柄→甲斐→信濃→美濃→尾張→伊吹山→三重の亀

山(終焉の地)となっており故郷を目の前にして無念の死を遂げた望郷の歌は

余りにも有名である。

彼の魂は白鳥となり大空へ飛び立ったとされそれが大鳥神社の縁起となってい

るようだ。

妻の実家は焼津神社(祭神 日本武尊)の近くでそのその裏通りに日本武尊沓

脱ぎの跡なる伝承の地があり彼が東征の折この地に立ち寄ったことの伝説を伝

える。青年時代見かけて古代史というか日本神話に些かのロマンをかきたてら

れた。その碑に依れば

此處 焼津の御祭神 日本武尊が 御東征の御時(1840年前)

一草庵を索め 御沓を脱ぎて御休息をなし給ひしに 老女が 小麦飯を

饗し奉りしといふ 御由緒の地なり 此由緒ある 所謂 焼津発祥の処

なるを以 焼津市制施工記念とし 焼津市及 焼津神社氏子并に市内団

体有志の協賛に依り 日本武尊望像を建立し 永く後世に傳へんとす。

昭和二十六年三月一日。となっている。

戦後の混乱がおさまり少し落ち着きが戻った時期であるが戦前の皇国史観を色

濃く残す文体である。古事記や日本書紀自体大和政権の正等性を示す為に編纂

された史書であるがこの地方の古代の状況を想像させ得る唯一のものとしての

価値はあるが日本武尊自身の実在性は疑わしく銅像や顕彰碑を建立する歴史的

意味はないのだろう。
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                基本的公案
日本の社会、文化に大きな影響を与えた禅の思想を少し勉強するうちに遅かれ

早かれ突き当たるのが悟り(覚)や公案の問題である。釈迦が唱え実践した仏

教の教えは中国へと伝わり言葉の問題等により変質をしかかる。


禅宗の始祖達磨は自身の中国語の不確かさもあり簡潔な言葉や所作で仏教の本

質を伝え直そうとした。公案と呼ばれるものが修行者の教化に使われるように

なったのはその様な背景が当時の中国社会にあったのだろう。

心とは、自己とは、これ等を問い究極にまで自己を追い詰め自覚の転換を図り

精神の自由を得るのが覚とか悟りすればその手段が公案と呼ばれるものである

。歴史的意味を語ると長くなるのでそこは割愛する。

達磨の中国人の弟子慧可が心の不安を訴え自分に安心を与えるよう迫った時「

お前の心を此処に出して見ろ、そうすればお前に安心を与える。」と言ったと

いう。慧可は熟慮した末「心は何所にも見つかりません」と答えたが達磨はそ

れを聞き「お前に安心を与えた。そこが安心の所」と話したという。

公案とは基本的にこのようなものである。公案の問うところが答えである。

臨在禅はこの公案に重きをおく。

人間を自己、世界、歴史と関連づけ現代からつながる後近代ポストモダンの人

間像を提唱した久松真一は近代日本が生んだ稀有の哲学者、西田幾多郎の高弟

の一人でありながら特筆すべき禅者の一人でもあった。

彼は幾千、幾万もある歴史的公案を退け「どうしてもいけなければ どうする」

との公案を提唱した。現在今、此処での自己のあり方を問い真の人間性を覚す

ることをせまる公案といわれ段階的に幾つかの公案を解く歴史的方法を批判し

これ一つでこと足れる故基本的公案と呼ばれる。

私は久松が創設し死後その学生であった学者達が中心になり運営するFAS協会

の末席を汚すようになったのは基本的公案との出会いであった。

所謂公案というものには日常的自己を絶対に否定即肯定する覚ということがな

ければならない。覚とは自己が真の自己を知ることでありそのことが真実にし

て幸福なる世界創造の現前となり主体的に歴史創造にかかわっていくことであ

る。しかし真実の自己に目覚めるという意味が未熟な自分には今一つ理解でき

ないのである。

西田幾多郎は「色を見、音を聞く刹那に主観的、意識的な日常的自己が打破さ

れ真の自己が現前する」といっている。

自己が自己を自覚するという普通いうところの自覚は[ノエマ、ノエシス的」

であり覚には主観も客観もなく覚するものも覚されるものもない。

覚される真の自己が覚するのであり、覚しようとする人が覚される。換言すれ

ば覚は日常的自己の認識作用ではなく真の自己本来のもつ働きであると理解出

来る。次にこの自己がどうして働き出すのか西田はまた次のように言っている

。「疑いうるだけ疑ってすべて人工的仮定をとりさり疑うにももはや疑いよう

の無い直接の知識(直覚的経験の事実)を本として出立せねばならない。かか

る確実な知識によって見れば(真の実在)直接経験の事実あるのみである。」

これは一切の日常的自己の否定であり絶対否定されたところに絶対他者が絶対

自者として現ずることを指示する。

これはまた絶対矛盾合一の場でありここを自己がいかに主体的に問いうるかと

いうことになる。

この問いに自己が追い込まれそれを機縁に現代という立場に立脚した具体的目

覚めへの手懸かりが基本的公案「どうしてもいけなければ どうする」である

。この具体的目覚めが具体的形となってこなければならないがこの点にすこし

ふれてみたい。

東専一郎が久松真一へ質問した絶対否定について久松は「絶対否定といっても

色々ありましてね、どうゆう絶対否定かが問題なのです」と答えている。

東はそれに言及して「(どうする)という具体的形をとってこないような絶

対否定は本当の絶対否定とはならない。それは終末が現在であるような意味で

の絶対否定、絶対が現在であるような意味での絶対否定である。そこから新し

い世界創造が出てくるというかほんとうの(どうする)が出てくる。

日常的自己と目覚めた自己が(心心不異)的に同時性起であるという根源的事

実をこの公案は指示し、この公案が意味をもつのは現在此処という存在論的普

遍的事実の中で働くはたらきだからである。

よって(どうしてもいけない)が先にあって後から(どうする)が後件的に出

てくるのではない。(どうする)という特殊な具体的形の中に(どうしてもい

けない)が全てもれなく含まれている。その事により具体的形が生きた形にな

る。懺悔という一事をとっても、私我を離れるような事がそこになくてはなら

ない。口先だけで悪かったと言ったり或いは観念的に悪かったと思うだけでは

は本当の懺悔にならない。本当の懺悔は具体的形をとって出てくる。その中に

(どうしてもいけなければ どうする)が働いているわけである。」とこのよ

うに論じている。

更に東は自書「基本的公案」の中で「私達が主観客観を天秤棒の両端にぶら下

げていたのではその両端が「狭き門」に阻まれて神の前に出ることが出来ない

。」と述べている。

この神の概念を久松流にいえば「外対立なくして、内差別を絶するものいわゆ

る絶対無」となるがそのような神の場に出ることの出来る自己とはどんな自己

であろうか。私がこの二元的世界の中で生きているということは何かしらのこ

れだけは譲れない、これだけは捨てることが出来ないという何かを形にして生

きているといえる。この形あるものゆえ有相の自己では神の前に出ることも、

基本的公案を受け取ることすら出来ない。「基本的公案」を受け取るというこ

とはこの狭き門を潜り抜けることであり神に出会うということはこの「有相の

自己」となにものにも限定されない本来的に自由なゆえに形なき「無相の自己

」が寸分も違わずぴったりと一致することである(本来のものが本来になる)

。では何故私が、私達がこの基本的公案を受け取ることが出来ないのかである

。それは意思的というのではなく自覚の問題である。

私達は日々の生活の中で発生するさまざまな問題の解決にあくせくしながら生

きているのが現実である。健康でいられるだろうか、商売や仕事はどうなるで

あろうか、家族の将来は等々枚挙の暇も無い。

しかしなんとか成って来た。これからもなんとか成るだろうと楽観的希望に託

して生きている。反面善をなそうとして悪をなし自己嫌悪に陥り、生と死の問

題もなに一つ解決出来ずにいる。

なぜこのような状況に陥るのか、ここを深く考えることが「基本的公案」と真

に出会うことになるのであろう。

何故ならばこの「どうしてもいけなければ どうする」は人間苦の問題に深く

かかわる公案だからである。

漠然とした不安(苦)を感じ生きているこの自己はこの現実を今生きている自

己であるがその根本には苦しまない自己がありその矛盾に苦しむのが人間苦の

本質である。人間苦の裏には不苦という事実がある。何故ならば心と身体が分

裂していない心身一如の状態、ものごとが分かれて働き出す以前の状態(純粋

経験)においては苦というものはないからである。

何かに依ってたつ自己、言い換えれば何かであることで悩む自己は本来的に苦

しむように宿命ずけられている。

例えば愛と憎しみ、生と死の問題は人間の日常にある最大の問題であろう。愛

が失われた時の悲しみや憎しみ、死の恐怖と絶望、人はそのことを予感しつつ

愛さずにはいられないし、生きることを止めることが出来ない。それは我々の

日常の底の底に働く命の不思議さでありそこに宗教があり我々を越えたものが

ある。そこに我々の自己が目覚めた時「どうしてもいけなければ どうする」

を基本的公案として受け取ることができるのであろう。

久松は人間を水と波の関係で説明する。水の表面が波立ち動揺しても水の底に

はいかなる動揺も無い。同じ水でありながら波立ち動揺するのが日常的自己(

有相の自己)、穏やかな底が本来の自己(無相の自己)である。水が水を覚す

る。すなわち動揺なき安定があるから波がおこることを。

中世は自己が主体ではなく、他律的宗教律が人間を支配したが、近代に至り理

性哲学が確立し人間は神から自立した。

しかし人間存在の矛盾(生死、善悪は存在非存在、価値反価値の問題)二律背

反を理性は解決できない。中世以前からの他律から脱し、自律の近代理性を手

にしても人は苦から脱し得ないのである。

久松はこの自律、他律、無神論の統合としての在り方をポストモダンの人間像

として提起したのである。

ともすれば歴史的禅の世界は寺院の中に篭り、自己の探求のみに終始したきら

いがある。彼はこれを批判し自己の自覚がこの現実世界の中で働き多くの不幸

を作ってきた今までの歴史を反省し主体的に新しい歴史の創造を希求したので

ある。


基本的公案の投稿文

「発題感想」

浅原録郎

『風信』第39号 pp.15-16

静岡の会員の浅原です。風信38号「坐禅は誰がするのか」を興味深く拝読いたしました。
冒頭の(1)“私が坐禅をはじめた理由”には大変共感を覚えました。

日常的自己の欺瞞性、薄弱な意志ゆえに当然なる不徹底、そしてその結果に対しての無力感、根底に横た
わる生死・善悪の対立矛盾、葛藤、どうしようもない自己、どうにもならない閉塞、理性の二律背反の袋小路
に追い込まれ挫折する。

夏目漱石がその小説「門」の中で、主人公宗助が禅門を叩きながら立ち尽くす様が描かれています。戸を叩く
彼に門番はにべもなく「自分で入れ」と叫ぶ。これが無相の自己からの呼びかけであったならば「どうしても入
れないときはどうする」…。開け方も知らずさりとて立ち去ることもできず、ただ日の暮れるのをじっと待つだけ
の不幸な人、これは正に私自身であり、漱石にとっても基本的公案であったことと思います。

「この私では入れない」と気づくこの事は重要な意味がある事と思います。これは仏心の呼びかけであり、啓
示であり、自覚の転換であり、私を含めた凡人が、どうしようもない自己からどうにかなる自己への突破の一
つの手懸かりになるよう思えるのです。人は何かの機縁に触れて内なる深淵をいつかは飛ばねばならないの
です。

無相の自己は有相の自己の在り方を「どうしても入れない」という形で突き上げてきます。今此処に於いて全
ての人になされているのです。結果、有相の自己はもがき、この苦しみから逃れようとしますが「私に突き上げ
てくるこの苦しみは一生無くならない」と悟る。否定的自覚に徹してこそ肯定化されるものに気づかされてゆく。

私達は種々の現実問題にぶち当たり、その解決を日々迫られている生活者です。その解決はそれほど簡単な
ことではありません。

有相の悟りの世界に魅せられ、その働きが自己完結的に終われるならば、高所より下界の風景に酔い、その
下で苦悩する人の顔を見ることができない人であり、無相の自己の働き出しの無い、社会の地平に立てない
人です。

FASは世俗に迎合することなく、世俗化を計って行く必要があると思います。インテリの孤高的集団であって、
その主張が社会の中で空転することがあってはならないと思うのは私の危惧でなければよいのですが?!


掲載日:1999-10-29


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今を生きる 今を集中する
中学生の子供達にあることを指導している方と話していた時自分が大事な話

をしている時携帯を操作したりして話を聞いていない子供が多い。いつも叱

ってばかりいられず困っている。そのことについてなにか話をして欲しいと

頼まれました。私自身聞き上手ではなく少し困りましたが、何事も勉強と思

い原稿を作ってみました。

今から八百年前道元という偉いお坊さんが京都に生まれました。皆さんと同

じ年頃の時両親を相次いで失い人生のはかなさを感じ比叡山へ出家しました

。その後さらに仏教の勉強をするため命がけで中国へ出かけました。

当時日本の特産であった椎茸等交易する船に便乗し中国に着いた彼は椎茸の

買い付けに来た一人の年老いた僧に出会いました。

そこで彼はその老僧に質問をしました。「貴方はどの位の年月を修業してお

るのですか?」僧は『自分も忘れるほど長い間」と答えました。それを聞い

た道元はさらに質問をしました。「貴方は人生の全てを捨て出家されたのに

この様にお年を召された今も何故椎茸の買い付けなどつまらない下男の様な

仕事をされているのですか?。そんなヒマがあれば経典の一つでも読んで勉

強されなければ、出家した意味がないではありませんか?」。それを聞いた

老僧は答えました。「日本の若いお方よ、えらく心得違いをなされている。

経典を勉強したり坐禅を組むのだけが本当の仏教の勉強ではない。今自分に

課せられた仕事を一生懸命日々こなすのが本当の勉強なんですよ」と。

道元はその言葉を聞き自分の不明を恥てその僧のいる天童山で修業すること

になりました。その後禅の真髄を極めた道元は帰国後福井県に永平寺とゆう

寺を建て曹洞宗を開きました。

その道元が書いた正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)という書物の中に『今を

生きる』『今に集中する』という意味の箇所があります。日本でも欧米でも

良く知られた有名な箇所なのですが、概略を説明します。彼は現在という時

間をとても大切に思っていました。『今踏み出す自分の一歩は明日への一歩

であり、昨日の一歩である』と言っています。この意味が理解できるでしょ

うか。今の自分のあり方は、昨日という過去の結果であり、明日の自分を決

定するという意味です。

「今ここで大事な話を聞いている。これは自分にとって大事な話かもしれな

い。しかし携帯電話にメールの着信があった。誰だろう、話を聞くよりはこ

ちら方が楽しそうだ」と楽しいとか楽しくないだけでなにがより重要かの判

断なしで物事を決めてしまう。またこの様に思うことで聞くという集中心を

失くしまう。

もしこの様に集中出来ない自分であれば今の姿は昨日がそうだから、だから

また明日も集中出来ない自分となり、その連続として一生集中出来ない無意

味な人生を送りかねないのです。

人生を送るということは今この一瞬々を生き抜くことであり、集中すること

なのです。貴方にとって過去や未来はないのです。あると思うのは幻です。

有るのは今現在ここで経験することのみです。

夜空を見上げて御覧なさい。星のまたたき、それだけでも心が晴れます。貴

方が見ている一億光年の星の光は今一億年かかって貴方のところへ届いた光

です。イメージ出来るでしょうか。一億年ですよ。ですから貴方が見ている

その星は一億年前の姿なんです。その星から貴方を見れば一億年後の貴方の

姿です。この事実を良く考えてください。貴方は一億年の時間が交差する宇

宙の一焦点なのです。永遠を生きているのです。あなたの目に映る宇宙は過

去も未来もありません。何故ならば貴方を支点に今ここに時間が凝縮してい

るのです。貴方は時間を自由にコントロールする才能を手にしているのです

。どうか今この瞬間を集中してください。今を懸命に生きてください。

より良き明日の自分の為に。
サンフランシスコの想いで
年の瀬を迎え慌しい中、夕食を終え家族は年末、年始の買い物に出かけた後一人

でテレビ映画を見ていたとき突然その思い出が脳裏をよぎった。

映画はアメリカとヨーロッパを就航するある客船で捨てられた赤ん坊がそこで育

てられ生涯船外へ出ずして天才ピアニストとして成人し、大西洋上でピアノを弾

くだけの毎日を送る物語である。その船も老朽化して廃船後爆破されたがその船

と運命を共にした男の不思議な映画であった。時代はたぶん18世紀後半か19

世紀初頭。

彼には戸籍もなく船上が彼の全てであり人生であった。その彼が生涯で唯一度愛

した乗客の一人、アイリッシュ?の若い移民女性が物思いに耽りながら海上をじ

っと見つめている横顔に自分と同質の何かを感じたのだろう一瞬の恋の虜となっ

た。こんなシーンを見ていた時冒頭の記憶が蘇ったのだ。

サンフランシスコ対岸一マイルの沖に浮かぶアルカトラズ島は周囲を冷たく流れ

の速い海流が囲み囚人が自力では脱出不可能な島として監獄が築かれていた。

ニコラス ケイジやクリント イーストウッドの映画でも有名であり禁酒法時代

のアル カポネが収監された監獄として歴史に名を留めている。

数年前アルカトラズ島監獄の観光をする為フェリーの船上にいた。

出港前港内を見ると対岸の桟橋や岩礁に沢山のアザラシが群れ遊びこの海流の冷

たさを再認識した。出航後一階のデッキから二階のサンデッキを見上げた時だっ

た。デッキに身を預けるよう虚空とも海上とも前方を見続ける一人の若い白人女

性に気づいた。ブロンドの髪ブルーアイ、裾の広いスカートをはいたその視線の

先には金門橋ゴールデンゲートブリッジがありその光景を凝視していたのかもし

れない。洗練されたその肢体の醸す雰囲気は映画の中に登場した女優のような綺

麗さであった。程なく着岸した桟橋から降り立った彼女は連れもなく監獄に向か

って歩き始めたから一人旅であったのだろう。

しばらく彼女の後ろについていたが帰りの船で会えるであろう事を期待していた

がどの様な事情か再会することがなかった。その夜はこの旅行の主催者の招待で

サンフランシスコ湾のクルージングに参加した。漆黒の闇が迫ると周囲のビルや

建物がライトアップされその美しさときたら言葉にならないほどであった。この

風景を自分だけ味わうのは本当にもったいない、今度機会があれば家族ずれで再

訪したいものと思いつつディナーパーティーの開かれるレストランに入り本場の

デキシーランドジャズバンドの奏でる心地よい音楽にしばし身を委ねていた時

若い女性歌手が登場した。甘く切ないその歌声の先に視線を追うとなんとその主

はアルカトラズ島のフェリーで会った美しい女性その人であった。ウエータに尋

ねたところこの大きなツアー旅行のディナーショウに出演するためアメリカのど

こからか一人でやって来たらしかった。だから平日のアルカトラズ島の観光に一

人で参加していたのだ。エンターティナとしてショーマンシップに満ちたそのに

こやかな横顔は白日に見入った美とは違うプロだけが持つ特有の美であった。ア

メリカ西海岸にこの後二回ほど訪れたがこの女性ほど美しい人に会うことはなか

った。

話題を船上のピアニスト、映画に戻せば戸籍というIDを持たない彼は世界から

見れば非存在であり彼から世界を見れば意識されない非存在である。表現を変え

れば否定の否定、絶対否定されるが故に彼の真実在は証明されるのである。それ

は彼の揺り篭を揺らした海のうねりであり、海が彼に呼びかける叫びである。そ

れは声なき声、音なき音それが彼の指先に宿り独創的な音楽となり彼の実在を証

明するのである。指先から弾ける一瞬の音が、一瞬の恋が永遠という時とシンク

ロする時彼にとって海が全て、船上こそが全世界となる。彼が下船を拒否し船と

運命を共としたのは我々のこの世界が虚存であり実存を生きる彼が住む世界では

無かったからである。

追記

映画の出だしを見損なってしまい映画の題名も知らずにいた。

後程調べたら原題はThe Legend of 1900,邦題「海の上のピアニスト」である。

有限の88の鍵盤が無限の音楽をつくり、見ることが出来る永遠が海である。

この映画がヒットしたのは日本とイタリアだけであったという。なんとなく判る

気がする。
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千の風になって
千の風になってを聞く
Yho
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私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹き渡っています

あの大きな空を
吹き渡っています


A THOUSAND WINDS

Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.

I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn's rain.

When you awake in the morning bush,
I am the swift up lifting rush
Of quiet in circled flight.
I am the soft star that shines at night.

Do not stand at my grave and cry.
I am not there; I did not die.


webから転載

この歌は今ヒットしている「千の風になって」の日本語訳と原典の

英語詩である。この様な歌がヒットするのは犯罪社会の中で自己

不安の癒しや独自の死生観を持ちたい大衆願望があるからであろ

う。

最初に聞いたのは昨年暮れのNHKの紅白であったが良い詩であり良

い歌だなーと素直に思ったが何所かで過って見聞きしたことがあ

った気がした。早速書棚の本を調べてみたら1995年10月25日刊行の

禅文化研究所の「禅文化」157号に京都花園大学元学長『盛永宗興』

老師の追悼文集の幾つかの中に老師の養女であり姪の『盛永・コルカ

ット・暁子』さんの「父のこと」という一文の中に見つけることがで

きた。

作者不詳のこの詩はフィリップ・カプロー著「輪廻転生」が出典であ

り1989年ニューヨーク、ダブルデー出版社から発刊されている。

以下暁子さんが亡き父を偲んで訳された詩を紹介してみよう。

墓に立って泣いてくれるな

私はそこに居ないのだ

私は眠っていないのだ


今お前の頬をなでている風なのだ

雪に輝くダイヤの粒

実る稲穂に照り映える陽の光

優しく降る秋の雨


お前が朝の静けさに目覚める時

羽ばたきして飛び立ち

明けの空を輪を描いて飛ぶ鳥なのだ

そして夜空に静かにきらめく星


墓に立って泣いてくれるな

私はそこに居ないのだ

私は死んでいないのだよ

追記

フィリップ・カプロー:英語で禅を欧米に紹介した鈴木大拙の弟子であり

アメリカにゼンセンターを創立した。

作者不詳と思われていたこの詩も多くの人達の努力でメアリー・フライと

いうアメリカ、オクラホマに住んでいた女性であったことが判明した。

1932年母親を亡くしたユダヤ人の親友の為即興的に書き下ろしたものと

いわれている。人が直感的に抱く生命の本質をイメージしたこの詩は世

界貿易センタービル爆破の被害者追悼集会でも遺族の少女が読み上げ阪神

淡路震災の慰霊でも演奏されている。死者への鎮魂、残された者への悲し

みを越え希望への賛歌として語り継がれている。


追悼
山の仲間でS、Hさんが帰らぬ人となった。小柄な人であったが積極的なひたむきな性格

で感受性にも優れ素直に遭遇した山岳風景に感激した。体力もあり登頂は一番のりを果

たすのが常であった。しかし病魔には勝てずこん睡状態のまま旅立ったらしい。

少なからずショックを受けた我ら岳友は葬儀の帰りアルバムをめくり在りし日の彼女を偲ん

だ。以下は私が山の会を代表して読んだ弔文である。

山岳愛好クラブ「百名山の会」を代表して弔辞を述べさせていただきます。

S,H様よもやこの様な場所で貴女を追悼する事になるとは夢にも思ってはおりませんでした。早

すぎる死に残念な思いと悔しさで一杯です。

思い起こせば貴女と最初の山行きは白馬岳の八方尾根でした。

若い時からスキーに通った山で高山植物の宝庫である白馬の素晴らしい夏の景色を是非貴女

に見てもらいたくお誘いしました。

松本平を見下ろす高原ホテルに宿をとりましたね。早朝四時白々と明け始めた外を見たとき松

本盆地を埋め尽くす雲海を発見した私はメンバー全員の部屋を叩き、起してしまいました。

朝の陽光に浮きでたあの幻想的光景は山を愛する者のみが味わえる特権でした。後日立山連

峰縦走時満天の星々の放つ光の競演に遭遇したあの感動と共に、貴女は忘れえぬ体験の思

い出として熱く語ってくれました。

唐松岳斜面、八方尾根に立ち、高原の貴婦人と形容されるコバイケイソウの花に囲まれ貴女は

本当に嬉しそうでした。八方池まで歩きそこから素晴らしい白馬三山、白馬岳、白馬鑓、杓子

岳の雄姿を間近に仰ぎ見て来年あの頂上に皆で立とうと約束しました。

翌年約束したとおり我々は全員山頂に立つことが出来ました。

しかし白馬上空で停滞し発達した前線から降り出す風雨に悩まされ続けた登頂でしたね。長

大な白馬の斜面を流れる鉄砲水、カッパを着ても下着にしみ込む雨、皆で励まし支えあい山頂

に到着した時は本当に嬉しかったです。 苦しみを分かち合い協力しながら全員で目的を達成

する、これが登山の一つの楽しみであり醍醐味でもあります。

不幸にして遭難死する危険もあるからこそ、皆で乗り切った後の連帯感やそこから芽生える友

情こそが人性で最も大切なものと知り得るのです。

Sさん我々は山の同士であり友達です。今もその気持ちは変わりません。

我々が山に登る時千の風になってあの山の大空を吹き渡って来て下さい。

その時頬を撫でる風に我々は貴女と共にいる事を感じます。

コバイケイソウの花を揺らす風に貴女を思い出します。どうか安らかにお眠りください。

貴女の愛してくれた山のクラブを代表して
             
        平成十九年五月二十日
               浅原録郎


冨士、浅間
私の住む、静岡県焼津市の中根地区の鎮守は大井浅間神社という。

以前から二つの神号を持つその名の由来に疑問を持っていた。主祭神は木之花佐

久夜毘売命(富士山の神格であり山の神である大山祇神の娘とされる。冨士山は

立ち上る噴煙が乙女の舞姿に似ているところから女神が住む山と思われる様にな

り、その神を浅間大神となずける様になった。その後本来山の神である大山祇神

の娘木之花佐久夜毘売命が浅間大神と同一視される様になり富士山の神格となっ

た。)で相殿(大井社)に罔象女命が祭られている。

大井とはこの流域を流れる大河大井川であろうとは名前と祭神の水の神、罔象女

命から容易に察しがつく。では浅間とはなんなのであろうか。

浅間とは荒ぶる火の神を意味しその神格が浅間大神(あさまのおおかみ)であり

古来火を噴く火山を富士山も含め浅間山と称していたとおもわれる?。

富士山信仰の総社浅間大社の由来に依れば垂仁天皇3年(紀元前27年)頃大噴火に

より荒廃した国土の再建と浅間大神を鎮める為富士山麓に社を建て祀ったのが当

該社の始まりと伝えている。

子供のころから冨士山を見て生活するがこの様なことを知らなかった為なぜ富士

山を信仰対象とする富士宮の浅間大社が冨士大社でないのかと素朴に思ってい

た。浅間は富士山の古来からの尊称、神格であり冨士は中世以降呼ばれた山その

ものの固有名詞であった。

我が町内の大井浅間神社は当然浅間大社の末社としての位置づけであろうし、太

古氾濫を繰り返しその流域を様々に変えてきた赤石山脈に源流を発する大井川は

その流域住民のとっては豊穣の神そのものでありながら、氾濫による厄災そのも

のでもあったのだろう。

四千メートルに届かんとする、富士山の噴火もまた住民にとっては恐ろしい火の

山であり、一度噴火爆発すればとてつもない被害をもたらし鎮めの対象即ち信仰

の対象として尊崇したことは当然であった。

その二つを合体し厄災から逃れ、平穏な日々の暮らしを願った先祖住民の素朴な

信仰態度が大井浅間神社を生み、守って来たのであろう。

冨士の語源はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)によれば

富士山は、古文献では不二山もしくは不尽山[8]と表記される。

また、『竹取物語』の最後の章では、かぐや姫から不老不死の薬を授けられた

が、家臣に命じて不老不死の薬を駿河国にある天に一番近い日本で一番高い山の

山頂で焼くという描写があるが、最後の記述は、その不老不死の薬を焼いた山の

ことを、「以来、その山のことを、富士山と呼ぶようになった」(要旨)という

ものとなっている。

これは日本最高峰の並ぶものの無い「不二」の山という意味とされる。その後、

鎌倉時代以降に表記が転じて「富士」となった。これは「士が富む」として武士

好みの表記であったという。
その他、富岳、富嶽、芙蓉峰とも表記される。

近代後の語源説としては、宣教師バチェラーは、名前は「火を噴く山」を意味す

アイヌ語の「フンチヌプリ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲

炉裏端に鎮座する火の神の老婆を表す「アペフチカムイ」からきた誤解であると

の反論がある(フチ=フンチは「火」ではなく「老婆」の意味)。その他の語源

説として、マレー語説・マオリ語説・原ポリネシア語説などがある。

この中に記されているように、不二は並ぶもの無きものとか、不死につながり絶

対とか永遠とも重なり信仰の対象となっていったのだろう。

この様に並ぶもの無き富士山が火をふく山浅間山と称され続ければ長野の浅間山

と同列になってしまう故、漢表示の不二から転じた冨士と鎌倉期に呼ばれるてき

たのが真相であろう。浅間神社は火を噴く荒ぶれ神を祭る社として山としての富

士山とは別に山岳信仰の世界で存在してきたのであろう。


いつかある日
追悼で書いたS,Hさんの追悼登山を兼ね福島の安達太良山と吾妻山系にいった。

三年前霧と寒さと風雨のため登頂を諦めた一切経山へ登り彼女の愛した風光の地

で黙祷を捧げ追悼歌を歌うためであった。

2007,10,9紅葉登山を愛でる多くの登山者がいて恥ずかしさもあり同行

者達への事前練習もなかっため、黙祷だけを捧げ下山してしまった。

HPで発表するほどの詩でもないが、若い時愛唱した「いつかある日」に乗せて歌

ったら音楽好きの彼女への些かな慰霊になると思ったからである。

原曲はフランス人のRoger Duplat
日本語詩は西前四郎の曲である。

原曲の詩は山の愛好家がもし自分が遭難死したら、友よ私の事を、残された者達

へ伝えて欲しいと語る内容である。そこを擬えS,Hさんが今も生きていてもし「私

が死んだら私の事をこの様に思い出して欲しい」との心情を書いたつもりである。


原詩








いつかある日 山で死んだら  古い山の友よ 伝えてくれ

母親には 安らかだったと 男らしく死んだと父親には

伝えてくれ 愛しい妻に  俺が帰らなくとも 生きてゆけと

息子達に 俺の踏み跡が  故郷の岩山に 残っていると







友よ山に 小さなケルンを 積んで墓にしてくれ
  ピッケル立てて

俺のケルン 美しいフェースに 朝の日輝く 広いテラス

友に贈る 俺のハンマー ピトンの歌声 聞かせてく

代詩:
  いつかある日 私が死んだら 古い山の友よ 思い出して

  春の山で 残雪踏んで 道に迷った 男体山

  夏の山で 雨に降られて  ガスに煙った あの白馬

  秋の山で 星の瞬き  共に見上げた 黒部の夜

  冬のある日 山の思い出 皆で語った あの夜のこと


   歌へのリンク
青葉の笛2
2007、11,1夜6時藤枝市蓮花寺公園池畔で静岡市在住の津軽三味線の演奏家であり

弾き語りの白井勝文さんのライブがおこなわれた。

本来田中城の下屋敷の庭園でおこなわれる予定であったが、雨のため二度ほどの

順延をへてへの公演であった。

この公演は二部編成でおこなわれ一部は津軽三味線の演奏、二部は平家物語から

脚色された無官太夫平敦盛と熊谷次郎直実にまつわる弾き語りであった。

松明が二基焚かれ、直実縁の蓮生寺が池の後方に配置された舞台効果はこの歴史

を良く知る者にとっては感慨深いものがあった。

邦楽に門外漢の私にとっては演奏技術そのもの評価は下されないが、津軽の厳し

い自然の中から生まれたのであろうその音色の確かな響きは感じ取る事が出来た



二部の青葉の笛の弾き語りの前にこの語りを書いた女性が登場し白井さんとの出

会いやどの様な想いでこの物語を脚色したのかの説明があった。

この様な演奏は始めての体験であったが、昔ラジオで聞いた事のある琵琶の語り

や、浪曲、講談につながる大衆芸能の伝統に根ざした文化なのであろう。

朗々とした語り部の声が静寂の水面を越え対岸の蓮生寺に届くばかりの熱演は聞

くものをして遥か源平の時代に誘う感激の時でもあった。

ただ私の記憶していた平家物語とに一部の違いがありそれが考証的な問題なのか

、大衆芸能として聞く大衆に迎合しようとしたのか知らないが、多少の違和感が

あったのが残念だった。

簿記
経理や簿記の専門家でもないが、複式簿記の仕組みには、感心する。

中世、地中海貿易で栄えた貿易都市ヴェネチアで繁栄したメディチ家で使わ

れて世界に広まったという。

全ての取引を科目化し全を客観的に評価出来る優れものである。多少複式簿

記の仕組みが分かると不正を働くのが難しいと悟る。問題はこの様な知識が

ないと不正が簡単に出来てしまうと思ってしまうある種の人間がいることで

ある。

仕事で所属する団体が市町村の行政に国から委託された業務を受注したこと

があった。

私は直接関係しなかったので、関心がなくそれから数年が過ぎた。

ある期末の終了総会の時その事業の会計報告がなされていないとの質問がで

た。その受託事業の金額が数千万円に上っていたことに驚き無関心でいた自

身の不明を恥じた。

当時の支部長の下に居た自称副支部長のU氏の答弁によればこの仕事は支部

での受注ではなくU氏個人の受注でありよって会計報告の義務はないとのこ

と。それを聞いた私をはじめ支部員の多くから異議が出された。

先ず受注時、U氏からこの受託事業を支部で引き受けたいとの提案があり、

利益が発生すれば支部の会計に編入し支部会計の健全化も計られるが多くの

市民に教授するため、多くの支部員の協力が不可避である。個人では受注は

もちろん出来ないし公的な組合である当支部の公的事業でやりたいと説明が

あった。

それを聞いて当時の役員の一員でもあった私も二っ返事で賛成し反対者もな

かったのでその事業はスタートし支部員の多くが参加した。

私はスタート時の説明会に出席しなかったため自動的に講師として参加出来な

くなっていた。数年続いたその事業も(国のIT講習会)も終わってまた2、

3年経った総会で出された質問が前述の件である。

NHKや周辺支部、県本部の役員等来賓の多くの臨席の中もめにもめた質疑

は収拾の出来ないものとなり責任者のU氏が後日かならず会計報告をする事

でその場は収まった。

さてその報告であるが、簡単な紙に書かれた、子供の小遣帳にも劣る代物で

あった。先ず時系列的に整理されておず仕分け科目も論理的でないこと。

事実の裏付けのない支出項目を記入したり、支出金額の水増しをしたため収

入が不足し今度は収入の改ざんと二重記帳の矛盾だらけのものであった。

それを修正し複式に書き換えると当然説明不能な誤差が出るとんでもない会

計であった。簿記の知識の無い者ばかりとたかをくくってのことだろう。

当然市から振り込まれた金額との不整合もあり、貸方、借方の不整合を質問

をした私への答弁は誤差が五万円程であるから認めて欲しいと話にならない

回答であった。

焼津市役所からいくら金額が支払らわれ、どの様に経費がかかり参加した支

部員にどの様に分配され、当初の目的の一つであった支部会計への編入余裕

が有ったのか無かったのかも個人情報の保持等訳の分からない答弁に終始し

て預金通帳、現金出納帳、原始伝票の全てを提出する約束にも関わらずU氏

はその後支部員の前に姿を現すことすらしなくなってしまった。

U氏の下で立場が逆転し将棋の駒化した支部長一人が出て来ての説明も簿記

知識の欠如や老齢化による矛盾説明では何らの進展も無く時間ばかり過ぎて

いった。

何故この事件が問題なのか論理的に当事者にも説明した。
1、このIT講習会原資は税金である
2、税金であるから個人ばかりの利益に資してはならない。
3、税金だからその使途は公明正大でなければならない。
  受け取った報酬は正しく申告し所得税も払わねば脱税になる。
4、国とその代理である公的機関が公的組織である組合支部だから出した仕
  事である。市役所担当が金を払ったら後は知らないとでも言う様な態度
  であり道義的にも問題がある。
5、国民の血税であり参加した市民が等しくその授業の理解が出来たのか検
  証も報告も無い。ただやっただけの授業では意味が無い。税金を支払う
  だけの品質があったのか。組合の信用がかかっている。講師面するなら
  ばACCESSやEXCEllで会計簿の一つでも作成し関係者に送付してもよい。
  (この質問にU氏はそれほどのパソコン技術が無かったとうそぶいたが
  何をか言わんやである)
6、外部の来賓の臨席のもと総会での醜態は役員として責任をとらねばなら
  ない。

7、状況的に推測される百数十万円の不明金の説明も無くこれは横領、脱税

  で組合に対する背任である。更にいえば犯罪である。

この様に再三問題を指摘したが倫理の欠如した日本の社会の通例どおり支部

長とU氏の引責辞任と引き換えに幕切れとなってしまった。組合の和を保つ

という名目であろう。

膨大な財政赤字を抱える国家財政への危機意識も無いのか上は政治家、官僚

の税金横領汚職、下々では税金という砂糖に群がる蟻の如く利益さえ上げれ

ば良しとする風潮は食品偽装問題が発覚した時嘯いた社長の弁と共通する。

始末の悪い事に問題の両氏にも反省の態度が見受けられない事であった。

税を執行する役所も又然りである。

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久松真一の宗教哲学
最近世俗の楽しみ、登山やハイキング、カラオケに捉われ、気持ちの弛みがち

な自己を反省し過って啓示を受けた久松真一の宗教哲学を復習してみた。


久松の哲学は人間に不合理なものが主体となって、人間が蘇り合理性が成り立

つ如き立場故全てを合理的立場に立って思惟する現代哲学に於いては余り重き

を置かれていないのかもしれない。

久松の師であり京都学派の哲学で有名な西田幾多郎は論理的関心より自分がこ

の悲哀に満ちた人生をどの様に送っていったらよいのか人の根本苦の解決を目

指すより切実な問題があったから哲学を目指したという。この事は次の言葉「

哲学の動機は驚きではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と表現し

ている。

ただ学問だけの哲学を否定した久松の思想を図にすれば下図の様になるだろ

う。人は根底に生と死の絶対矛盾を蔵していること。理性は死を解決できな

い。これが人間苦の根本であることの認識。人間存在は誠に不合理である認

識、滅びを宿命ずけられた肉体と永遠を願う心を持つ人間の不合理さ、此処

を如何に突破するのかが問題となる。久松はこれを禅に求めた。

日常を生きる自己としての自我は人間欲に根ざした分裂した自我であり自己

であるから果てしない対立と闘争の歴史を形成してきた。禅のいう心身脱落

とは日常的自己の死であり自我の死である。通常我々は実体のない分裂した

自我を実在の最も確かなものとして生きている。理性と置き換えて良い(理

性とは世界を対象化、抽象化した知識)。心身脱落は空であり無我である。

無我だから個という自覚もなく多という自覚も無い。個でありながら多、多

でありながら個である自覚(主観客観の統一、知識と対象が一なる状態、分

裂のない自我、実在)が行為する自己日常的自己の自覚に転じ本当の自己(

真の実在)が日常的自己を働き手として復活する。

この様な行為する自己が多を活かし個を活かす歴史を形成していくのである

。人間を成立させている世界から見れば不合理が合理であるから彼のいう「

人間理性にとって不合理なものが主体となって人間が蘇り合理が成り立つ立

場」とはこの様ことなのであろう。