| チベット問題と仏教 | ||||||||
| 寺を訪れる機会が多い。しかし余りに仏像の多さに戸惑う事がある。 単なる偶像崇拝に過ぎないような仏教の通俗性や後進性を思ったりした時期もあった。またチベット仏教の巡礼者が遠い道を幾日もかけ体を大地に投げ出しながら巡礼する五体投地を見てなんと非生産的、非効率なと思ったりした。 しかし宗教とか祈りはそれを評価する人の精神的レベルが問われる。 単なる偶像であっても、非効率なものであってもそこに表現される深いものを見出す精神力が問われる。それが長い伝統文化に根ざすものであればなお更第三者は簡単に評価を下す事は出来ない。
西洋社会と東洋社会の在りかたがどちらが優れているかという問いにも簡単には答えは出せない。 不変の自我を認める西欧的な分析的価値観の社会では技術の発展が近代化という結果を生み、片や自我【主観】を夢幻なものとして否定する東洋では近代化に遅れをとったが直感的思考が悪いと言うものでもない。 例えていえば 紀元二〜三世紀にかけ仏教の空が論じられた印度では数学の0の概念が生まれ自然科学の発達に多くの影響を与えた。空をイメージする0が全体を表す1を活かす。これは直感的発想を基本とする印度人だからこそ考え出した概念であるがそこからの発展はなかった。 人間の思考は直感的なものと分析的【分別】なものがあり、東洋の仏教は分別の否定から始まる。分別を否定尽くした時現れる直感【般若】を絶対視するから技術社会の構築には向いていないのだろう。 今問題となっているチベット問題も共産中国が清朝以来その影響下に置いたチベットの後進性を排除して人民を解放すると一方的宣言をして軍事侵略したのが発端であるが、宗教即ち民族固有の文化を抑圧されたことによるチベット民衆の怒りが底にある。 平均高度4千メートルを越す高地の厳しい自然と外部からの文化移入がほとんどないチベットでは七世紀頃印度から伝わった仏教が固有の民間宗教と混交しチベット仏教として現代まで純粋性を保ちながら信仰されている。輪廻転生による菩薩の生まれ変わりとする法王が祭政一致の国家元首であり国民統合の象徴である。 清朝以来の領土版図の縮小を嫌う中華思想から脱しきれない共産中国のエゴが法理に従うチベットの社会的、経済的後進性に付けこんだのは事実であろう。 仏教が古い形の純粋性を保つチベット仏教は所謂大乗仏教の印度から直輸入に近い形で伝わった。それがその形を変えないで現代まで連綿と続いているがその社会や国の形をどうするか決めるのはその国民であり他国が干渉する事は出来ない。もし干渉が許されるとすれば重大な人権侵害が宗教の名の下で公然と行われている時であろうが、中国侵攻まで平和な国家であり自主独立の国であった。 チベット仏教は大乗であるから菩薩の「慈悲と空の本質を悟る智慧」の実践を重要視するが死の過程を観察し涅槃に至る修業法に特徴があるとされる。 大乗仏教を理論化し強化したと言われる竜樹の中観がチベット仏教の思想の根幹といわれるが存在自体が決まった自性がなく空と説く。人は認識したものに様々な名をつけ実体化するが、存在自体が無であるから認識自体が誤りとする。認識世界の否定が即空の肯定であり対立する二を統一体、一と捉える。これが中観とか中道の意味である。いずれにしても煩瑣な大乗思想は理解が難しいので大衆にとっては誤解や現世利益的なものと結びつき易い。また宗教活動が盛んな所は、僧侶の特権化や不合理な精神面が増長され非科学的土壌や後進性を作るものである。その改革が遅れると他国や他民族に付け込まれる口実を与えてしまう。 釈迦の縁起論は存在は条件による生起だからものに本質はなく無我と説く。そこから発展した空観は縁起の主体が空と説く。不生不滅体の縁起が空であるからこの自然界を創造するエネルギー体を空と置き換える事が出来るであろう。この創造的、能動的働きを古人は仏性として捉え、信仰、礼拝の対象とし、具象化し仏像を作った。 仏性は生命現象から天体の運行まで全ての現象を働くものゆえ、宇宙の象徴大日如来から慈悲心の象徴観世音菩薩や強固な意志を表す不動明王等々様々な仏達を作り出す事が可能となる。自我を捨て宇宙の根源的なものと自己の一体化を願う密教系の信仰、対立を離れ平等に至る慈悲の立場に立とうとする観世音信仰、煩悩を捨て強い意志を育てたいと願う不動信仰はそれなりの意味もあるし、真理を造形化するのは人間の本能である。仏教の仏像崇拝とはこの様な意味があり、様々な仏像を礼拝する事を後進性の現れと捉えるのは間違いとなる。 近代の合理主義は自然を対象化し合理化、抽象化してきた。その帰結として様々な環境破壊や生命の維持を脅かす矛盾が露呈している。換言すれば西欧的合理主義は自我の肯定からによる発展である。 自己否定の仏教はその不合理性が合理と肯定されてくるものゆえ、大自然(空)からみれば調和となる。技術文明がある意味での終焉を迎えつつある人類は一度立ち止まり仏教的空の立場に立つべきである。 桜花は散るその刹那に、滅びの中に真の美がある。 近代合理主義の産物、共産主義を標榜しチベットを占領する共産党一党独裁の中国もまた然り、社会の後進性をあなどるチベットの有り様こそ本当は中国を精神的に越えているかもしれないと思う謙虚さが大事であろうが歴史的に抱えるナショナリズム中華思想に基ずく西側国境への過敏な安全保障意識や国内問題を他に転嫁し緊張状態を作り出す独裁の常套から抜け出すには未だ国家として未成熟であることを謀らずも世界に露呈したのが真相であろう。 もとへ戻る |