季節なら晩秋が良い。ちょっと肌寒い位の頃。持って出るのは水と食料と小さなガソリンストーブ、双眼鏡と、これが一番大事なキャンピングマット、バルブを開けると自分でゆっくり膨らむ奴だ。これがなくちゃ始まらない。
出発時間は早朝が良い。昼間は結構賑わう自然保護区の駐車場には、ほんとの好き者の、サイクルキャリアを乗っけた車が数台停められているだけだ。もちろん持ち主はもう朝靄の中に走り去っている。好奇心いっぱいの子供達に遮られる事もなく、静かに準備ができる。車をゆっくりと後退させて、「Canoe Launch Area」の隅につけ、ストラップを外し、ラダーのマウントを掴んでぐいっと引き下げる。運んできた車より長いシーカヤックがルーフの上でふわっと斜めになり、そこからするすると降ろされる様には結構非日常的な所がある。まあ、材質からしてバケツの親分みたいなものだから、取りたてて神経質に扱う事もない。そのまま砂地を引きずって水際まで持っていく。トランクから出した必需品と嗜好品をハッチを開けて放り込み、或いはデッキのショックコードに挟み込む。次のカヌーイスト、カヤッカーの為に車をどかしてからコクピットにもぐり込む。飛沫よけのスカートをきちんとはめ込み、これはちょっとおふざけの小さなコンパスをぽとりとその上に落として、出漕だ。パドルを水面に入れ、ゆっくりと引き寄せる。するりと、音もなく滑り出す。
その大きさからは想像できない軽さで進むシーカヤック。恐らく現在最も美しい船の一つだろう。人力という限られた動力源だけを頼りに海を行く様に設えられた低抵抗の船体は、必然的に細く長く、滑らかになった。厳密にはフレームに船皮を張り上げたクローズドデッキ構造、というのがカヤックなのだが、こいつはポリエチレンのモノコックだ。全長5m強に対し、全幅わずか60cm、上から見た形は、薄い凸レンズを思い浮かべればかなり近い。風による影響を抑える為のロープロファイル、だが行く手の波を切り裂く為にそこだけは鋭く高く聳える船首、ちょこんと船尾に乗せられた引き上げ式のラダーなどがスペシャリティを感じさせる。アウトドア・フィールドで使われる手漕ぎの、それっぽいボートは殆どの人達には「カヌー」という名前で認識されている。いちいち説明するのも面倒で、つい「そう、カヌーです。」と言ってしまうが、ほんとは違うんだ、という、やや屈折気味の、マイノリティのプライドをその度に強める。これはおおよそのカヤックが一人乗りだからだろう。自分を日常からほぼ完全に遮断する、悪いな、一人しか乗れないんだ、お前は連れて行けないよ、ということだ。
風と波が強い。ラダーを下ろして直進を助ける。なにせ人力、予定のラインから外れてしまうと復帰までには時間がかかる。ハンドル回してスロットルを開ければ瞬時に元通り、とはいかない。が、体感速度は充分速い。地図と時間で計ってみると時速5km程だが、遥かに速く感じる。速度なんていうのはほんとに主観で決まる。さて、ちょっと疲れた。小さな島の風下側に回り込んで一休みする。港というのはこういう物なのか、と思う。ほんの1m先では風が吹きまくり、水面が波立っているが、今、ここの水面はひたりと凪ぎ、関係ない。あっちは他人事だ。出たくないな。
僅か数時間のパドリングで、まわりに人工物は見えなくなり、シーカヤックとその装備品は異質な物になる。このあたりで風の当たらない、小さな浜を見つけられれば、と思った刹那、向こうに手頃そうな物件を発見、御都合主義と呼ぶなかれ、ほんとにあるんだから。浜に直角に全力で漕ぎ、そのまま勢いで乗り上げる。御到着。シーカヤックを引き上げ、念の為に船首に着けてあるザイルを手近の木に、ちょっと拘って舫結びで結び付ける。ぼーっとしてる間に流されたりしたら目も当てられない。この浜には水面側からしかやって来れないし、この時期に泳ぐ気もない。
先ずはマットを取出し、バルブを開く。ゆっくりとほどけ、膨らみ始める。横目で見ながらガソリンストーブを組立て、余熱を始める。主食を準備しよう、といっても湯を沸かすだけで8割方終ってしまう。頃合いを見計らって燃料コックを開ける。ごう、と青い炎が上がる。焚き火の方が恰好良いんだろうけど、ここではオープンファイアは禁止されているし時間が掛るし、コントロールにも長けていない。結局縛られているのだが、与えられた条件の中で目一杯楽しもう。湯を沸かしている間に双眼鏡を目に当てる。別に何が見えなくても良いのだ。若干近視気味なので、遠くにある物がすぐそこにはっきりと見えるだけで充分感動的だ。湯が沸いた。アルミのカップの中にフリーズドライの、その名も「グルメ・キャンプ・フード」をあけて湯を注ぐ。ごしょごしょとかき混ぜて数分間、テリヤキ・ビーフかけライスが出来上がった。広がったマットの上に座り込み、食べる。うまい、屋外で食べる暖かい食事は、いつでもなんでもうまい。その間に粉末卵を使ったオムレツを焼く。こいつもまあまあだ。フライパンから直接食べてしまう。ふう。で、コーヒー。拭っただけでテリヤキ・・・と同じカップを使う。少々油が浮くが、構うものか。清潔感なんていうのも、やはり主観的で相対的なものだ。食器を直接地面に置いても、言わばご飯茶碗にコーヒーを注いでもここでは気にならない。コーヒーバッグをカップに入れて湯を注ぐ。ひらひらと数回舞わせて出来上がり。砂糖とクリームはしっかり入れる。一口飲んで、そのままマットにごろんと転がる。
至福の瞬間。全ての投資と煩雑な準備、早起き、パドリング・・・・今までのプロセスはこの為にある。朝靄はもうすっかり払われ、遥か高みに絹雲が広がっている。この辺りには山がなく、空は大陸の大きさだ。真上を向くと、空しか見えない。真っ青では出来過ぎで、造り物みたいだ。今日はちょうど良い加減の、大きく高い、本物の空。では、と、寝てしまおう。できるだけ代謝を落として、ひっそりとしよう。ここに受け容れてもらえる様に大人しくしよう。ここに「普段」を持込んではいけない。只の乱入者になってはいけない。ここにいつもいる者の様に振舞いたい。程よい日差しが暖かい。
・・・・・・帰り支度を始める。ストーブの残圧を抜き、食器を手早く拭って防水バッグの中に入れ、口をくるくると巻いてバックルを留める。バルブを開けてマットを丸め、ストラップを掛ける。全てを来た時と同じ様に積み込み、舫いを解いて再び出漕。日常への帰還を開始する。ゆっくりと、同じペースのパドリングなのだけれども、体感速度は帰りの方が速い様だ。それは少しフォロー気味の風のせいばかりではないだろう。