瀬名の史跡ご紹介!


 平山温泉・・『平山温泉御殿乳母の湯竜泉荘』。御殿乳母と云うのは、地名で温泉は、昔から湧いていた様だが、
         宿が出来たのは、昭和33年。昔の湯治場風の温泉宿で、17度の冷泉ですが、
         硫黄泉が諸病に効くとあって常連さんで賑わう。

  

 光鏡院・・・今川にゆかりの瀬名一族の菩提寺で苔むした墓の数々、このお寺の横に『梶原合戦絵巻』なる大板絵が
        掲示されていて、この辺りが戦国時代、合戦の場となり、梶原一族が非業の死を
        とげたいきさつが記されている。梶原景時がただ一人裏山で自害をとげたと云う。
        梶原山に続く道がそこから出ている。
        文亀3年(1503年)光鏡院殿と称し、光鏡院設立。明治7年(1880年)7月、光鏡院で小学校教育始まる。


光鏡院

 梶原山・・・今は、茶畑となっている6世紀頃の瀬名の豪族の古墳群を抜けて登る遊歩道を行く。
        追っての挟み打ちにあって山頂に逃れ、自害して果てたという、梶原景時親子の丸い墓石や記念碑、
        景時親子が自害する前に鬢のほつれを直したという水場、「髪洗水“びんみず”」と呼ばれる泉を
        訪れることが出来ます。
        山頂の一本松公園はわずか標高304メートルながら視界をさえぎるものは何もなく、
        360度の展望が出来ます。また、標高279メートルの梶原山公園も整備されました。
  

梶原山公園 富士山
     梶原山の公園      梶原山公園から見た富士山

 
     一本松公園        一本松公園から見た富士山

 切石・・・・・竜爪山を源として西奈地域を流れ下る長尾川の流域は、静岡平野の北西山間地を流れ下って
        安倍川に合流する藁科川流域と並び、徳川家康が築城した駿府城の石垣石の主な
        石丁場(石取場)でした。
        慶長12年(1607年)頃、徳川家康が駿府城築城の折り、お濠の石垣石は大部分を
        瀬名村や長尾村より村民の労力供出により切り出され、瀬名村より駿府に通ずる、
        ただ一本の道(新幕より瀬名原を通り、勘南久より川合に至る)を使用して運ばれていた。
        瀬名大谷津山(通称陣岩沢)より切り出された石もこの道を通って駿府に運ばれました。
        運ぶ途中転げ落ちた石を使うと落城につながるという縁起から拾い上げられず、
        昭和52年(1977)1月28日の道路拡幅工事のとき拾い上げられたのがこの石です。
        地元の人はこの石を切石と呼んだことから明治になって小字が制定された時この附近の地名を
        切石と名付けました。切り出した大名家の紋のある石を「御紋石」とも言います。

 
保存されている伝説の切石

         現在、水梨橋北100メートル左岸上流に保存されています。(北緯35度1分10秒,東経138度25分8秒


 瀬名郷倉・・郷倉とは江戸時代の近世農村において年貢米の保管や凶作時の保存米を収めるため
        村々に設置された穀倉のことで、村役人の管理下におかれた。
        付属の番屋には常駐の番人をおいていた。
        郷倉の建物は火災を防ぐため厚い土壁をもった土蔵造で外壁は、白い漆喰と腰瓦で固めてある。
        内部から幕末の天保4年(1833年)8月の再建棟札が見つかっている。
        番屋までそろった、この様な施設は、全国的にみても少なくなっているため、近世農村の
        姿を知るうえで貴重な遺産である。
        現在、民俗資料館として農具や生活用品を展示しています。
「昭和15年(1940年)現在地に移転」

瀬名郷倉
瀬 名 郷 倉
(市指定有形文化財 指定年月日 昭和47年9月14日)


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