第34話    2004.01.02


『謹賀新年 2004』―福神根付―

 何となく、
 今年はよい事あるごとし。
 元日の朝晴れて風無し。

 『悲しき玩具』に収められた啄木の歌である。
 啄木を知ったのは中学の教科書であったか。高校三年の夏に新潮文庫の歌集を買った。その夏、私は受験勉強のため長野県野沢温泉村の農家に寄宿し、そこから直江津へ向かう途中の埃っぽい書店であった。併せて太宰治の『人間失格』も買い、たちまち文学の毒に中った。

 やはらかに積れる雪に
 熱てる頬を埋むるごとき
 恋してみたし

 ふたつ下の少女に恋をして、はじめて己を狂わせたのもこの夏であった。失恋の末の死への誘惑。おろかにも、まことにおろかにも、私はその三年後に少女と再会し、切なくも甘美な過ぎ去りし恋を摧いてしまった。そっと、埃をかぶせておかなければいけない思い出もあるのだった。

 とある日に
 酒をのみたくてならぬごとく
 今日われ切に金を欲りせり

 高校三年の夏に買った歌集は、幾度かの引越しで紛失した。今日手許にあるのは何冊目かのもので、上記の歌に印があったので書き出した。失業し、東京の薄暗い四畳半でくすぶっている折に印したのだろう。
「今ここに30万のカネがあったら俺はしあわせになれる」と思った。
 私は記者の仕事にありつき、ともかくも30万のカネを貯めた。が、しあわせにはなれなかった。
「なら100万だ」
 商社への転職を期に四畳半を引き払い、新宿副都心の六畳へ移った。100万貯めるのに1年を要しただろうか。が、しあわせだとは思わなかった。独り身の私には、カネ以上に欲するものがあったのだろう。

 人がみな
 同じ方角に向いて
 それを横より見てゐる心。

 およそのものはカネで買える。これがオモチャとなれば、カネさえ出せばなんでも買える。ならば、カネがあっても買わないという姿勢は大切ではなかろうか。
 文学でいうならば、そこに何が書かれているかも重要だが、何が書かれていないかもまた重要である。

 はたらけど
 はたらけど猶わが生活楽にならざり
 ぢっと手を見る

 これはきっと、はたらいているときこそが楽なのだという意味なのだろう。はたらく手を休め、ぢっとそいつを見ようものならたちまち虚しさに襲われちまうぞという警告なのだ。
 万楽は今年も元日より営業。「ほお、頑張りますね」と他人様はおどろかれ感心されるけれど、なに、はたらいているほうが気が安まるだけのことなのだ。
 さあ、元気で行こう!

(写真解説)
 福神根付(タカラ・海洋堂)の「宝船」全高約6.5センチ。一昨年発売され、昨年12月にまた販売となった。原型総指揮は百鬼夜行でおなじみの竹谷隆之氏。宝船は江戸時代、正月二日にその絵を枕の下に敷いて眠り、吉夢ならばしあわせの前兆とし、悪夢ならばその絵を川に流し、厄払いをしたという。『おもちゃと文学』が「お気に入り」から削除されなければいいが……。
   皆様のご多幸をお祈りいたします。
 

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