第36話    2004.01.22


『遠方より友来る』―トラウマガメラ―

 昨年末にインドの友が来日した。
 日本に住まうご舎弟の招待である。
 友の名はカジ・シェルパ。ご舎弟の名はテンジン・シェルパ・カタギリ。ともにエベレスト登山で知られるネパールはナムチェバザールを故山とする誇り高きシェルパ族である。
 今日、カジはデリーに暮す。みずから旅行代理店を営むものの、インドとパキスタンの緊張が高まるなかで旅行者が激減し会社は開店休業状態。ならばこの機会にと二度目の来日となった。
 一度目は94年の12月だった。翌年に計画されたヌン(インド最北部・7156m)遠征隊の招きである。
 私とカジの出逢いは91年5月だった。私は日本の旅行社が主催した二週間のガルワール・トレッキング・ツアーに参加し、彼はそのツアーの山岳ガイドを勤めていた。
 私はこの山旅で得た友を頼って93年1月に単身インドを再訪し、カジとの再会も果たしたのである。後年、私はこのときの旅に材を取り『フィル ミレンゲ』を著した。ただし、この物語にカジは登場しない。カジについては、別に一冊を著さなければという思いからであった。
 94年10月。私は「ペスト騒動」もなんのそのと三度インドを訪れ、カジの案内で紅茶の産地として有名なダージリン周辺の山を歩き、秘境シッキムへも足を踏み入れた。
 この旅では二人してしたたか酒を呷った。シッキムのウィスキーが旨いというので土産にしこたま買い込んだが、旅の終わりにはすべて飲み干してしまった。ロキシーやトゥンパといった素朴な地酒も力まかせに薙倒していった。4000メートルを超える高地で呷る酒は強烈で、夜ごとの星の煌めきが、未だに瞼の裏で明滅している。
 カジの初来日はその翌年である。私は春日部のテンジン宅にカジを訪ね、来日中の案内と遠征隊との通訳を買って出た。遠征隊のメンバーだったのが小林大吾であり、藤田鎮大であり、ともにラダックを歩いた長谷川達也、由美夫妻である。私はカジによってこれらの良き友を得ることができた。さらに、私は彼によって山のたのしさを教えられたのである。
 95年7月。私は遠征隊に同行してベースキャンプで1週間を過ごし、2日かけてレーに戻り長谷川夫妻と合流。マルカ峡谷に10日遊んだ。
 そして96年7月。私はガンゴートリー氷河を眼下に望むサドゥー・コロニーにタントラの奥義を尋ねた後、小林大吾が勤務する出版社の連中とデリーで合流し、タージ・マハル等の遺跡を見物。このときのカジは足を骨折して動けず、皆で自宅に押しかけ見舞った次第。以来、約8年ぶりの再会となった。場所は東京の長谷川夫妻宅である。
 カジは童顔である。年少の白髪頭の私のほうが老けて見えたのではあるまいか。肩をならべてソファーに腰掛け、ゆるゆると8年の空白を埋めていった。
 UNOに興じた三人の子供は16、14、12歳になり、長女は大学に進むという。デーラドゥンの寄宿舎に彼女を訪ねたのは一昔前であった。
 カジの一番下の弟パサンは結婚し、一児の父になったという。彼にも世話になったのだ。スクターの後に乗り、ずいぶんとデリーを走ってもらった。頬をなぶるあの生温かい風が即座によみがえった。否、私は空白を超え、デリーのカジ宅でくつろいでいるかのような気分だった。
 私はこれまでに五度インドを訪れ、都合一年ほどを彼の地で過ごした。いずれも過酷な旅であり、行き倒れを覚悟した日もあった。今日の私の体力では、もうそのような旅はできないだろう。それを思うとインドで過ごした日々が愛おしく、老いて行く者の寂寥に凍える思いがした。
 かつてのように夜を徹し、大いに飲み、語りたかった。が、今の私にはそれさえも許されず、一人中座して家路に着いたのである。その夜の闇に、結婚以来つとめて眼をそむけていた孤独が突如として立ちはだかり、私の行く手をさえぎった。
「豊かさってなんだ? おれは風邪をひいても店を休むことなどできなかった。カジは閑だというので1カ月の休暇をとって来日した。この落差をどう説明するのか……」

(写真解説)
 ガメラ・ガッパ・ギララ特撮大百科第1弾の「トラウマガメラ・クリアバージョン」全高約6センチ。インドは私のトラウマなのだ。写真のようなおどろおどろしさでもって私の前に立ちはだかっているのである。
 

トップへもどる