第48話    2004.05.22


『野球』―巨人の星・その3―

 思いこんだら 試練の道を
 行くが男のど根性
 真っ赤に燃える王者のしるし
 巨人の星をつかむまで
 血の汗ながせ 涙をふくな
 行け行け飛雄馬 どんと行け

 アニメ「巨人の星」の主題歌である。耳の底の記憶を頼りに書きだしたので、間違いがあるかもしれない。
 私の友人は「思いこんだら」を「重いこんだら」と記憶して、重い「こんだら」とはいかなるものなのかと、ずっと疑問のままに過ごしてきたという。
 私は「夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か」という童謡を、永く「追われて見たのは」と誤解して、いったい彼はどんな悪事を働いたのかと不思議でならなかった。
 私は母の背に負われていた頃からボールを握り、バットを振っていた。いずれも当時はどこのオモチャ屋にも吊る下がっていたプラスチック製のものだった。グローブはビニール製で、すぐに破れる粗悪品である。
 皮革のグローブを手にしたのは、おそらく小学校に上がって間もなくだと思う。手にあわず、ひどく苦労したのをおぼえている。
 この頃から遊びといえば野球だった。ボールはソフトボールであったり、軟らかなテニスボール。テニスボールのときは三角ベースで、手で打った。これは放課後の校庭でさんざんやった。
 2年生になり、私は近所のガキ大将に誘われ町内の少年野球チームに入った。これは毎年夏に地元紙の主催で開催される「熱海市少年野球大会」に出場するために結成されるチームだった。大会が終われば解散し、来年また新たに結成された。
 小学生4人と中学生5人のチーム編成で、市内の高校や中学の運動場、後には市営の野球場で行われた。大会の模様は連日地元紙に掲載され、私は小学5年、6年と敢闘賞をいただき、その記事を目にしたときには涙があふれてくるほどにうれしかった。そのとき褒美にいただいたノートは今でも大切にしまってある。
 学校にあっては、各クラスごとに野球チームがあった。教師の指導で結成されたわけではなく、児童が自主的に結成した。日曜日ともなればそろいのユニフォームを着て試合に臨んだ。少年野球で使用している軟式ボールは禁止されていたので、小さなソフトボールを使っての上投げであった。
 ちょっとだけ自慢させてもらうと、各クラスへ野球チームの結成を呼びかけたのは小学4年生の私であり、最初にユニフォームをこしらえたのは私のクラスであり、ソフトボールの上投げというルールを提案したのも私である。私は心底野球が好きだったのだ。
 私が入学した中学には、野球部がなかった。だから、私は当初バスケット部に入り、2年生になって部を辞め、野球同好会を立ち上げた。が、その活動に横槍を入れ、私をイジメたのが体育教師の柴田翼である。後年、このバカ野郎が中学の教頭に就任したと聞いて、私は「教育の荒廃ここに極まれり」と嘆いたことだった。
 中学の3年間は私にとって暗黒であった。私は卒業を心待ちにし、卒業後は一度として中学へ足を向けなかった。当時はまだ「お礼参り」といって、卒業生が教師や在校生をぶん殴りに来たけれど、私は在校中に「お礼参り」を済ませていた。用務員室に「ゲソ」という渾名の英語教師を呼び出し、吊し上げたのである。無論、私一人ではない。四人だった。もし、私一人にそんな度胸があったならば、私は熱海に本拠地を置いていた広域暴力団稲川会の構成員になっていただろう。
 15歳の私はゲソにではなく、柴田にこそ「お礼参り」をしなくてはならなかった。ではなぜしなかったのか? 理由はふたつある。ひとつは仲間の賛同が得られなかったこと。もうひとつは勝ち目がなかったこと。しかし、今なら勝てるぞ!
※第49話につづく。

(写真解説)
 SRシリーズ・ジョー&飛雄馬「タイトル(巨人の星)」(ユージン)全高約7センチ。テレビ画面にこのタイトルが映し出されると、グッとあごをひいたものだった。
 
※写真をクリックすると拡大します。
 

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