第49話    2004.06.02


『続・野球』―巨人の星・その4―

 高校へ進学するにあたり、私は「名門」「強豪」と呼ばれた野球部の練習を見に行った。
 東海大相模は一番のあこがれで、私が小学生の夏の甲子園大会で全国優勝を果たし、一躍その名を全国に知らしめた。監督は先年三池高校を率いてやはり全国優勝を果たした原貢氏。巨人軍の前監督原辰徳の父親といえばお分かりだろう。原氏は辰徳の大学進学とともに東海大の監督に就任し、当時は「父子鷹」として世間をにぎわせた。
 東海大相模を訪れたのは、中学2年の二学期の終わりだったと記憶する。土曜日の午後で、着いた時には既に辺りは暗くなりかけていた。私はたいそう立派なグラウンドにおどろき、選手の伎倆に舌を巻いた。とても私が太刀打ち出来る相手ではないと、ひどくがっかりしたのをおぼえている。
 横浜高校は2年生エース永川を擁し、春の大会で全国優勝を遂げた。私はその永川投手が見たくて日曜の朝早くに家を出て、同校を訪れたのである。
 その時に写した写真が未だ私の手許にある。「がんちゃん」こと永川投手は卒業後プロ野球選手となったが、活躍する間もなく帰らぬ人となった。
 横浜高校の監督は愛甲、そして現西武ライオンズの松阪投手を育てた渡辺氏である。サングラスをかけ、どっかと腰を下ろし、紅白戦を睨みながら鋭い声を挙げていた。熱海のヤクザとて道を譲るであろうド迫力に、私はおののいたのだった。
 思えば、両校ともに神奈川県下はもとより全国から選りすぐりの選手を集めてチームづくりに励んでいる。私のような何の実績もないチビ助を、受け容れてくれるはずがない。なにより、親が野球のために高校へ行くなど許してくれるはずがなかった。
 やむなく、私は静岡県下ではそこそこの成績を残していた修善寺工高へ入学した。野球部の練習には入学式の前から参加した。スパイクを履くのは初めてだった。硬式ボールの重さと硬さにたじろいだ。
 入学式の後に開かれた入部式で「君のセールスポイントは?」と問われた私は、思わず「根性です」と答えたのである。ここでの根性とは「どんなに厳しくともけしてへこたれません」との謂であった。
 ところが、私はその1カ月後に退部した。
 制裁として上級生に「ケツバット」を喰らわされ、3日ほど椅子に座ることができなかった。当時は怨んだりもしたが、今となっては袋叩きにでもしてくれたほうが、いっそすっきりしただろうと思う。
「なぜ退部したのか?」と、私はこれまで何度となくみずからに問うてきた。
 ひとつには私の右肘の問題がある。私の肘はいわゆる「野球肘」というやつだった。
 野球肘とは、肘の使いすぎ(投球練習)により軟骨が剥離し、その剥離した骨片(関節ネズミと呼ばれる)が成長期にある骨と骨の隙間を、それこそネズミのように移動し冒すのである。
 中学1年の春にその摘出のため手術台にまで上ったものの、ネズミの居場所が悪く、放置された。それでも、軟式ボールには耐えてきた。それこそ根性で以て。が、硬式ボールには耐えきれなかった。肘が軋み、悲鳴をあげている状態だったのである。
 私の肘は未だにまっすぐには伸びない。日常生活には何等の支障もないけれど、季節の変わり目になると、思いだしたようにシクシクと痛むのである。
 痛む肘をさすりながら、人には「高校球児であった」といって憚らない。憚らないものの、常に後ろ暗さや寂しさをおぼえる。
 私はきちんとした指導の下で野球をしてきたのではない。ずっと草野球選手だった。草野球ゆえに柴田が如きチンピラ教師にナメられた。私は人一倍野球部という組織にあこがれ、期待した。が、現実はどうだったか?
 私の退部の真の理由は、この理想と現実のギャップに幻滅したのである。『巨人の星』はあまりに美し過ぎたのであった。

(写真解説)
 ファイティングコレクション・巨人の星「飛雄馬(少年時代)」(ユージン)全高約7センチ。ご存知大リーグボール養成ギブス。これを「平等という戦後義務教育に対するアンチテーゼ」と観るのは穿ち過ぎだろうか?

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