第57話    2004.10.01


『ココロの隙間』―笑ウせぇるすまん・喪黒福造―

 暑さ寒さも彼岸まで。で、このところめっきり涼しくなった。これまで暑さを理由に自己と向き合うことなく過ごしてきたけれど……。
 先日、エポック社から藤子不二雄Aコレクション「笑ウせぇるすまん・全5種」が発売になった。ご存知「喪黒福造」である。
 喪黒福造のミニ・フィギュアは、昨年フルタ製菓から20世紀漫画家コレクション6「藤子不二雄Aの世界」としても発売された。私はこいつを東京中野のファミリーマートで手に入れた。売場に飾られていたものを譲ってもらったのである。
 喪黒福造がテレビに登場したのはいつだったか? 少なくとも私はひとり東京のアパートで視ているから、一昔前になるのではないか。
 スナック&バー魔の巣のカウンターでうなだれていると、ドーン! と喪黒福造が現れる。そして彼または彼女の悩みを聞き、解決に一肌ぬぐというのが一貫した筋であり、その解決方法は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に描かれた銀色に輝く蜘蛛の糸である。
 つまり、お釈迦様がお下ろしくださった蜘蛛の糸を、みずからの罪業によって断ち切ってしまい、またぞろ地獄の底でうごめく破目となる。
 子供向けに書かれた『蜘蛛の糸』が、今日なおオトナの鑑賞に堪えられるのは、あわれ血の池の底へ石のように沈んだ大泥棒のカンダタを、浅ましく思いこそすれ自業自得と突き放しているからである。
 芥川は「極楽の蓮池の蓮は、少しもそんなことには頓着致しません。その玉のような白い花は、お釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら蕚を動かし、そのまん中にある金色の蕊からは、何ともいえないよい匂いが、絶間なくあたりへ溢れております。極楽ももう午に近くなったのでございましょう」といって『蜘蛛の糸』を結んでいる。
 大泥棒の生き死になど、お釈迦様の朝の散歩の暇つぶしである。ここでいうお釈迦様とは、親鸞の説く「自然法爾(じねんほうに)」であり、あるがままの姿であり、無常の謂である。
 先年、私は父を亡くした。その折、なにが悲しいといって、葬儀の日の、一片の感傷もみせない晴れ渡った空の青さほど悲しいことはなかった。
 父は、否、私たちはことごとくカンダタである。私は放火や殺人こそ犯さないけれど、いつそのような場面に遭遇するとも限らないし、欲望の強さにおいてはカンダタに優るとも劣らない。
 オモチャはいくら買っても飽き足らず、海水を飲むにも似て買えば買うほど渇きをおぼえる。愚劣の連鎖であると知りつつも、その鎖を断ち切れず、ずるずると日がな一日を過ごしている。
 こころは隙間だらけで、「ホーッホッホツホッ」と空々しい笑い声を響かせながらドーン! と喪黒福造が現れたならば、私はたちまち彼にこころを売り渡してしまうのではないか。
 さて、売り渡したとして、私はそのお代に彼から何をいただくか?
 失敬ながら、私はこの自問に答えることができなかった。よって、喪黒福造にこころを売り渡すこともできず、彼の高笑いを遠くで聞いているよりない。
 まあ、それも暇つぶしには良いかもしれない。
 追記
 この雑文を書くに当たり、私は久方ぶりに「自然法爾」にふれた。私のそれは髭題目のような掛け軸ではなく、丹羽文雄の『親鸞』にある。かつて、私はひと夏をこの小説の自然法爾の章にすがった。印しのついたページを開くたびに、当時の己の必死さが伝わってきた。そして改めて教えられた。
 こころなど無いのだよ、と。

(写真解説)
 笑ウせぇするまん「シークレット」全高約5センチ(エポック社・カプセルコレクション)。左・原作者の藤子不二雄A。右・喪黒福造。「お宮の松」を背景に……、てなわけではないだろうけれど、オトナのオモチャとしての出来栄えに満足であります。

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