『魚屋のケンちゃん』―怪虫と池垣くん―
ケンちゃんはとんでもない酔払いだった。
否、はっきり「酒乱」というべき手合であった。飲んでは女房はおろか子供にまでも手を上げて、終いには独り取り残され哀れな最期を迎えた。
店をはじめて25年にもなると、10年ぶり、15年ぶりなどという客が年に何人か来る。
恥ずかしげもなく申し上げるけれど、かみさんは私の自慢で、その自慢の内訳のひとつに超人的な記憶力がある。おそらく、25年間に来店したたいがいの客の顔をおぼろげにも記憶しているものと想われる。
その年配の客もそうだった。
仕事が休みの水曜日、彼は閉店まじかにふらりと一人であらわれた。
「めぼう(イカの口)と鳥レバー」
「何本ずつ焼きますか?」
「三本」
「飲み物は何にしますか?」
「酒」
「冷酒もありますけど?」
「熱燗で」
「一合と二合がありますけど?」
「二合」
こんなぶっきらぼうなやりとり後、彼は口を開くこともなく二本目の徳利をかたむけだした。酔いが彼のおくてをやわらげたのだろう、なつかしそうに、
「15年ぶりだ」といった。
「今でも魚屋さんにお勤めですか?」と、間髪入れずにかみさんがたずねた。
ほんのり朱の差さした頬がゆるみ、途端に彼の口はなめらかになった。
「ケンちゃん、どうしてます?」
「死んだ」と、彼はいった。
知らなかった? という口ぶりだった。
今年の2月のことだった。
その日、朝帰りのケンちゃんは、おそらくは夕方まで寝ていたのだろう。
「仕事は休みだし、朝帰りといったってそんなことはしょっちゅうだから、寮のみんなも気にとめなかった」と、彼はいった。
外でのケンちゃんは気前がよかった。隣合わた客にご馳走したり、初めて顔を合わせた若者たちを引き連れカラオケボックスに繰り出したり。また「店で使ってよ」といって、私は北海道の名産・氷下魚(こまい)の生干しをいただきメニューに加えた。
それでも、私はケンちゃんが素面でなければ断じて店へ入れなかった。また、酔払う前にやんわりとお引取り願った。無論、私にそのような高度な接待術はないからかみさんの役目となる。
「夕方、6時頃だったかな。ドアを『バタン!』と開ける音がしてね、するとすぐに階段を転げる落ちる音がしたんでびっくりして飛び出したんだ」
血まみれのケンちゃんが全裸で倒れていたという。肩から肘にかけてザックリと、鋭利な刃物で斬られた傷があった。
「死因はくも膜下出血だと医者はいったけどね、おれは事件の可能性があるんじゃないかと、今でも思っているんだよ」と、彼はいった。
女が全裸のケンちゃんに斬付け逃走。それを追ったケンちゃんが階段を踏み外して転落したのではないかと、彼は推測しているようだった。
風呂場が血の池地獄と化していたという彼の話を聞いた私の推測はこうだ。
夕方、ケンちゃんは二日酔いの頭を抱えて目を覚ました。酔いを覚まそうと熱い風呂に入った。湯船から上がったときによろめき(くも膜下出血を起こして)、風呂場の鏡に当たりザックリとからだを傷つけた。
大量の出血。あわてたケンちゃんは全裸のまま、助けを求めて部屋の外へ飛び出し、階段を踏み外して転落。
ケンちゃんの心臓が止まったのは、救急車で病院に搬送されてから2週間後のことである。ついぞ、意識が戻ることはなかったという。
享年54歳。
(写真解説)
20世紀漫画家コレクション8・楳図かずおの世界「怪虫」と「池垣くん」左・池垣くん全高約5.5センチ(フルタ製菓)。万楽に在ってケンちゃんはじめ「酒乱(怪虫)」と対峙する私は、まさに必死な池垣くんである。蟷螂の斧といったところか。
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