第59話    2004.11.01


『洟からポテチン』―妖怪百物語其の一・河童―

 かみさんがズルッと洟を垂らした。
「あらっ、私としたことが」と、照れて笑った。
 洟を見て思い出した。
 かれこれ18年になる。
 その年の夏(86年)、私は胃潰瘍の療養のため任地先の津軽から郷里の熱海へ帰った。
 高校からの友がいて、
「それなら一杯やるか」ということになった。
 胃潰瘍の患者を嬉々として酒に誘い、またいそいそと出向くのだから、我々の関係が知れよう。
 場所は三島・修善寺間を走る駿豆線大場駅前のスナックだった。スナックの名は失念した。友に尋ねようかとも思ったけれど、これからつづる雑文に予見を与えられることを危ぶんでやめた。
 スナックの経営は、人気漫才コンビ唄子・啓助の鳳啓助師匠の四人目の夫人ハマ子さんがなされていた。
 友はこの店の常連だった。師匠ともたびたびグラスを重ねたという。といって、友のお目当ては師匠ではなく、店で働くホステスだった。
 彼女は師匠が主宰する劇団の研究生で、女優を夢見て師匠の家に住み込み、言わば下働きとしてホステスをしている様子だった。切れのある美人で、バツイチの友が夢中になるのもうなずけた。
 その夜、カウンターに立つ彼女の鼻の下に、なんの拍子か、タラーッと一筋洟が垂れた。私は目のやり場に困ったのだけれど、彼女はなんら臆することもなく、くるっと背を向けると洟をふきとり、振り返るとちり紙で鼻栓をしておどけて見せた。
 やばい女にひっかかったぞと、私は純情な友の身を案じたことだった。
 この鼻水美人の公演を、私は友のお供でわざわざ新宿まで見に行った。師匠扮する探偵のドタバタミステリーといったところか。
 終了後、友と私は後援者の方々とともに師匠に焼肉をご馳走になった。
 師匠は終始上機嫌だった。舞台がはねた安堵感というよりも、会食が心底お好きのようだった。ホストとしてあれこれ気を遣われていたことが強い印象として今に残る。
 鼻水美人はその後、劇団の男と手に手をとって行方をくらましたと聞いた。
 友はその後、かつての職場の同僚と結ばれた。師匠と食べた焼肉から5年の後である。
 結婚式には師匠も招かれていた。和服をめされ、祝辞をのべられたが、内容はまったく記憶していない。あるいは「ポテチン」などといって笑わせたかもしれないし、夫人同伴であったかもしれない。
 今日ならば、私は師匠の脇に侍ってお話をお伺いしたことだろう。が、当時の私に芸人は胡散臭い存在だった。こんな自己の潔癖が悔やまれてならない。
 師匠にお目にかかったのはこの二度きりである。
 かみさんが洟を垂らしてから間もなくの日曜日、私は函南のブックオフで『鳳啓助のポテチン闘病記』という本と出会った。著者は夫人の鳳ハマ子である。
「そういえば、ポテチンは死んだんだったな……」というのが、本を手にした折の思いだった。
 師匠は腺ガンに冒された。最期まで拒みつづけたのだけれど、もし、手術をしたならば「右眼球は保持できず、頬骨を削り顎の半分は取る」という、ほとんど悪魔的な治療が施されたという。
 生涯芸人の師匠には、到底受け容れられる治療ではなかった。著書はそのこと中心に、発病から臨終までが綴られている。
 私はこれまでに何冊かこの種の闘病記に接したけれど、どれもが他人事だった。が、ポテチンについては面識があるということもあり、一言半句が胸に刺さった。芸人魂の壮絶を知らされた。師匠は芸人が芸人であった時代の最後の芸人であった。芸人とは、蔑まれ虐げられた存在だったのである。
 鳳啓助。1994年8月8日永眠。71歳。

(写真解説)
 大映特撮シリーズ・妖怪百物語其の一「河童」全高約7.5センチ(ユージン)。師匠は相方の京唄子に「エロかっぱ」と呼ばれていた。漫才の台本はすべて師匠が書かれていたというから、自嘲をこめてそう呼ばせたのであろう。合掌。

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