第61話    2004.12.04


『映画青年』―黒澤明・よみがえる巨匠の現場―

 昭和40年代の天声人語にみる。
「ロンドンのある集まりで、居並ぶイギリス人に『日本人で有名な名前』を質問したことがある。『ヒロヒト、トージョー、クロサワ』の三つが一番知名度が高かった」
 クロサワは溝口健二、小津安二郎、木下恵介、市川崑などと日本映画の黄金期(昭和30年前後の約10年間)を築いた映画監督である。
 当時、映画監督は「偉い人」であった。同時に、教師や警察官や役人も偉い時代であった。文学でいうならば、市谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺を遂げた三島由紀夫は、最後の「偉い人」である。
 三島はみずからの腰の物によって介錯されたが、今日の常識からすれば、日本刀を携え総監との面接に臨むなどとても考えられない。そもそも小説書きなんぞにおいそれとは会ってくれないだろうし、刃物でもしのばせていようものならたちまち拘束されるだろう。
 天声人語氏の面前に居並んだイギリス人は、おそらくは皆政治的な人だったのだろう。ちょっとでも日本文学を手にした人ならば、自信を持って「ミシマ」の名を挙げただろうし、今日、ヨーロッパの街角で同じ質問をしたならば、きっと「ナカノ」の名が挙げられるはずだ。
 ナカノとは、世界スプリント選手権で10連覇の偉業を遂げた競輪の中野浩一選手である。プロポーズのことばが「ボクちゃんのバンツを洗ってちょうだいな」とか、男性かつらのテレビCMに出演するなどといった本人の軽率と、自転車競技への関心の低さとで国内での評判は馨しくないけれど、ヨーロッパでは「偉い人」なのである。
 閑話休題。
 黒澤明は明治43年(1910)3月23日、七人兄弟の末っ子として東京大森に生まれた。
 父は陸軍士官学校の一期生である。黒澤はこの父についてはよく語るが、母についてはほとんど語らない。これは歌人石川啄木も同様で、湯川秀樹はそれを「エディプス・コンプレックスの逆の精神作用」ではないかと推論している。つまり、父に対する敬愛の情である。
 『七人の侍』に代表される黒澤作品が、強い男性のイメージに色取られ、益荒男の世界を本然の姿としているのも、そうした深層心理にあずかっているように思われる。
 黒澤のデビュー作『姿三四郎』は昭和17年、助監督生活6年の後の32歳の制作である。「作家は処女作に向かって成長する」といわれるように、姿三四郎には黒澤のすべてがある。
 私はこの映画を観た。京橋のフイルムセンターであったか、浅草の東宝であったか定かではないけれど、二十歳前後の映画青年の折に観ている。経年劣化のためか画面は暗く、殊に決闘シーンは影絵のような印象だった。かなうならば、今日の技術を以て再生された鮮明な『姿三四郎』を観たいと思っている。
 黒澤は画家を志し、その生活の糧として映画の道に進んだ。東宝の前身PCLの助監督に採用されたのである。
 ところが、「いかにも助監督という仕事がアホらしい。こんなことで毎日これから暮すのかと思ったら、とたんに辞めたくなっちゃった」と、後に黒澤は語っている。
 ここで辞めていたら「世界のクロサワ」はなかった。焼鳥屋のオヤジにでもなっていたかもしれない。続けていたからこそ才能が開花したのだ。あるいは、継続が黒澤の才能であった。無論、時代の風も、運もあった。が、それもひとえに継続の力である。
 私はフローベールがモーパッサンに与えたことばを思い出す。
「才能は忍耐だ。勉強されたし」
 今年、米大リーグ・シアトル・マリナーズのイチロー選手が年間最多安打の記録を更新(262安打)した。実に84年ぶりの快挙であった。
 このビッグニュースは万楽でも話題になり、にわか野球評論家の私も酔客を相手に私見をのべた。
「イチローがどうして大記録を樹立したかといえば、彼が一番バットを振ったからです。そして今なお振りつづけているからです。バットが振れるということが彼の才能なんです。大リーガーといえどもイチローほど振れるもんじゃありません」
 酔客の眼はうつろであった。

(写真解説)
 黒澤明・よみがえる巨匠の現場(QBC)。左から「室戸半兵衛・椿三十郎・黒澤監督(全高約9センチ)」。黒澤映画は私の青春だけれど、はたして、このオモチャは売れるのだろうか? 私はいずれ投げ売りされるだろうと踏んで買い控えているのだが……。

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