第62話    2004.12.23


『メリークリスマス』―ゴジラ特撮大百科Ver.2―

 求めよ、さらば与えられん。
 尋ねよ、さらば見出さん。
 門を叩け、さらば開かれん。

 ご存知『新約聖書』マタイ伝(ルカ伝)の一説であり、私の好きなことばでもある。
 私が聖書を手にしたのは社会に出てからだった。映画監督を志し上京したものの思うにまかせず、何度か「死んじまおうか……」と思った。
 そんな青春の折、誰に勧められたわけでもなく、ふと古本屋の店先の、山と積まれた1冊20円の聖書に手を伸ばしたのである。
 それは和訳(残念ながら現代語訳)と英訳の両方で書かれた『新約』で、英語をおぼえるにも役立った。『旧約』は旧訳を買い求め、美しい日本語の勉強に役立った。
「聖書は小難しい仏典と違いただ読めばいい。読めば救われる」といったのは私が敬愛した柴田錬三郎だけれど、そうは問屋が卸さなかった。
 後日、私は犬養路子の『旧約聖書物語』と『新約聖書物語』の二冊を古本屋で掘り出し、聖書の概要を理解したのだった。
 私は「最後の審判」を信ずる者ではないから、聖書は文学、または処世訓として読んでいる。
 私の親しい友人に敬虔なカソリック教徒がいる。父上は教会の世話役を務められ、ご舎弟は修道院に入り神父の道を歩みはじめた。真摯に話し合ったことはないけれど、彼等は「最後の審判」を信じているのである。
 その友に誘われて、私は十年ほど前に一度、クリスマスのミサに出席したことがある。
 テンジン(第36話参照)もいっしょだった。彼はきちんとネクタイを締め、プレスのきいた三つ揃いで現れた。
 聞けば、
「教会へ行く時には当然のことだ」といった。
 ジーパン姿の私たちを見る目は「おまえら日本人はなんて罰当たりなんだ」というものだった。
 さすがは宗教の国の人である。ナマス・テーの背骨を持つ民であった。
 ナマス・テーとは「私はあなたを敬います」という意味の挨拶のことばで、インドやネパールを歩けば始終耳に飛び込んでくる。
 仏教徒(テンジンはチベット仏教徒)であろうと、神聖なクリスマスのミサに出席するからには、相手を敬わなければいけない。テンジンの、正直に申せば七五三のような出立ちは、ナマス・テーそのものであった。
 先日、私はクリスチャンの友と二人で箱根路を歩いた。 小田原駅で待ち合わせ、道了尊から登山道に入り明神ヶ岳(1169m)、明星ヶ岳(927m)と渡り、下山。「そんじゃっ」ってんで町営の温泉にのんびり浸かった。
 友と山に出掛けたの一年ぶりで、その折は丹沢だった。大倉から塔ヶ岳(1673m)へと歩き出したのだが、なかなか予定時間通りにはいかず、体力の低下を思い知らされたばかりか、老いの影に人知れずおびえた。
 ヒマラヤ通いをしている時分は階段状の大倉尾根をそれこそ駆け上がり、塔ヶ岳からはヤビツ経由で大山を抜け、日向薬師にお参りしたものだった。
 友とはその頃に出会った。以来十年になろうか。ヒマラヤへもインドへもいっしょに行った間柄である。万楽へも年に何度か顔を出してくれる。
 友とは実に得難いもので、汗の玉を浮かべた友の裸を、私は拝む気持ちで見つめていた。次の山歩きはいつのことか。一年後か、一カ月後か。はたまた百年後になるか。ならばその折は、遥か須弥山の頂でおむすびを頬張っているに違いない。
 本年はこれにて終了。
 皆様どうか良いお年をお迎えください。

(写真解説)
 ゴジラ特撮大百科2「アンギラス(モノクロ)」全長約13センチ(イワクラ)。風呂上がりに立ち寄った箱根のファミマーで入手。同社の特撮大百科シリーズは彩色バージョンのほかに「ゴミ」や「カス」と形容され、罵倒の限りを浴びせられたクリアーバージョン(第36話参照)がある。が、今回はさすがに懲りたとみえてモノクロバージョンとしてきた。私は気に入ったのだが、失った信頼を回復するには至らない。残念ながら早晩打ち切りとなるだろうから、今は「買い」である。

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