第65話    2005.02.13


『中年のつぶやき』―3Dおやじ図鑑―

 日本の功成り名を遂げた方々に尋ねたという。
「いつの年代が一番たのしかったか?」と。
「50代」だそうだ。
 40代半ばの私には分かる気がする。充実した50代を過ごされた方々は、その助走としての、農家でいえば40代という寒肥えの時期を怠らなかったのだろう。
 先日「60代はたのしいぞ」と、笑顔で帰られた旅館のご主人がいたけれど、この年代は青春に対する「白秋」である。高齢化社会の日本にあっては、いずれ世界にさきがけ「白秋ソング」なるものがヒットするかもしれない。老いらくの恋歌である。
 さて、ようやく折れた右手(第64話参照)で尻が拭けるようになった。それでも、まだ全快ではないから「拭き残したのではないか……?」といった不安をそのつどおぼえる。
 大酒をくらっていた時分には、御鳴楽といっしょに実まで出てしまうことがあった。さすがにかみさんに洗わせるわけにはいかず、ひとりこっそり風呂場で洗った。
 こんな粗相は私一人かと思っていたら、友人のご亭主も深夜ひそかに汚したパンツを洗っていたそうな。
 今宵は母とかみさんが連れ立って出掛け、ひとり私が留守番をしている。
 否、雌猫のミルモがいる。一昨年の夏の終りに私が熱海港から連れてきた。ミルモという名は近所に暮す私の姪がつけた。人気アニメ「ミルモでポン!」の主人公の名だという。かみさんが希望的観測から彼女を雄と決めつけ、それを聞いて姪がミルモと名付け、名付けた後に雌だと分かって大笑いした。
 彼女は一階の居間のこたつの中で寝ている。私はひとり二階の自室にいてこの雑文を書いている。晩の仕度はととのえられているけれど、あまり空腹をおぼえない。
 思えば、私がこの家でひとり晩飯の時間を過ごすことなどなかった。が、いずれはこれが日常となろう。
 母が死に、しばらくはかみさんと二人きりの生活がつづき、やがて年上のかみさんも死ぬ。
 妹はなにくれとなく私の世話をしてくれるだろうが、亭主がヨイヨイになっちまったらそれどころではあるまい。甥と姪はしこたま小遣いをせしめた義理からたまには私を見舞ってくれるだろうが、当てにはできない。
 親戚はどうか? その頃には私を可愛がってくれる叔父や叔母はこの世にない。従兄弟とは、ほとんど他人の謂である。
 友人たちはどうか? 無論、家族のようなわけにはいくまい。生きてさえいてくれれば老いた私の励みになるだろうが、家族に囲まれた生活でもしていようものなら、友情などはたちまち崩れ去るに違いないし、また私とおなじような境遇に置かれていたならば、さらなる友情が芽生えるに違いない。
「嫌だなあ」と、私はつくづく思う。
 それは私がそう思っているからであり、幸も不幸も私の手の中あると知る。
 オモチャはどうか? オモチャはどれほど私の慰めになるか……。無論、私は老境の、また孤独の慰めの用意にオモチャを集めているのではない。ざっくりいってしまえば「日々の無聊をうっちゃるために」である。部屋をうずめたオモチャ箱を見ると、ふと、自嘲する夜がある。
 オモチャの価値を大雑把に鑑賞、所有、売買の三つに分けると、このところの私は売買(といっても専ら買いであるが)に偏り、見てたのしむことが少なくなった。それは自己の投影物であるオモチャ、つまりは自身から顔をそむけているにほかならない。
 自己嫌悪とは青春の代名詞かと思っていたが、なにやら白秋への道しるべでもあるらしい。どうしてこの不可解な自己をとらえていくか。いかにこの放埒な自己と折り合いをつけていくか……。中年のつぶやきは今夜もやむことを知らない。

(写真解説)
 3Dおやじ図鑑「No.4 モミアゲおやじ」全高約7センチ。全8種類(カバヤ)。解説には「経営する理髪店は商店街のおやじ達の御用達の店になっているが、無口なため客とほとんど会話することはなく、黙っていると常連客でも予期せぬ髪形にされてしまうことがある」という。私は大の床屋嫌いで床屋へは結婚以来一度も行ってないけれど、予期せぬ髪形を期待して、一度こんなおやじのいる店を訪ねたいものだ。

※写真をクリックすると拡大します。
 

トップへもどる