第67話    2005.03.14


『サブ・カルチャー』―バビル2世―

 横山光輝の「バビル2世」を読んだ。
 文庫版全8巻。ひと月半ほど格闘してヤフオクで落とした。落札価格は900円。送料と振込手数料を入れても上代の3分の1ほどである。
 ネット・オークションにおける私なりの教訓がいくつかある。花札では「出たものたたき」というけれど、ネット・オークションでは当てはまらない。むしろ「出たもの(本人にとっては初物)はたたくべからず」というのが、私の教訓のひとつである。
 待つ姿勢こそ大事なのだが、待っていて棚ぼたということにはけしてならず、倦まずたゆまず市場を視ていなければならない。なかなか、否、これはたいへんな手間で、時間潰しの覚悟がなければできる芸当ではない。閑雅な成熟とでもいおうか。
 ツァラトゥストラはかく語りき。
「君たちがもっと生を信じていたら、これほどにも瞬間に身を委ねることはないだろうに。しかし君たちは、じっと待つことができるだけの内容を、自己のうちにそなえていない。それで、怠惰にさえなれないのだ」
 なにゆえ「バビル2世」を読んだかといえば、そのスタチュー(写真参照)をヤフオクで落としたからである。またスタチューが落ちた勢いでガシャポンやキーホルダーも落としていった。
 落としたものの、私は「バビル2世」を知らないものだから、読んでみたのである。
 おもしろかった。巻末に掲載された光瀬龍(作家)の解説によれば「横山光輝の技が円熟期に達したことを示す指標ともいうべき作品である」という。
 私はさっそくかみさんに勧めたけれど、無論、かみさんは私のように退屈していないから、漫画なぞ手に取りはしない。
 読後、私は「バビル2世」を少年時代に読みたかったと思った。それは20代の後半に、ひとり北海道をクルマで二週間旅したときに、「10代のうちに、しかも自転車か徒歩で一夏を過ごしたかった」と、思ったのと同様の悔しさである。そう、なぜそこに気づかなかったんだという、後悔であった。
 この年齢になると、しでかした後悔よりも、しでかさなかった後悔のほうが強くなる。
「あのときやっておけば……」と、臍をかむ夜がある。
 ある友は「今は人生の折り返し地点」と豪語して、90歳まで生きられるつもりでいるけれど、彼はバカだからそれも可能かもしれない。
 私はバカな彼をバカにしているのではない。私は彼のバカをうらやみ、私も彼のようにバカになろうと努めているのである。空腹も忘れ、尿意もうっちゃり、無我夢中で事に興じていた輝かしい自分を取り戻そうと、努めているのである。
 そのひとつがオモチャである。オモチャは私が私を取り戻すためのひとつであると、私はいつかそんな確認をしたけれど、どうやら、オモチャを追ううちにオモチャどころか私をも見失っているようなのだ。
 オモチャが悪いのではない。漫画が愚劣なのではない。すべてはそれを手にする私自身の問題なのである。
 吉岡忍の『M 世界の、憂鬱な先端』を読んだ。17年前に起きた幼女連続誘拐殺害事件およびその犯人「宮崎勤」を描いた力作である。
 その一文に見る。
「サブカルチャーの数々は、ひとつひとつがどれほど輝き、生きいきとし、官能的に感じられても、そこには他者がない。異物が存在しない。歴史がない。自分をこの時空間に定位する手がかりがなく、捕まえれば捕まえるほど非現実になっていく現実、適応すれば適応するほど受動的になっていく現実。流行っているものに追随するだけの自己、究極の消費者は、いつか必ずからっぽになった主体、空白の自己に逢着する」
 私は「バビル2世」を先に入手したオモチャの歴史として、また異物として読んでみたのだったが、まだまだのようである。毒を喰らわば皿まで、もっとバカにならねば本質は分からない。

(写真解説)
 「バビル2世とロデム」ポリレジン製スタチュー。全高約22センチ(エポック社)。「レジンは壊れやすい」と敬遠する向きもあるけれど、私にはこの壊れやすさ、儚さが魅力なのである。

※写真をクリックすると拡大します。
 

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