第78話    2005.08.14


『花は桜木 男は早稲田』―毒ガス怪獣ケムラー―

 私は野球少年で、理科少年で、模型少年だった。
 今日の「オモチャおやじ」は模型少年の延長で、時間があれば今でも模型づくりに手を染めたいと思うけれど、そのためには今持てるかなりのものをうっちゃらなければならない。私はそれを惜しみ、さらには怖れて手を出さないでいる。
 8月6日全国高校野球選手権大会、いわゆる「甲子園」が開幕した。今年は高知・明徳義塾高校が開幕直前になって出場を取りやめた。部員の不祥事だという。
 聞けば喫煙と暴力であり、これは明徳義塾に限ったことではないと、誰でもが知っている。昨年甲子園を湧かせた東北高校のダルビッシュ投手が、プロ入り後喫煙で謹慎処分を受けた。彼は高校在学中にも喫煙の事実があったと報道された。停学処分を受けたのかもしれないが、それによって甲子園を辞退したとは聞かない。
 私は野球部に入って間もなく、2年生が部室の隅でタバコを、しかも実にうまそうにふかしているのを見ておどろいた。と同時に、「これでは甲子園はおぼつかない」と落胆した。
 ところが、このチームは夏の県予選で決勝戦まで進み、あわや甲子園初出場という、創部以来最高の成績を収めたのである。だから、喫煙ぐらいで目くじら立てるな、などといっているのではない。明徳義塾にはツキがなかったといいたいのである。
 私は甲子園に憧れた。また神宮にも憧れた。甲子園で活躍し、その後は伝統の臙脂のユニフォームを着て神宮球場で暴れたいと夢見ていた。
 紺碧の空、都の西北。私はいつ頃からか早稲田を敬慕するようになっていた。が、入学のための努力を一度もしなかった。敬慕しつつ、早稲田は志望校とはならなかった。 そもそも進学の意志が薄弱だった。およそ受験勉強とは懸け離れた高校生活を送り、それにはいささかの後悔があるけれど、これは後悔先に立たずの後悔だから、青春の日の残滓に過ぎない。
 私の恩師は早大出の大酒飲みだった。酔って校歌こそ歌わなかったけれど、その意気や紺碧の空であり都の西北であった。羨ましかった。
 私は21歳のひと夏を伊豆大島で過ごし、そこで知りあった現役の早大生から校歌を習った。帰宅後校歌を吹き込んだカセットテープを送られ恐縮した。
 よほど熱心におぼえたのだろう、今でも早稲田の校歌を口ずさめる。数年前、小学校の同窓会の席で、「それでは母校の校歌を」といって歌いはじめたとたん、座が一挙に白けたので慌ててしまった。
 私がどこの大学を卒業したかなど大方は知らないし関心もないから、私の嘘に白けたのではなく、田舎っぺの座にまぎれこんだ「早稲田」という響きに戸惑い、大いに白けたのであった。
 先日、早稲田大学のオープンキャンパスが開かれた。高校2年生の甥の志望校なので同行した。
 私は早稲田を敬慕していたにもかかわらず、キャンパスを訪れるのははじめてだった。近くまでは行っていた。学生服屋のショーウインドウに、誇らしげに角帽が飾られていた記憶があり、買おうかとも思ったのである。
 高田馬場駅から徒歩20分。ついぞ角帽を見ず、キャンパス中央に据えられた大隈重信像にみとめたきりだった。実はひそかに、私は早稲田を訪ねた記念に角帽を買って帰ろうと思っていた。そんなもの買ってどうするのか? どうもしやしない。ただ一度被りたかっただけである。
 角帽を断念した代わりに臙脂のTシャツを買った。
「そんなもの買ってどうするの?」と、かしこい甥は怪訝だった。
「おまえが早稲田に入ったら、これを着て早慶戦の応援に行くんだよ。その時は今日のお礼に入場券を用意しておけよ」とは言わず、ただ「記念だ(十代の日のね)」と、私はいった。
 気乗りしない甥を引き止めて、私は応援団のデモンストレーションを見学した。私ははじめて生で「紺碧の空」を聞き「コンバットマーチ」に血を湧かせ「都の西北」に目頭を熱くした。そこにはまぎれもなく十代の私がたたずんでいた。

(写真解説)
 HGウルトラマン・最強!最速!ウルトラマンマックス登場編「毒ガス怪獣ケムラー」全長約9.5センチ(バンダイ)。早稲田の帰りに寄った秋葉原にて入手。甥はアキバにより夢中だった。おい、大丈夫か?

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