第79話    2005.08.28


『そんなに急いでどこへ行く?』―お茶の水博士―

 ヨネが死んじまった
 その前には
 ノリが死んじまった
 ふたりも死ぬなバカヤロー

 7月19日の朝にノリが死んだ。脳幹出血である。享年41歳。
 ノリは四人兄弟の末っ子で、長男は私の同級生である。家は呼べば応える距離にあり、私にとってノリは弟も同然だった。
 15年になろうか。当時ノリが働いていた渋谷の居酒屋へ、私は友人と二人訪ねた。ノリはたいそうよろこんでくれ、ドーンと刺し身の盛合せを出してくれた。が、私は刺し身が、殊にヒカリモノが苦手でどうにも箸がすすまず、といって残すわけにはいかず、連れの友人がほとんど涙目で平らげた。
 そろそろ店が引けるというので、私はノリを近所のバーへ誘った。結婚したこと。子供が生まれたことなどを、彼は電車の時間を気にしつつ話してくれた。
「やすゆき君についでもらう酒はうめーなぁー」と、ノリはいった。
 いい飲みっぷりだった。
 ノリに最後に会ったのは、昨年春の彼の母親の葬儀の折だった。
 八王子に家を建てたこと。スポンサーが見つかり近々店を出すことなどを、人懐こく話してくれた。
「店を出したら連絡するからね」
「おう、忘れずに報せろよ」
 私はノリの出店を心待ちにしていた。開店祝いにはウルトラマンのスタチューを贈るつもりだった。
 小川直也によって引退に追い込まれたプロレスラー橋本真也もこの時期、脳幹出血で急逝した。
 脳内出血の中で最も重い症状が現れる脳幹出血。中脳、橋、延髄からなる脳幹部は呼吸など生命を維持するのに必要な部位で、少量の出血でも呼吸が止まり、発作後数分で死亡するケースもあるという。
 ノリは朝目覚めてすぐに倒れたという。日頃から血圧が高く、薬を服用していたのだがこのところは服んだり服まなかったりだった。またこれまでにも過労やなにやで倒れては何度か入院していたのだ。家族のために無理をしたのか、仕事にかまけて自己の体力を過信したのか。
 ノリの父親は彼が三歳のときに急逝した。おなじ病であったと聞いた。

 一カ月後の8月19日にヨネが死んだ。サザエ採りに行っての溺死であった。享年47歳。
 ヨネは中学二年の春に甲府から転校してきた。父を亡くし、家業の酒屋が傾きあちこちに義理を欠き、夜逃げ同然で熱海へ来たのである。
 私はヨネとはおなじクラスにならなかったけれど、なぜか妙に馬が合った。
 強羅、駒ヶ岳でアイススケートを、小学校の校庭でサッカーを、またアパートの屋上でギターを習った。拓郎、陽水、泉谷もヨネに教えられた。ヨネは器用で、おませで、中学生にして既にムケチンで、ヤッていた。
 後年、ヨネは女手ひとつの万楽の常連だった。が、酒癖が悪く、ヨネちゃんが来ると気が気でなかったと、私のかみさんはいう。
 ヨネに酒を教えたのは、中学生の私とノリの兄貴の二人である。
 最初はレッドのコーラ割だった。口当たりがいいからいけちまう。そのうちヨネがいなくなり、千鳥足で探したけれど見つからず、翌朝、砂だらけになって現れた。
「小学校の砂場に寝ちまった」とのことだった。
 そういえば、ホテルの女風呂をのぞきに行って、のぞきつつ射精したのはヨネでひとりだったな。
 苦労をしただろうヨネは早くに結ばれ養子に入った。四人の子に恵まれ、好きな釣りを存分にたのしみ、定年後は「漁師になる」と、万楽で酔っては話していた。
 山出しのヨネは海が好きだった。その好きな海でいのちを落とすとは……。

(写真解説)
 お茶の水博士(ビリケン商会)全高約16センチ。私が今日求めているのは、ホモ・エコノミスト(経済人)でも、ホモ・ファベル(技術者)でもない、ホモ・フィロゾフィクス〔思想家)としてのお茶の水博士である。

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