第81話    2005.09.25


『北の国から 2005』―石灰岩の恐竜三体―

 アーアーアアアアアーアー アーアーアアアアアー アーアーアアアアアーアーアー アアアーアー……。
 嘆いているわけではない。分かる人には分かるだろう。分からない人には百万言を費やしても分かるまい。

 今月半ばに北海道へ行ってきた。例によって蝦夷の臍の旭川である。正確には臍は富良野で、市内にある小学校の校庭にその石碑が建っている。
 今回、私はその碑を見てようやく、なんとも珍妙な富良野の「へそまつり」を理解した。道産子のユーモアやよしである。
 私にとって富良野といえば、倉本聰の人気テレビドラマ「北の国から」である。
 放送当初(1981年10月から毎週一回。全24話)はほとんど知らなかった。知ったのは83年から特番として年に、また数年に一度放送されるようになってからだった。その番組のいくつかを、私はビデオに録画して何度も視た。独身時分はカネは無くとも時間だけは十二分にあったから、それこそ擦り切れるほどに視た。
 お気に入りは87年放送の「初恋」である。が、私はこれを放送当時に録画したのではなく、おそらくは何度目かの再放送時にビデオに収めた。96年から97年にかけてインドシナを旅し、帰国後にビデオ付のテレビを買ったから、収録はその後のことである。
 間もなく四十にもなろうとする独身の男がひとり、四畳半一間の木造アパートで「初恋」に胸ときめかせている光景は不気味というよりない。犯罪の臭いさえただよう有様だ。がしかし、それは贅肉の付いた今の私がいうことで、痩せっぽちの私は真剣そのものだった。倉本氏へ自著『私が愛したインド人』に添えてファンレターを送ったりしている。また期待した返事がなく、がっかりしたのをおぼえている。

 20代の後半から始った私の放浪は、インドシナの旅で終止符を打った。
 自己を追いかけ自己に追いかけられ、10年走りつづけてきた果てに、私は私を目の前にして呆然とした。その景色は十年前となんら変わりなく、つまり、私は私のまわりをぐるっと一周してきたに過ぎなかったのである。
 いくらか重くなっていたかもしれないが、身の回りにはなにも無かった。生きていた証としての文学は思うにまかせず、相変わらず古本のなかで煮炊きし、寝起きしていたのだった。またいささか、愛情乞食としての行脚に疲れをおぼえていた。
 インドシナの旅でも出逢いがあった。
 サイゴンに暮すその娘は日本語学校に通いつつ、ベトナム人に日本語を教えていた。
 サイゴンに在る間、私は昼に夜にと彼女と会食をした。ホンダに乗り、ホビロン(孵化寸前のアヒルの茹卵)を食し、サイゴン川でのクルージングをたのしんだ。
 帰国後に手紙のやりとりはしたものの、私が再度サイゴンを訪れることはなかった。もし、訪れていたならば、私は近藤紘一を真似て「サイゴンから来た女」なる作品を著したかもしれないなどと、今になって思うのである。
 倉本聰の「初恋」は、私が高校生の時に観た「小さな恋のメロディー」だった。私はこの映画に揺すぶられ、映画監督になるべく上京したのである。
 ビージーズの音楽を聴くと、映画の舞台となった英国の鈍色の空が想い起こされる。恋するよりも先に性を知り、性をもてあそんでいた私にとって、恋愛とはほとんど虚構の産物で、ならばいっそ偶像として、時折、ガラス細工を掌にするように眺めていたいこころの在り方である。
 親切な義兄の案内で、私は「初恋」の撮影に使われた住まいを見学した。が、何等の感慨も催さなかった。それよりも、富良野の森の冷厳に、北国の孤高に、その憂愁に、私は言葉を失った。そして思った。
 この番組の音楽を手がけたさだまさしは、天才ではないかしら? と。

(写真解説)
 旭川市近郊の当麻町にある当麻鍾乳洞。その売店で売られていた左から「トリケラトプス」「ティラノザウルス」「ステゴザウルス」全高約4センチ(ティラノザウルス)。価格は一体340円。おそらく中国あたりで作らせたものだろう。

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