第83話    2005.10.23


『ミッドナイト・シアター』―レトロTV劇場―

 9月に義兄の案内で北海道の臍へ、北の国からの富良野へ行った(第81話参照)。
 かみさんの父は教員で転勤が多く、家族は父について道内各地を歩いた。
 かみさんは富良野近郊の東山で中学の二年を過ごし、その後「北の国から」の背景として頻繁に登場した美瑛へ移転。テレビ画面の富良野の自然はほとんどかみさんの世界である。雪、凍裂、ジャガイモ畑、キタキツネ、エゾリス、オコジョなどなど。
 私は二十代の一年を津軽で過ごした。その年は観測史上三番目の大雪に見舞われ、来る日も来る日も雪かきをした。雪は中原中也の恋のごとき甘美な様相ではなく、コンクリートブロックにも似た凶器の様相を呈していた。
 津軽平野の一大名物・地吹雪は、まさしく白い闇(ホワイト・アウト)となって襲いかかる。私は死の匂いを嗅いだ。嗅いだ鼻毛がたちまち凍てつき、息するごとに氷を飲み込むような痛みをおぼえた。毎年吹きだまりにクルマを乗り上げ、凍死する人がいるのである。
 「北の国から(第10話)」には、そんな壮絶な遭難シーンがあった。純と雪子がまさに吹きだまりにクルマを乗り上げ、たちまちにして雪に埋もれ、すんでのところで救出されるという話である。
 救出したのは馬橇だった。吹雪の中でも馬は人間を捜してくれるのだという。
「北海道では皆そういうよ」と、画面を視つつかみさんがいった。

 富良野を訪れた後、私とかみさんはすっかり「北の国から」にはまっているのだ。
 普段は午前中に仕込みをする。が、土曜日は金融機関が休業ということもあり、午後から店に出る。朝寝坊ができるから、金曜の夜はたいがいテレビで洋画を視る。視るといって私がひとり視るのであって、かみさんは長湯をたのしんでいる。
 二人でテレビの前に座るなんて、食事の時以外にない。それさえもかみさんは視ていないのではと思われる。質したことはないけれど、テレビに興味がないのだろう。ならば上等な人間であるから、私は改めて襟を正さなければいけない。
 ジャーナリストであり書籍コレクターでもあった大宅壮一は、テレビを「一億総白痴化」と称した。果たしてほぼその通りとなった。
 私の母も、父が生きていた時分にはテレビは脇に置いていた。だから健康でいられたのだろう。心身ともに。
 私一人がテレビを視るものだから、食事の時以外は一人で視るようにしている。ゴロゴロしている姿を隠したいのである。それは私の美意識に反する行為なのだ。また、私はゴロゴロと本も読むものだから、その折も一人になる。部屋の照明を消し、スタンドの明かりだけで読む。今こうしてパソコンに向かっている時も同様だ。性癖である。
 かみさんと二人して「北の国から」を見始めたきっかけは、第81話をかみさんが読み、一度じっくり本物を視てみたいということで、手許にあった「初恋・87」を金曜の夜に視たことだった。
 その日は閑で、否、今月に入ってからは閑つづきでくさくさしていたものだから、焼酎をかたわらに置き見始めたのである。
 これには凄い効果があった。
 しらふであれば白けてしまうセリフや演技やストーリーが、酔うほどに理性を失い、いい塩梅に素通りしてくれるのだ。だから、ドラマにのめりこめる。下手な嘘でも心地よく騙され、さらに酔えるのである。
 一度牛乳を飲みながら視たけれど、味気ない思いをしたのに懲りて、以後は焼酎を抱いている。が、私はけして「北の国から」を焼酎の肴にしているのではない。焼酎を「北の国から」の肴にしているのである。
 百年の孤独を抱いての深夜、私はストーリーを追い、かみさんは映し出される風景に自己の思い出を追いかけ、泣き笑いしているのである。

(写真解説)
 レトロTV劇場「フランダースの犬」全高約6センチ(ドリームズ・カム・トゥルー)。扉(ブラウン管)を開けると主題歌が鳴り、中の人形が動くという仕組み。この外に「科学忍者隊ガッチャマン」「アルプスの少女ハイジ」「巨人の星」の3種がある。正直、つまらない。

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