第84話    2005.11.06


『生きるということ』―なかやまきんに君―

 この『おもちゃと文学』は、当初月三回の更新でスタートした。
 立ち上がり間もないころは面白くて仕方なく、毎週でも毎日でも更新したい気持ちだった。それはそのままオマケやオモチャへの興味でもあった。
 今はどうか?
   ご覧のとおり、オモチャはほとんど脇に置かれ、身辺雑記に終始している。ならば読者が減ったかといえば逆に増えている。アクセス数がそのまま読者数とは限らないけれど、当初からずっと一話50前後だったものが、二月ほど前からは100を超えるようになった。
 原因は不明である。
 否、下手くそながらも真摯な私の態度が読者諸賢に受け容れられているのかもしれない。
 そう、私は真摯なのだ。

 月三回から今の二回に変更したのは昨年の八月で、その理由を私は友人にこう知らせた。
「作品(小説)に取り組みます。何年かかるかわかりませんが、仕上げます。傑作になる、予定」
 その後一年経つがさっばりである。この分では十年経っても仕上がるまい。
 巷間いわれている創作の動機は、拘束と抑圧である。家庭、職場、貧困、欲望、憧憬、不遇、野望、病気、戦争、略奪、はたまた名声などなどが自己の拘束となり抑圧となりして、創作へと向かわせる。
 私はどうか?
 喰うに困らず、のほほんと暮している。将来に対する不安はあるけれど、芥川が遺書にしたためた「ぼんやりとした不安」とは異なり、人並みの不安である。言わば正常な生理である。
 年金に関していう。
 もし本当に不安であるならば、支給額や支給年齢をうんぬんするよりもなによりも、払込金の返還を求めて押しかけるだろう。それをしないということは、安心の上での贅沢な不安に過ぎない。
 不安が贅沢であるならば、喜怒哀楽も贅沢だ。
 株の値上がりに喜び、近所のバカ犬がうるさいと怒り、宝くじがはずれたと哀しみ、温泉旅行を楽しむ。およそこの類であろう。
 が、私はこんな暮らしぶりを否定しているのではない。こんな暮らしぶりを「平和」ということばで括るならば、今日の平和は国の内外を問わず多くの犠牲者と大勢の努力によって築かれ、もたらされたものである以上、否定などできるわけがない。
 私はただ、いっちょ前に平和に乗っかり、のほほんと暮している自分が、贅沢にも許せないのである。
 なにかをしなければと思い、思いつづけ、なにもしないままに時間だけがいたずらに過ぎ、過ぎつつも猶なにもせず、しかも飯だけはたらふく喰い、ゲップのごとき嘆いてみせる。嫌らしいったらありゃしない。

 私は貧乏を知らない。知らないままにインドヘ行き、しかも懲りずに五度も行き、不可触民といわれる人々の絶対的貧困を垣間見て衝撃を受けた。それはまったくの恐怖体験であり、蛇に睨まれた蛙のように凍りついた。
 帰国後、私は貧乏の真似事をはじめた。十年、粗食を専らとし、無駄は悪徳と見做してきた。
 何事も十年徹すると骨絡みになる。私はすっかりケチになり、人づきあいがまでもが億劫になった。堀口大学は「ことばにケチは詩人の美徳」といったけれど、私は実生活に於いて貧乏の真似事をし、真似ゆえに己を貶めてしまったのである。
 今の私に必要なのは浪費だ。ケチから脱却するには浪費しかない。乾いたタオルを絞るように、体力の浪費にこれ努めることだ。「人と会い語らうことこそ身上だ」と、うそぶくことだ。
 先月から水泳をはじめた。肉体に手をかけるより外にこの頭の地獄から脱け出す術はない。

(写真解説)
 吉本新喜劇フィギュア「なかやまきんに君」全高約4.5センチ。アサヒ本生のオマケで全10種+シークレットの間寛平。「個性とは肉体である」とは、解剖学者・養老猛司の言である。私は『砂の女』で安部公房を知り、公房との対談で氏を知った。東大も捨てたものではない。

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