第86話    2005.12.04


『勲章と棺桶』―王立科学博物館・月とその彼方―

 なんと上州の美しいことか
 なんと、なんと
 なんと上州の秋の美しく悲しいことか

 母の兄が勲章をいただいた。
 皇居に招かれ陛下からおことばを賜った。
 めでたいというので、日曜日の昼に小田原のヒルトンホテルに一族が集まり祝宴となった。
 伯父は尋常高等小学校を出たきりで警察官となり、警視正にまで昇りつめた努力の人である。
 情に厚く涙もろい酒飲みで、伯父の出世が一族の名誉でもあったという幸福な人であり、少年の私の一番の誇りでもあった。
 一族が顔をそろえたのは私の結婚の宴以来で、これが最後かもしれないと、めでたさの中にもさびしさをおぼえつつ帰宅した。
 その夜、突然の、まったく突然の訃報に接し、私はことばを失った。

 63歳で死亡した叔父は父の腹違いの弟で、父の生前はあまり親交がなかったけれど、父の葬式、納骨、一周忌、三周忌、そして今年五月の七周忌と、いずれも叔母とふたり、上州からクルマを走らせ出席してくれた。
 上州の父方は先妻が五人の子をもうけ、さらにその妹の後妻がやはり五人の子をもうけた、総勢十人の大所帯である。父と叔父とは十六の年の差があった。
 私は父方の親戚をほとんど知らない。だから他人以上に他人であり、またそのことにさして驚いてはいない。核家族はすでにそこまで浸透しており、伯父の叙勲を一族を挙げて祝福するという光景のほうが、よほど貴重な一コマであろうと思われる。
 叔父の葬儀へは家族三人で出席し、その日は店を休みにした。臨時休業は父の葬儀以来であり、私は母方の祖母が亡くなっても店を休むことはなかった。
 詳細は知らない。また今更知りたいとも思わないが、叔父は財産および金銭をめぐるトラブルで、本家から絶縁されていた。だから、父の葬儀の折には駆け付けてくれた兄弟たちとはほとんどことばを交わさず、こちらは気を回し宿を別に手配した。
 骨肉の争いの醜悪を目の前にして、私は他人で良かったと思った。またこれからも他人で居続けようとも思った。
 私は甥でありながら、他人として叔父の葬儀に参列した。が、叔父方の、佐藤家からの参列はなく、すすめられるままに親族席に着き、弔問を受けたのだった。
 葬儀は滞りなく終わり、忌中払いとなった。
「叔母さんたちがお焼香にみえてたわよ」と、かみさんがいった。
「バカいえ。来て黙って帰る兄弟がどこにいるか」と、私はあまりに拙いかみさんの作文をたしなめた。
 それでも騒ぎ立てるから、叔母に話して芳名録を調べると、果たして記帳されていた。他人である私は改めてこの根の深さを思い知らされた。

 土曜日の夜、叔父は叔母の里で酒を飲み、おそらくは酔いを覚ますために玄関先にしゃがんでいたのだろう、バックしてきた叔母の運転するクルマに轢かれ、その五時間後に収容先の病院で死亡した。
 私の母方の叔母は叔父の運転するクルマに轢かれ死亡した。一昨年の夏の出来事であった(第19話参照)。
 最愛の夫を轢き殺してしまった叔母の心中は察するに余りある。弔辞を読んだ叔母の妹は「地獄」といった。叔父の遺影の前で声を励まし、何度も「地獄」と叫び、姉の過失を詫びたのだった。
 やりきりなかった。こんなにも悲しい葬儀はこれきりにしてもらいたいと思った。
 忌中払いの席を立ち、私はひとり外へ出た。近年は斎場内でも禁煙なのである。バカげた話だ。
 斎場は郊外の丘の上にあった。周囲は山に囲まれ、木々の紅葉が午後の陽射しにきらめいていた。空は一片の感傷さえも受け付けぬほどに澄んでいた。
 私が上州を訪れたのは四度目だった。
 最初は小学二年の夏、迎えに来た亡き祖父に連れられ。 次は高校一年の夏、友人と越後を旅した帰り道。次いで一昔前の伯父の葬儀。その席に亡くなった叔父が居たかどうか、否、他人の私はそんなことに関心などなかった。親戚の誰が誰だかさえも分からなかったぐらいだ。
 この日、斎場では五件の火葬があり、二件の葬儀が行われた。叔父の亡骸は朝の内に荼毘に付され、私は叔父の死に顔を見ることはなかった。安堵したと同時に名残惜しくもあった。
 叔父と顔を合わせるのはいつも不祝儀の席だった。しかし、最期は顔を合わせることはなかった。私は今年五月の叔父の面影を四囲の景色にさぐりつつ、この日の別れが分かっていたならば……、などと愚にもつかないことを思いつつ、風に吹かれ、ひとりたばこをくゆらしていた。

(写真解説)
 王立科学博物館・第一展示場【月とその彼方】「07ザ・ライト・スタッフ」全高約5.5センチ。1970年4月に打ち上げられたアポロ13号。山本夏彦は『何用あって月へ?』といった。氏は「機械あれば機事あり、機事あれば機心あり」の人である。

※写真をクリックすると拡大します。
 

トップへもどる