第88話    2006.01.02


『寅さんと五郎さん』―ブースカ&チャメゴン―

 明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いします。
                  佐藤 寒

 旧年の世相を表すことばが「愛」だという。誰がいったか知らないけれど、これはいよいよわが国が愛の欠乏にあえぎはじめた証なのだろう。おそらく、ここでいう愛とはキリスト教の説く「汝の隣人を愛せよ」の愛で、その愛とは神の謂にほかならない。が、けして信仰に目覚めよといっているわけではない。他人に親切にせよといった程度の意味合いなのだろう。
 仏教は愛を否定した。仏の教える愛は愛欲であり渇愛であり愛憎である。法句教には「愛より憂いが生じ、愛より怖れが生ず。愛を離れたる人に憂いなし、なんぞ怖れあらんや」とあり、愛を離れることが仏教の理想である。
 そこで、仏教は愛の代わりに「慈悲」を説く。
 慈の原語はサンスクリット語のマイトレーヤで、このことばはミトラ(友の謂)からつくられた。特定の個人にではなく、万人に対する最高の友情をあらわすのが慈の意味である。
 悲の原語はサンスクリット語のカルナーで、呻きといった意味である。呻きを発した者のみが他人の呻きを理解しともに苦しみを苦しむことができるとする。
 仏教の説く慈悲とは、他人を理解し、他人と共感すること、つまりは「おもいやり」である。
 冒頭に掲げた「愛」も、きっとおもいやりの謂なのだろう。ざっくりいうけど、日本人には愛は理解の範囲を超えている。

 昨年は九月に富良野を訪ね、以降「北の国から」にどっぷりつかった。
 先ずはヤフオクで手持ちのビデオ以外の全巻を落札し、ともかくも21年間の足跡をたどることができた。
 結論から申し上げるとこりゃ漫画だ。漫画とは「男はつらいよ」の寅さんが漫画だ、ありゃおとなの漫画だという意味に於いてである。
 寅さんがそうであるように、名優田中邦衛扮する五郎さんは理想、否、おとなが少年の日に熱狂したヒーローと何等変わらない。ただし、視聴者がおとなになっちまったという厄介さがある。
 朽ちた家屋を修繕し、電気もガスも水道もない。水は沢からパイプで引いた。電気は風力発電でまかない、丸太小屋までおっ建てちまう。燃料は薪。屎尿の処理は知らないけれど、わずかばかりの銭を惜しんで別れた女房の葬式に夜行列車で駆け付ける。
 かっこいいったらありゃしない。
 が、オレにはできない。そう思った瞬間、いっぺんに熱がさめちまった。それまで羽音をたてて飛び回っていたなにものかを、虫ピンで仕留めた思いだった。
 標本箱に収められたそれは未だに正体を明かさないけれど、私は「逃避」「憧憬」といったラベルを貼った。

 寅さんはフーテンだった。居を構えない、土地に縛られない。まるで遊牧民のような暮しが農耕民族に夢を与え、毎度の失恋に男どもはなぐさめられたのだ。
 行動様式に於いて五郎さんはまったく正反対だった。富良野の土に還るべく、一度は捨てた貧しさへ、子供を連れて舞い戻ったのである。
 そして、いずれの作品も終了した。
 寅さんは役を演じた渥美清の他界により。経済発展が旅行を容易にしたことにより。また失恋はダサイという価値の変化により、時代に追いつけなくなった。
 五郎さんはなにより、脚本家倉本聰の体力の低下によりその幕を下ろした。
 初期放送の全24話に於いて、五郎さんは倉本の理想であり、けして分身ではなかった。分身は富良野の住人になれなかった竹下景子演ずるユキコおばさんだった。が、人気に押され、役者の成長にあわせた物語が進むうちに、五郎さんは倉本の分身となっていった。最終章は「遺言」で、五郎さんにつづらせた遺言はそのまま倉本の遺言である。 よほど辛かったに違いない。
 なぜなら、「北の国から」は全24話に於いて尽きているからである。あとは身過ぎ世過ぎで、時代には抗えない倉本の悲哀を知らされる。
 私は憧れこそすれ、五郎さんのような暮しはできない。それは倉本がそうであったように。ならば、私はどっぷり娑婆に浸かろうと、年のはじめに心した次第である。

(写真解説)
 快獣ブースカ(彩色6種とモノクロ6種の全12種)「左チャメゴンと右ブースカ」全高約9センチ(ウエストケンジ)。愛ですかね、愛。

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