第9話  2003.04.21


『桜と吹雪』―タンチョウ―

 この町に二羽の丹頂鶴を飼う、人騒がせな画伯がいた。著名らしいが寡聞にして私は知らなかった。
 知人に伴われ、私はその画伯のお宅を訪問したことがある。前年に上梓した拙著『フィルミレンゲ』が、画伯の夫人の目に留まったのだった。私はひそかに期待していた。『山月記』を引用するならば「己の作品が長安風流人士の机の上に置かれるさま」をである。
 宿の装いにも似た玄関で夫人に迎えられ、知人と私は応接間に通された。間もなく、画伯が現れた。物腰やわらかく、小柄で、小肥りで、縄文顔の老人であった。画家というと、青臭い私は未だに佐伯祐三やモディリアーニを思い浮かべてしまう。痩せたソクラテスをである。
 ひとしきりの四方山話の後に、画伯はさりげなく口にした。
「ある出版社から美術史の執筆を依頼されている。資料はそろえてあるのだが、書く時間がない。誰でもやっていることだが……」
 つまりは私にゴーストライターをやらないかという。筆力はあるし、世に出るチャンスになるかもしれないと、物腰ひくく水を向けたのだった。
 もし、このとき私が独身で、素寒貧であったなら、嬉々として応じていただろう。画伯がオブラートにくるんで提示した謝礼金は、三桁の額であった。
 私ははぐらかした。画伯は深追いはせず、紳士然として屋敷内を案内してくれた。製作中の大作をも披露してくれた。そして「さくら」と「ふぶき」という、中国政府から贈られた日本の天然記念物タンチョウの名を呼び上げて、高らかに啼かせてみせてくれたのだった。
 雄大な釧路川の流域ならば、さぞやうるわしく蒼天をふるわせたことだろう。が、ここは山間の地とはいえ住宅密集地である。
 はたして、さくらとふぶきは甚だ近所迷惑な存在であった。以下はご近所に住む方の嘆きである。
「朝に、しかも暗いうちに二羽で啼くんです。何事かと思って飛び起きました。それ以後は耳について駄目です。もちろん、役所の窓口にも相談に行きましたよ。でもね、なにせ小心翼々たる役人のことですから埒があきません。鶴もさることながら、実はもっと困っているのはインコなんです。インコというと手にのるセキセイインコを想像するでしょうが、野郎はそんなタマじゃない。おどろおどろしいほどに赤い1メートルはあろうかという南国産のインコです。それに先生がことばを教えていらっしゃる。おぼえたことばを話している分にはいいんですが、途中でことばがひっかかると、野郎、ヒステリーを起こして啼き叫びやがる。まるでジャングルにでも迷い込んだ気分です。もう寝てなんかいられません」
 野鳥愛好家の画伯は今年、住み慣れた町を後にした。住民はこころ静かに朝を迎えていると聞く。これでまた、観光の灯がひとつ消えたと私は思った。

(写真解説)
 週刊日本の天然記念物「27・タンチョウ」(小学館刊)の付録。全高約5センチ。原型制作は松村しのぶ氏。造形者集団・海洋堂の隆盛は、チョコエッグの原型を手がけたこの松村しのぶに負うところ大である。
 

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