第92話    2006.02.26


『これでいいのだ』―天才バカボン―

 鈴木大拙全集・全30巻(岩波書店)を買って十年になろうか。四万円だったと記憶する。当時の私の生活費は月五万円ほどだったから思い切った出費であった。
 購入した蒲田の古本屋から家賃一万八千円のアパートまでは友人のクルマで運んでもらった。
「ずいぶん読みでがあるね」と、友人。
「死ぬまでの暇つぶしだよ」と、私。
 買ってはみたが読んではいない。が、大拙は折にふれ手にはしている。大方は『日本の名著43 鈴木大拙 清沢満之(中央公論社)』である。この本は、言わば私のパイプルである。何箇所にも赤線が引かれているのでいくつか紹介する。

 霊性を宗教意識と言ってよい。

 詩は詩人に向かって吟ずるが好く、酒は知己とともに飲むがうまいので、その中の趣を解せぬものに、いくら説明してもわかるものではない。

 霊性の覚醒は個人的経験で、もっとも具体性に富んだものである。

 禅は、時間の円環性を固持せんとする。それで何事も覿面的にこの絶対の瞬間で埒あけんとする。しかし、一隻の眼の開けたものからすれば、直線可なり、円環可なりである。

 周知の『般若心経』は大乗仏教の根本聖典である。そこには一言でいって「ものごとにこだわりなさんな。また、こだわりなさんなということにもこだわりなさんな」と書かれている。そう、これは正真正銘の呪文ですぞ。
 久しぶりに大拙を手にした。実に、実に新鮮だった。この新鮮さが「日本的霊性」である。ぜひ一読を願いたい。

 焼鳥屋をはじめるに当り、私は「政治と宗教はメニューにのせない」という方針を立てた。それは今でも固くまもられているし、今後ともまもらなくてはならない。
 焼鳥屋で交わされる政治とは、言わば「床屋談義」の類だから罪はないのだが、だからといって主人が首を突っ込んではならない。また人様の悪口も同様。ただ聞き役を演じていればよい。これが飲屋の仁義であり、他言無用は職業倫理であり、一夜完結を以て良しとする。
 一夜完結ってなんだ? とたずねる人がある。
 その場かぎりということだけれど、説明したところで分かりはしない。分かりたくないのかもしれない。年配の物知り顔に多く見受けられる。
 一杯450円の日本酒の銘柄をたずねる客がある。どうころんでも越の寒梅や久保田ではない。なので私はたずねない。旨ければおかわりするし、口にあわなければ別なものをたのむ。
 テレビのチャンネルを変えてもいいか? とたずねる客がある。が、変えたところで視ちゃいない。テレビが視たけれゃ酒なぞ飲んじゃない。
 銘柄もチャンネルも性癖である。黙っていただけない性質なのだ。こういう手合はなにかにつけてやかましい。やかましいというより図々しい。嫌われることはあっては好かれることは稀だろう。
 人の振り見て我が振り直せ、という。が、言うは易く行うは難しだ。
 私は水商売を始めて以降、ほとんど外で飲むことがなくなったから、醜態を晒さずに済んでいる。が、飲めばまたぞろ知ったかぶりをする。酔っては法螺を吹き、出来もしない約束をするに決まっている。
 店での私を知る者は信じ難いだろうが、独り身の私を知る者どもは肯んずるに違いない。三つ子の魂百までと、したり顔だろう。
 人間なんてろくなもんじゃないけれど、付き合っていくよりしょうがない。嫌なことはさっさと忘れちまおう。自分が気にするほどに他人は気にしていない。気にする他人がいたならば、そいつは見方だ。仲良くしよう。
 ヤクザの喧嘩は勝てば監獄、負ければ地獄だそうだから、喧嘩はヤクザに任せておこう。やりたきゃヤクザになればいい。嫌なら時には「負けるが勝ち」と、朗らかにうそぶいてみよう。

(写真解説)
 天才バカボン。写真左から「ウナギ犬」「バカボンのパパ」「バカボン」全高約7センチ(ラナ)。今宵は赤塚不二夫の天才に乾杯しょう。乾杯!

※写真をクリックすると拡大します。
 

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