第93話    2006.03.13


『Kan3のクルマ遍歴』―金田正太郎―

 私が子供の頃は、自動車のある家は稀だった。懇意にしていた近所の八百屋は営業トラックの外に自家用の乗用車があり、たまにドライブへ連れていってもらった。
 だからといってさほど羨ましいとは思わなかった。クルマのプラモデルは当時の少年並にこしらえたけれど、車種をおぼえ自慢するほどの興味はなかった。
 我家が自家用車を購入したのは妹が免許証を取ってからで、既に私は家を出ていた。黄色の三菱の軽だった。
 私が東京にいてクルマを手に入れたのは、24歳の秋である。
 知人が日本を離れるのでクルマを手放したい。ついては誰かいないかと持ちかけられ、ならば私に譲ってくださいと、100万円で手に入れた。マツダのロータリー白のコスモ2000cc。走行距離は3000キロ程度だった。
 当時、商社勤めの私の月給は20万。いくらかの貯金もあり、また社用にも使うといって会社と掛け合い、駐車場代2万円は会社持ちにしてもらった。事実、その後まもなく私は座間の店舗へ出向となり、クルマがなくては仕事にならないこととなった。
 コスモは私の最初のマイカーということもあり、手入れもさることながら忙しい合間を縫ってよく乗り回した。運転をしていて疲れることがなかった。恋人を連れて何度か泊まりがけのドライブもした。

 翌年の秋。私は遠く津軽のホテルの支配人として働くことになった。およその家財道具はアパートの大家に譲り、身の回りの物だけをコスモに載せ、早朝、住み慣れた東京を後にした。
 雪国の冬にスポーツカーは似合わない。凍結した道路で危うく大惨事を免れた私は震え上がり、多少の未練をおぼえつつもコスモからニッサンのハイラックス4WDに乗り換えた。下取りが良かったので大した金額ではなかったと思う。なにより、バブル景気の絶頂で、私にも分不相応のカネが入ってきていたのである。
 遠距離恋愛となった彼女とは、長くきびしい冬の終りにさよならをした。結婚しよう。そんな口約束までした仲ではあったけれど、クルマ社会はヒトのこころまでも足早に変えていった。

 およそ一年を津軽で過ごした私は帰京にあたり、さらにクルマを乗り換えた。津軽平野でこそその性能を遺憾なく発揮したいかついハイラックスは、アスファルトに被われたせせこましい都会では、ほとんど無用の長物である。
 三台目は「ナベサダ」の愛称で知られる渡辺貞夫がそのコマーシャルに起用されたニッサンローレル2000ccターボエンジツ搭載の高級車だった。車両価格は忘れてしまったけれど、ハイラックスの下取り価格に100万円ほど追加したと思う。
 今にして思えばバカな買物だった。若気の至りである。
 ローレルは4万五千キロほど走った後、友人に15万円で買ってもらった。その友人はあまり乗ることもなく、ほどなくして無料で手放した。
 価格とは、とどのつまり幻想である。欲望が描く影絵である。

 我家に話を戻すと、黄色の三菱の軽の後、空色の、やはり三菱の軽に乗り換え、次いで紺色のミニカとなった。
 ミニカはおやじの死後私が乗り継ぎ、約九年間我家の一員として働いた。
 昨年あたりから故障やら部品交換やらと手がかかるようになり、今年の車検を通すかその前に乗り換えるかと考えはじめていた矢先。知人の勧めもあり、先月、ニッサンの軽自動車モコに買い替えた。
 ちなみに、ミニカの下取り価格は3万円。まあ、妥当な線だろう。
 モコのオプションパーツはプラスチック・バイザーを着けただけ。フロアーマットは約2万円だという。ふざけんじゃないとばかりに、私はヤフオクにて、なんと、千円で落札。無論、新品の純正品であります。

(写真解説)
 ゼンマイ式ブリキの金田正太郎。全高約23センチ(ビリケン商会)。クルマとは、金田正太郎の操縦する鉄人28号だろう。良くも悪くもリモコン次第。そう思えば、いくらか愛着も湧いてきますな。

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