第97話    2006.05.08


『皮肉屋とは挫折した理想家である』―つりキチ三平―

 締切、といってそんなものがあるわけではないけれど、二週間に一度このページの更新を行うようにしている。
 好きで始めたことだから苦にはならない。が、締切間際にならないと書けない。否、書こうとしない。明日は更新の予定日で、今日になってようやくキーを叩きだしている始末である。これはたいがいいつものことで、それでもなんとか片付けられていて、ほんのちょっぴりの満足感を得ている。
 そう、ほんのちょっぴりなのだ。
 更新したページをコピーして、その誤字脱字にうんざりさせられ、無論気付けば訂正する。が、今日やろうと思って明日あさってになることしきり。

 この雑文集も今回で97話。三年に及ぶ。石の上にも三年というから、一区切りをつけてもいいかと思っている。当初より、100話までは石にかじりついてでも書こうと決めていた。省みれば、ただかじりついていただけだったような気もする。
 アクセス数は前回までが6866。まぐまぐの発行部数は増減はあるが約20である。内一部は私で、おそらく残りの内の二三部は、こころやさしき私の友人であろう。
 連休を利用して久しぶりに熱海を訪れた年少の旧友は、「ホームページ更新してるんですか?」などと問い、私をひどく落胆させた。
 が、世の中とはこんなもので、むしろ読んでくれている友人こそ稀であり、酔興なのだ。
 私は第95話『桜の樹の下で』で、桜の樹の下には死体が埋まっている、という梶井基次郎の小さな説を紹介した。一人の酔興は、我が意を得たりとばかりに雀躍した。また一人の酔興は、なにかそこには深淵なる哲学でも秘められているのかと邪推し「難しい」とつぶやいた。
 感じることだ。

 百里に行く者は九十里に半ばす。
 戦国策に見る。「蛇足」「虎の威を借る狐」「先ず隗より始めよ」「漁夫の利」などの格言も、戦国策のものである。
 先にも記したが、私は『おもちゃと文学』を100話を以て了えようと思っていた。その百話と百里の連想で戦国策のひとつを挙げたのだけれど、実はなかなかこの格言が出てこなかったのだ。
 九十という数字は頭にあった。しかし、文頭の百がないから引きようがない。故事金言ことわざ諸々の辞典に当ったがみつけられなかった。ではどうしたかというと、グーグルで「九十里」を検索し、引き当てたのである。
 この間、さまざまなことばに触れ、それはほとんど毒薬であるから、中毒症状を起してしまった。
 それでもかろうじて一服、熱さましとなった薬があったのでご紹介する。
「老人の悲劇は、彼が老いたからではなく、彼がまだ若いところにある」
 オスカー・ワイルド(英・劇作家。1854-1900)である。同性愛者のワイルドのことだから、ちょいと意味深かもしれない。なんだかお尻がモゾモゾしなくもない。
 それはさておき、私には分かる。老人でなくとも、あと数年で五十になる私には身につまされる寸鉄である。
 私はヤキトリを焼いていて、たびたびこの老人の悲劇を目撃する。殊に、不釣合いな女や服装や、嘘や知ったかぶりが悲劇を際立たさせる。本人は得意だから気付かない。だからこそ目をそむけたくなる醜態なのだ。
 不定形な私の悲劇の根本も、私の若さにあるのだろう。とはいえ、私は私の若さを否定しない。要はどうこの若さと折り合いをつけていくかということだ。
 最後にワイルドをもうひとつ。
「冷笑家とは、あらゆるものの値段を知ってはいるが、その価値を知らない男のこと」
 ヤフオクまみれの今の私には、まったくもって耳の痛いおことばであります。

(写真解説)
 つりキチ三平。左・三平。右・魚神さん、全高約11.5センチ(ユージン)。手前の獲物はチョコエッグのブラックバス。釣りは少年の私の冬のたのしみだった。専ら海釣りで、夏は釣らずに潜るのだ。

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