第99話    2006.06.04


『近頃のコレクション事情』―ゴジラ全集―

 おもちゃは専らヤフオクで購入している。だから少なくとも日に一時間、休日ともなると、時に三時間も飽かずにヤフオクの画面を眺めている。
 なにがそんなにたのしいか?
 一言でいえば「可能性への欲望」である。この品物が手に入るか入らないか。入らなければ次をうかがう。入ればどう扱うか。飾るか仕舞うか。飾るならどこがいいか。どこといってどこも一杯で、飾るとなれば一つ、物によっては二つ仕舞わなければならない。仕舞うといって物置も一杯で……。
 夜出歩くことを思えば安いもんよ、といっていたかみさんが、ついに嫌な顔をするようになった。当然だろう。私はまだいくらか余裕があると思っているけれど、かみさんの眼にそうは映らない。やがて足の踏み場もなくなると、不安をおぼえてきたのである。
 これは蒐集の途中から、小さなオマケから大きなフィギュアに嗜好が向いた時点から、充分予想していたことだった。だから、私は自宅の地下室を改造し、相応なコレクションルームにする腹積もりだった。後輩の大工の概算では二三百万。二百と三百では百万も違う。百万といえばしがない焼鳥屋には大金だ。まあ、そんないい加減な程度には考えていたのである。
 仮にコレクションルームをこしらえたとしたら、現状では数が足りない。もっと買いに奔らなければ。奔るといって無闇矢鱈に奔ったところで意味がない。そこには体系がなければならない。私は学がないから殊更体系にこだわるのかもしれないが、ともかく、自分が納得し、他人も肯んずるだけのまとまりが欲しい。
 可能性への欲望とは実にこのことで、それは蒐集の当初から私にはあった。なにが出るか分からないチョコエッグに代表される食玩にあっては、射幸心ということばに置き換えられていたけれど、対価としてカネを払う以上、それはカネの影響を受けずには済まされない。
 つまり、カネとは可能性への欲望である。これは月刊誌を立ち読みしていて合点したことで、カネとはそれを使う権利のことだとあった。カネがカネのままなら可能性に留まるが、その可能性そのものに対する欲望には歯止めがかからない。
 私はシークレットが欲しいのではなかった。ざっくりいうけど、シークレットなんぞ希少というだけでたいがいろくなもんじゃない。でも手に入れたい。それは手に入れフルコンプすることにより、さらなる可能性を留保しておきたかったからにほかならなかった。
 これは法華経の説く火宅の状態である。だから、私は食玩の蒐集をほとんどやめた。この無限の欲望にささやかな歯止めをかけたのである。
 そうだろう。しかし実際には、空間を埋めるおもちゃの山が、いやが上にも歯止めとなったのである。

 今年に入って私がヤフオクでなにを手に入れたかというと、たいがいは衣類や靴である。靴はすでに下駄箱に入りきらない。衣類はおよそ若いときに着ることのなかったスタジャンや皮ジャンで、それもたちまち洋服タンスに仕舞いきれなくなった。それにより欲望に歯止めがかかったともいえるのだが。
 かつて「うさぎ小屋」などと侮られ、あるいは卑下した日本家屋は、単に物理的に事由だけでなく、こうした欲望に対する、形而上の観点をも考慮してのたたずまいなのかもしれないと、独り惟ったりもする。
 おもちゃが増えるたびに、私は本を処分した。およそ古本しか買わないから、私は処分をためらわない。おもちゃもおよそ中古だから、つまり廉価であるから処分するとなればためらわないと思う。
 処分の方法は、カイザルのものはカイザルへで、ヤフオク市場となるのだろう。が、それにより手にしたカネが、またぞろ騒ぎだすはずだがら、物を物たらしめておくためには、欲する人に差し上げるのが良いと思う。また、その欲する人の当てがないわけではないけれど、それはきっと、私の遺族の仕事になるのではないかとも、漫然と思っているところである。

(写真解説)
 ゴジラ全集3rd「怪獣大戦争」俗にいう「シェーゴジラ」全高約9センチ。全7種+シークレット1種。シークレットはこれのモノクロバージョン。私が唯一たのしみにしている食玩。買って損はありません。

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