清水次郎長

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清水次郎長(本名:山本長五郎)ってこんな人でした。
簡単に彼の一生を振り返ってみました。

1820年 文政三年 0歳 1月1日 駿河国有度郡清水町美濃輪に生まれ、船頭三右衛門の次男として長五郎と名づけられる。その後母方の叔父次郎八の養子に引きとられる。(次郎八の長という事で次郎長の通称で呼ばれる)
1829年 文政十二年 8歳 その粗暴な性格の為、由比倉沢の伯父兵吉の元に預けられる。
1834年 天保五年 15歳 養家に戻るが百両持ち逃げし、それを資金に米相場で巨利を博し、清水に戻り家人を驚かす。
1839年 天保十年 20歳 旅の僧に余生が25歳と予言され、任侠の道を志す。
1842年 天保十三年 23歳 江尻にて芝居見物の後、酔って帰路につくおりに闇討ちに会い瀕死の重傷を負う。これを機に生涯禁酒を誓う。
博打のもつれから人を斬り、家業であった甲田屋を姉夫婦に譲り無宿者となり清水を出る。三河の地にて吉良の武一より剣術を学ぶ。
1845年 弘化二年 26歳 清水に戻った次郎長は甲州紬の文吉と駿州和田島の太左衛門との喧嘩を庵原川にて仲裁。その侠名が高める。
1847年 嘉永二年 28歳 江尻大熊の妹(初代お蝶)をめとり清水仲町妙慶寺近くに世帯を持つ。
1858年 安政五年 39歳 甲州の祐天と江尻大熊の間に争いが起こり、次郎長と大熊は祐天の親分である甲府の隠居を斬る。この為役人に追われた長五郎はお蝶・子分と共に瀬戸の岡一の家に身を寄せる。お蝶が病に倒れ、移った先の名古屋の長兵衛の家で帰らぬ人となる。
1859年 安政六年 40歳 かつて次郎長が親身になって世話をした八尾ケ獄宗七(久六)の密告により捕吏が長兵衛宅に踏み込むが、次郎長は逃げきるも、長兵衛は捕われ牢死する。
大政・石松等を連れ金毘羅参拝後に久六を斬り、長兵衛の怨を晴らす。
1860年 万延一年 41歳 久六制裁の願果たしに、森の石松を金毘羅神社へ代参に向ける。
参拝後、見請山の鎌太郎のもとを訪れた石松は、鎌太郎からお蝶葬儀の際に届けられなかった香典二十五両を託された。帰路遠州笠井の寺島の常吉を訪れた際、ふところの二十五両を狙われ、都田の吉兵衛・梅吉兄弟に惨殺される。
1861年 文久一年 42歳 梅陰禅寺住職の振舞ったふぐにあたり、角太郎・喜三郎が死亡。
密かに石松の敵討ちを計画していた次郎長は、これを逆に利用して一家全員がふぐにあたると噂をたて、これを耳にした都田吉兵衛はチャンスとばかり徒9人を引き連れ清水に押し寄せる。いち早く吉兵衛らの清水入りを知った次郎長は大政・小政・相撲常・清吉らと共に酒亭駕篭屋にて彼らを奇襲。石松の仇を晴らす。
1862年 文久二年 43歳 勢力を伸ばしていた甲州黒駒の勝蔵は興津の盛之助に乱暴を働くなど悪事の限りを尽くし捕吏の追うところとなる。遠州に逃れた勝蔵を捕らえるべく、中泉番所は大和田の友蔵に依頼。加勢した次郎長は勝蔵を甲州に追いやる。
1864年 元治一年 45歳 清水襲撃の資金集めを強要された勝沼の三蔵は次郎長に救援を求める。
1866年 慶応二年 47歳 桑名の穴太徳に縄張りを奪われた伊勢の神戸の長吉は吉良の仁吉に救援を求めていたが、清水(次郎長)一家22人も仁吉に加勢する。
荒神山にて穴太徳・黒駒の徒130人余を相手に闘い穴太徳の弟分角井門之助を倒すも仁吉・法印大五郎は命を落とす。次郎長は憤慨しさらに480名の動員、長槍170本、鉄砲40丁、米90俵を船に積み、穴太徳に再び挑む。穴太徳らは恐れおののき、ひたすら陳謝のみで和議を受け入れた。
この一件以来「清水次郎長」の貫禄は増し、その名は全国に知られる事となる。
1868年 明治一年 49歳 駿府町奉行が廃止され、伏谷如水駿府町差配役となり駿府の治安にあたる。これに伴い次郎長を街道警固に命じ、それまでの罪科を免じ帯刀の許可を受ける。
幕府の軍艦咸臨丸、清水港内で官軍に攻撃され乗組員は全員死亡。
湾内に浮かぶ幕軍の屍を次郎長が収容し向島に葬る。
1869年 明治二年 50歳 次郎長が三河に行って留守の間、久能新番組の木暮半次郎に二代目お蝶が斬られ死す。啓次郎らがこれらを追い久能寺前で討つ。
この頃、山岡鉄舟は咸臨丸事件の次郎長の話に感銘し「壮士の墓」の墓碑銘を揮毫して与える。
三州西尾の藩士の娘をめとる(三代目お蝶)
1874年 明治七年 55歳 囚徒を使役し富士裾野の開墾を始める。
1875年 明治八年 56歳 向島に波止場の建設を始める。また回漕問屋に蒸気船の運行を説く。
1878年 明治十一年 59歳 山岡鉄舟、天田五郎を次郎長に引き合わせ、次郎長の家に逗留し「東海道遊侠伝」の執筆を始める。
1881年 明治十四年 62歳 天田五郎、次郎長の養子となる。
1884年 明治十七年 65歳 「東海道遊侠伝・一名次郎長物語」東京与論社より出版。
博徒のいっせい刈込みにより次郎長静岡井之宮監獄に収監されるも翌年、特赦放免となる。
1886年 明治十九年 68歳 向島波止場周辺に旅宿「末廣」を開業。記念に鉄舟揮毫の扇子を千本配る。
1887年 明治二十年 69歳 興津清見寺に咸臨丸殉難者記念碑の除幕式を行なう。
碑文「食人之食者死人之事」は榎本武楊によるもの。
1893年 明治二十六年 74歳 次郎長没。梅蔭禅寺にて葬る。

参考文献:「梅蔭寺 清水次郎長伝」 著者 田口英爾氏、製作 梅蔭禅寺

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以上、簡単に清水次郎長(本名:山本長五郎)の人生を年譜にしてみました。
これほどの波乱万丈、また己の人生を方向転換させた方も少ないのではありませんか?