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江戸のまちづくり・街道の目的


TOSS静岡・やらまい会 前島康志

家康は、江戸に幕府を開き、江戸を中心とする都市づくり取り組んだ。
 江戸の都市づくりには、現代でも学ぶべきことが多くあり、また、子どもたちの知らない多くの工夫が隠されている。
江戸と各城下町を結んだ街道もその一つである。
 本授業では、この街道の持つ意味の一つを考えさえていくことで、江戸のまちづくりの深さを感じさせていきたいと考えている。

本授業は、パワーポイント2002を使って授業をしています。資料が欲しい方は、前島まで連絡ください。



1 江戸幕府

1603年 徳川家康は、幕府を開きます。どこに開きましたか。

江戸です。
東京です。

家康は江戸に幕府を開き、日本の中心を京都から江戸にうつしました。
そして、日本橋を起点に五街道を整備し、全国の城下町を結びました。


2 五街道と参勤交代

五街道を言ってみましょう。 静岡県を通っている街道をなんと言いますか。

東海道です。

日本橋から京都の三条大橋にいたる最も主要な街道であった東海道。五街道には、古くは東山道と呼ばれ、草津で東海道につながった中山道、内藤新宿(東京都新宿)から甲府にいたり,甲府からさらに下諏訪で中山道と合する甲州街道、江戸と日光を結んだ日光街道、江戸から福島をつないだ奥州街道があります。五街道では、一里塚や宿場町がつくられ、大名の参勤交代も行われました。

その参勤交代ですが、どの街道が一番使われたでしょうか。

東海道
  中山道

東海道です。145名。次は、日光・奥州街道の41名。中山道の30名。最後に甲州街道です。甲州街道では何名の大名が使ったと思いますか。実は3名です。この甲州道中を通行した参勤交代の大名は、伊那の3万5千石の高遠藩、1万5千石の飯田長姫の飯田藩、3万石の諏訪の高島藩の3大名でした。大河ドラマの山内氏が掛川にいた頃は、6万石。加賀の前田氏は100万石ですので、小さいな藩です。

どうして3名の大名、それも小さな藩の大名しか使われなかったのでしょうか。

道が険しかったから
大名がいなかったから
宿場町がなかったから

3 甲州街道の別の目的

この甲州街道は、他の街道にない違う目的があったと考えられます。その目的を考えていきます。次の資料から、甲州街道と他の街道の違いを言いなさい。※資料・・五街道と江戸幕府の地図

 他の街道は、日本橋から出ている。
甲州街道は、江戸城を通っている。

この地図に地名をつけていきます。甲州街道につながる門を半蔵門といいます。甲州街道を進んでいくと、新宿の北側に百人町があります。現在もあります。さらに進むと八王子に千人町があります。その後、甲府城につながります。甲府城は、徳川家康が築き、その後、幕府の天領となり、幕府が治めています。

※図を見せながら説明していく。

甲州街道の違う目的は何だったでしょうか。

甲府城とつなぐ道
甲府城に秘密があった 

蔵門の半蔵とは、服部半蔵のことです。みんなが知っている忍者ハットリ君のモデルです。百人町とは、鉄砲百人隊がすんでいた場所です。千人町は、千人同心が住んでいた場所です。

甲州街道の違う目的は何だったでしょうか。



4 甲州街道の軍事的目的

江戸幕府で何かあったとき、将軍は、半蔵の部下に守られながら、甲州街道を進みます。そして、百人鉄砲隊に守られ、さらに千人の同心に守られ幕府の直轄の甲府に逃げるのです。つまり、甲州街道は軍事用の目的があったのです。
百人町には皆中神社があります。江戸時代には違った名前でした。みなあたる神社です。鉄砲隊の鉄砲があたるようにつくられました。
江戸の道路も実は軍事的な意味があったんですね。江戸のまちづくりには、もっと秘密がありそうです。調べていきましょう。



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