2002/11/4(月)
朝、少し目が開いた時に、「お父さん」と声を掛けたら「何?」と言ったのが最後の言葉だった。
21:30 死亡確認後、主治医が夫の両親に今までの経過を説明してくれている間に、
看護師さん2人が夫をきれいにしてくれている横で、病室の荷物をまとめるのに大忙し。
悲しみに浸る時間などなく、葬儀屋さんが病院に到着する(30分後)までに病室を片付けて、
葬儀屋さんより先に自宅に戻って迎えなくてはならないため、時間に追われて慌しかった。
22時過ぎ、夫が帰宅後、葬儀屋、親族と明日の打ち合わせをし、
23時頃、実家に預けていた長男を迎えに行った。寝ていたのを起こして自宅に帰る車中、
初めて「お父さんは肺がんだったんだよ。」と話したら、「そうだと思ってたよ。」と長男。
お父さんの遺体と対面しても、泣かなかった。
24時、長男と2人で布団に入る。「頼りにしてるからよろしく頼むね。」と抱きしめた。
疲れているのになかなか眠れない。長男も寝付けずにいた。
2時ごろようやく眠りに就く。長い1日だった・・・
2002/11/7(木) 通夜
夫はきれいな顔をしていた。少し微笑んでいるように見えた。
腕や足は痩せ細ってしまったけど、顔は痩せこけることもなく、壮絶な癌闘病の後とは思えない
いい顔をしていた。イレッサの副作用の湿疹も、帯状疱疹のかさぶたも、ほとんど治っていた。
遺影には、9年前の結婚の記念写真を使った。みんなが「イイ男だ。」と褒めた。
(式は挙げずに写真だけ洋装と和装で1枚ずつ、式場で撮ってもらったのだった。
当時、夫が再婚だったこともあるが、私も結婚式にはあまり興味がなく、
記念写真すら「そんなのどっちでもいいよ」と乗り気ではなかったが、
私の両親に「披露宴もしないのなら写真だけは撮らないと、後で何も残らないから」
と言われて撮ることにしたのだった。親の言うことは聞くものだなぁと実感。)
こんなことになって、遺影にする写真を探しても、アルバムは子供達の写真ばかりで、
引き伸ばすとぼやけるので、なるべく顔が大きく写っているものと言われたが、使える写真がなく
まさか結婚の記念写真が遺影になるとは・・・。
でも、微笑んでいるいい顔の写真だった。みんなが言うように「イイ男」かも。
2002/11/8(金) 葬儀
朝から雨…10:30の出棺の時が、一番激しく降っていた。
後で夫の母が、「あれは息子の悔し涙だよ。」と言ったのが忘れられない。
亡くなる4日前の10/31、「俺の葬式はどこでやるのかな。」と言った夫。
葬式、というのは通夜のことだったと思うのだけど、私達家族は3DKのアパートに住んでいたので、
狭いアパートでは無理だろうと私は思っていた。(夫もそれを心配していたのだと思う。)
どこか会場を借りて通夜を行うことになるのだろうと思っていたのだけど、
夫の母が、「戻りたくて戻れなかった、思い出もいっぱい詰まったこの場所から送り出してあげよう。」
と言ったので、深く納得。さすがお母さん。
通夜も出棺も、狭いアパートで大変だったけど、やっぱりここから送り出して良かったと思った。
雨の中、たくさんの方々が出棺を見送ってくれた。
葬儀会場に向かう霊柩車に乗っている時、もうこの道を一緒に車に乗って走ることもないんだ…。
もうこれで本当にお別れなんだと思って、どっと哀しみが押し寄せてきた。
葬儀にも遠方から駆けつけてくださったり、お仕事の都合をつけて来てくださったり、
小さいお子さんを預けて来てくださったり、たくさんの方に参列していただき、本当に有り難かった。
長男にはお別れの言葉を言ってもらった。泣きながら良く頑張ってくれた。
(本人は「泣いてない、鼻水が出ただけ」と言い張っていたけど。)
私は喪主という大役、緊張感で疲れきってしまった。
2002/11/10(日)
生活できるように部屋を片付け、2人の子供達をようやく実家に引き取りに行った。
夫が個室に入ってからの20日間、母に預かってもらっていて、
その間私が子供達の顔を見れたのは、ほんの何時間かだった。
葬儀が終わってから私1人で二晩寝たが、寂しくてしょうがなかった。
母子3人での生活がスタート。
夫の入院中も3人での生活だったけど、その頃とは全然違う。
毎日病院に行っていた4ヶ月間。もう病院に行かなくて良いんだと思うと、すごく寂しい。
四十九日法要を済ませたら、年内に引っ越して実家に戻ることになった。
(実家は、父親が8年前に他界し、母親が1人で住んでいた。)
私達3人でアパートを借りて住むのでは、生活も大変だし、
「戻らせてもらったら。」と夫の母が言ってくれたので。
翌日からお香典をいただいた方々への返礼、病院へ保険会社の診断書作成依頼、
役所へ必要書類の申請、社会保険事務所へ年金手続、引っ越しの準備…と忙しい日々が続く。
2002/11/16(土)
夫が勤めていた会社の、年に1度の展示会があり、招待状をもらったので子供達を連れて行って来た。
毎年行っていて、夫の接客姿を見ていたので、そこに夫の姿がないのはやはり寂しい。
夫の写真を飾ってくれてあり、「お客さんが写真を見て泣いてくれる」と言っていた。
すごくいい顔で笑っている写真だったので、「ぜひください」とお願いして帰って来た。
2002/11/17(日)
私の32歳の誕生日。
9月に夫が私に「誕生日には服でも買って、少しはオシャレしたら。」と言っていたのを思い出す。
買い物には行ったものの、結局子供のものだけ買って帰って来た。
おしゃれなんてする暇もないし、そんな気分にもなれないし。
長男の七五三(7歳)のお祝いが11/9に予定されていたけど行けなかったので、
その時着るはずだった洋服を着て、祭壇の前でお父さんの遺影と一緒に記念撮影をした。
2002/12/14(土) 四十九日法要
喪主としての大役が無事に終わり、祭壇が片付けられた。
そのために空けられた部屋がガランとして寂しい。
夫の位牌は夫の実家の仏壇に入れてもらうことになった。
前に夫の両親からも話があったが、お寺の住職からも、
「まだ若いからいつかは再婚もするだろうし、そうした方がいいだろう。」と言われた。
そういう場合にもう1つ小さい位牌を作って持って行く人もいるが、
夫の実家もお寺も近いので、その必要もないだろうということで、
私は小さい遺影を持って行くだけにした。
「いつかは再婚するだろう」と今までも何回か言われたことがあったけど、私は全然そんな気はない。
夫が亡くなって間もないからということだけでなく、
子連れ再婚の大変さは体験済みなので、自分のためにも子供のためにも
再婚はしない方が良いと思っている。
自分の長男はまだ小学生だけど、夫の長男とは小学6年から成人するまで一緒に暮らした。
その間、本当に色んなことがあり、夫の葬儀を終えてから、もう一生分の経験をしてしまったような、
燃え尽きた感じがしていた。これからは子供達の成長を楽しみに生きていきたい。
(子供が大きくなったら寂しくなっちゃうだろうけど。)
2002/12/22(日) 引っ越し
4人分の荷物を1人でまとめるのは本当に大変だった。夜中の1時までかかってしまった。
夫の同級生が、「入院中は何も出来なかったから、その位やらせてほしい。」と言ってくれたので
お言葉に甘えて、荷物の運搬をやってもらった。良い友人を持った夫に感謝。
約3時間で終わり、その後みんなでお寺にお参りに行ってくれた。
夫の衣類で綺麗なものは、友人達に形見分けした。
相続手続
12月から保険会社の保険金請求と、夫の自動車を売り渡す手続きに取り掛かった。これが大変だった。
本人が生きているうちは、保険金の受取人は本人だけど、
死亡保険金の受取人は、特に指定がない限り「法定相続人」となり、妻と実子が対象者となる
ということを初めて知った。我が家のような場合は、最初に受取人を指定しておけば
こんな苦労をしなくても良かったのだけど・・・。
夫の場合は先妻との間の子供が2人いて、この時には2人とも成人、結婚しており、
夫が筆頭の戸籍からは抜けていた。
私は同じ戸籍に入っているかどうかが関係するものと思い違いしていたのだが、
離婚して先妻の方に引き取られ、再婚相手と養子縁組をしていた長女も、
夫の実子ということで、法定相続人になるということは想像もしていなかった。
長女と長男に、書類に署名・実印押印・印鑑証明書添付をしてもらったのだが、
途中で、それまで仲良くしていて協力的だった長女が急に「周りに反対されたので協力できない。」
と手続きを拒否、その後連絡が取れなくなり、手続きが進まなくて困ってしまった。
(相続を放棄するにしても、実印と印鑑証明が必要になる。)
この時は本当に参ってしまって、夜布団に入ってから「お父さん、見てるんだったら何とかしてよ〜。
私はいつまでこんなに苦しい思いをしなくちゃならないの?」
と泣きながら心の中で夫に訴えかけたりもした。
悩んだ末に、私の気持ちを手紙に書いて長女に送ったら、和解することができ、
無事に相続手続きを終えることが出来た。
自動車も財産ということで、相続になるということも初めて知った。
身内や親しい友人などで乗ってくれる人がいれば、手続きも特にしなくて楽だったのだけど、
みんな今自分の車を持っているので、譲ることも出来ず、買取に出そうと思ったが、
長女が手続きを拒否していた時だったので断念し、自動車販売業をしている知人に預け、
一年後の車検まで乗ってもらい、廃車・解体するしかないということになった。
義母の言葉
夫の母親が言った。
「親より先に逝くなんて、これ以上の親不孝はない。」
「一番可哀想なのは、夫に先立たれた妻だろうけど、子供がいるからいいよ、生きがいがあって。
私なんて糸の切れた凧みたい。子供に先立たれるなんてたまらないよ…。」
夫が亡くなる20日ほど前に、かなり進行してしまったことを打ち明けた後、
また、亡くなる5日前に、医師から「あと数日」だと言われたことを伝えた時、
そして、亡くなった後・・・意外にも気丈に、涙も見せずにいた義母だったが、
やはり内心は、私よりつらく寂しい想いをしているのだ。
もし私より先に息子が死んでしまったら・・・なんて考えただけでもつらくなる。
絶対にそうなってほしくないと思う。夫の両親は可哀想だ。
お墓
私はお墓を建てるところまでで、喪主としての役目を終え、
その後の法事は全て夫の実家の方で仕切ってくれることになった。
位牌も実家にあるし、法事も夫側の親類が集まるので、その方が好都合だから
と夫の両親から話があり、有り難くそうさせてもらうことにした。
2003/2/5(水) 夫の両親と墓石を注文しに行った。その日の夜、義父から電話があり、
「お墓を建ててくれるのが本当に嬉しい。ありがとう。」
と泣きながら言われた。普段はそんなこと言う人じゃないのでびっくり!
酔っていたので憶えていないかもしれないけど、嬉しかった。
2003/3/1(土) 納骨 また雨…。でも、お墓はとても立派に出来て、晴れやかな気持ちだった。
洋型で濃いグレーの墓石、夫が好きそうな感じに仕上がり、きっと喜んでくれていると思う。
夫の両親も「立派なお墓をありがとう」ととても喜んでくれたので、良かった。
これでホッと一安心。
子宮がん・乳がん検診
2003/2月に初めて子宮がん・乳がん検診を受けた。
市の健康診断では30歳以上が対象になっているが、去年も一昨年も受けなかった。
まだ夫を亡くして3ヶ月、私までがんだったら困る…まだ死ねない、
何としても早期発見しなくては!とすごい意気込みで、産婦人科へ行った。
乳がん検診はすぐに結果が出て「異常なし」ということで安心したけど、
子宮がんの方は、数日後に自宅に結果が郵送されるというので、待っている間は怖かった。
「子供達が社会人として一人前になるまで、何とか生かしてください。」そんな想いだった。
結果は「異常なし」・・・あ〜良かった。
就職活動
4月からの保育所の入所申請に市役所へ行ったら、現在就労中の人が最優先で、
次に、もう就職先が決定している人、私のように求職中の人は、入園できないとのこと。
それほど共働きや片親の家庭が増えていて、入園希望者が多いのだそうで、
先に勤務先を決めて、就労見込証明をもらって提出して初めて、
第1希望の保育園に入園できるかどうかの選考対象になるという。
でも、普通は今求人募集している会社は、今人手が欲しいのだから、
まだ子供を預けて働けるかどうかも分からない人を
保育園が決まり次第、なんていう条件で内定をもらうのは無理があるんじゃ…。
と係の職員に言ってみたところ、「これも競争。切羽詰まっている順ですから。」ときっぱり。
保育園入園も仕事スタート可能な時期もはっきりしないのだから、当然と言えば当然の結果、
電話受付の時点で断られ、面接にこぎつけることも出来ないまま1月が終わってしまった。
2月中に仕事を決めて会社の証明を市へ提出しないと、
4月からの保育園入園は無理だと言われ、タイムリミットが迫っていたので焦っていた。
狙っていた一般事務の仕事は、求人が少なく応募は多数という状況で、難しいかもと思い、
他の職種でも条件(休日や勤務時間)の合う会社にアタックしてみたら、
初めて面接までこぎつけて、運良くその場で採用が決まった。
電子部品の組立・検査をしている小さな工場での現場事務か検査の仕事で採用。
内定証明を市へ提出し、2月末に、第1希望の保育園入園が決まった。
しかしその後、会社の方から勤務時間の変更の話があり、
こちらの希望と合わなくなってしまったので、お断りすることになり、
次男が保育園に入園してから、また職探しスタート。
予想外の展開だったが、今度は希望していた一般事務の職がすぐに見つかった。
今年に入り、MOUS試験(Word/Excel)一般レベルの勉強を始め、
3/14に受験・合格していたことで、自信を持って面接を受けられたことが良かったのかも♪
新しいスタート/息子の入園&就職
2003/4月から2歳になる次男を保育園に預け、パートで働き始めた。
次男は、私と離れても泣かなかった。でも、言葉も発せず表情も固まったままだと言う。
逆に大泣きできる方が、自分が出せているということなので安心だと保育士さんに言われた。
私も2年振りの社会復帰で、最初の1ヶ月は緊張の連続で、まだ大した仕事も出来ないのに
慣れるまでは心身ともに疲労が大きかったが、社員がみな感じよく、
自宅からは自転車で5分の距離、勤務時間も希望通りの9時〜16時で、
土日祝日休みで採用してもらい、最高の条件で働けることになり、本当にラッキーだった。
2003/8/14(木)
去年の夏休みに家族で行った市内のホテルに、夫を偲んで今年も一泊しようということになり、
私と次男の保育園の夏休みがお盆の9日間なので、料金は高いけど思い切って行くことにした。
子供達もとても楽しみにしていた。
前日から長男が、歯がグラグラして痛いため食事がほとんど摂れなくて、夜になり38.5℃の熱を出し、
当日午後に熱が上がってきたので、解熱剤をもらってホテルで寝ていようと
着替えなど泊まる支度を車に積んで、病院に行った。(かなり無謀^^;)
待合室で待っている間、長男が「眠い」というので寝かせていたら、眠りに入ってすぐに
けいれんを起こしてしまった。すぐに診察室に入れてもらい、医師と一緒に見守っていた。
手足を動かし暴れたりもした。10分程で治まり、そのまま診察室のベッドで2時間も眠った。
チェックインの時間が過ぎていたが、病院からホテルにキャンセルの電話をしたら、
キャンセル料は今回は無しにしてくれた。
長男が目が覚ましてから意識がはっきりしなくて、自分の名前が答えられなかったので、
一晩入院して、意識がしっかりしたら退院するようにと言われたが、
少ししたら自分の名前が言えたので、入院しないで帰宅することができた。
長男は、1歳11ヶ月の頃から熱性けいれんを繰り返していて、今日で20回目だった。
この7年間、年に2〜3回脳波検査を受けているが、結果はいつも特に異常はなく
(気になる点は若干あると言われることはあるものの)、それほど心配はいらないと言われていた。
小学生になり、熱を出すことも少なくなり、かなり丈夫になった。
が、今年は1月にも熱性けいれんを起こしていて、まだ7ヶ月しか経っていない。
ちょうど1年前、昨年8月まで3年間飲んでいた抗けいれん剤(デパケンシロップ)を、
明日から再開することになってしまった。(デパケン錠 朝・晩1錠ずつ毎日)
次男の入院
保育園に入園して1年目、よく風邪をひいた。
2003/6/2〜6/7の6日間(肺炎)、6/26〜7/2の7日間(喘息様気管支炎)、
12/22〜12/28の7日間(喘息様気管支炎)、1年で3回も入院してしまった。
どうも気管支が弱いらしい。
入院生活は毎回短期間ながら大変だったが、完治して退院できることが分かっているので、
気持ちは重くはならなかった。
長男も保育園の4年間で5回の入院経験があり、肺炎などで1週間〜2週間の他に、
血管性紫斑病で2ヶ月以上も入院したことがあり、子供の入院付き添いは慣れていた。
でも、長男の時と違ったのは、咳をしている次男の小さな背中をさすっている時に、
夫のことを思い出してせつなくなったこと。
夜中まで眠れない次男をおぶって、点滴をひきずりながら病院内をあちこち歩いていると、
あまりにも静かで、「夫も夜眠れなくて苦労したっけ。私が個室で付き添うまでは、
ひとりぼっちでどんなに心細かったか、死への恐怖で不安がいっぱいだっただろう」と思うと、
外泊できずに大部屋で1人になった時に寂しがったのもよく解った。夜の病院は寂しすぎる・・・。
夫が個室に入った時に、子供達を私の母に頼んでから、次男はかなりおばあちゃん子になり、
夫が亡くなり実家に引っ越して来てからも、夜はよく母と一緒に寝ていた。
それが6月の2回の入院で、次男はすっかりおかあさん子になってしまい、
夜は私としか寝なくなってしまった。
長男も次男も、お互いにヤキモチを焼き、私の取り合いで激しいバトルの日々・・・。
2003/10/18(土) 一周忌
11/4の命日を前に、夫の一周忌法要。この日もまた雨…。
昨年末、私達家族の引っ越しを手伝ってくれた夫の友人達が、引っ越しが終わってから夫の両親に
「是非一周忌の時には呼んでほしい。」と言ってくれたそうで、全員出席してくれた。
今月に入ってから妙に寂しくて、去年の今頃、病状が悪くなっていったことや、
元気だった頃のこと…色々思い出されて、常に夫のことが頭にあるような感じ。
こんなこと言ってたなぁとか、今生きていたらこう言っただろうなぁとか。
亡くなってから、今が一番というほど夫のことを考えていると思う。
亡くなった当初は忙し過ぎて、その後、引っ越し・就職…とバタバタしていたので、
仕事にも慣れ、実家での生活が落ち着いてきた今だから、こんなに思い出されるのかも。
それとも夫が逢いに来てくれているのかな・・・。
2003/11月
一周忌の頃に、長男(小学3年)が書いてくれた家族の絵。

もうひとつの闘病記
患者仲間のAさんは、夫が検査入院した2ヶ月後の2002年8月に、同室に入院した。
夫は非小細胞肺がんだったが、Aさんは小細胞肺がんだった。
(小細胞がんは、増殖が速く、転移しやすいが、非小細胞がんと違って抗がん剤が効きやすい。)
入院前、背中の痛みを訴えていたそうで、肺がんが背骨に転移した状態だったというが、
Aさんは抗がん剤がよく効き、副作用もほとんどなかったそうで、いつも元気だった。
夫が亡くなった後、2002年の暮れに退院した時は、肺の影はほぼ消えていたとのことだった。
2003年3/18に脳転移がわかり、4/1に夫と同じように隣町の病院でガンマナイフ治療を受けた。
その後もAさんは元気で、私には信じられないほどだった。羨ましくもあった。
4/29には、私達家族をバーべキューに誘ってくれて、Aさんの娘さんのお宅で楽しい時間を過ごした。
8/13には夫の初盆見舞いに奥さんと一緒に自転車で来てくれた。
時々背中が痛むが、息苦しさや咳もないと言い、肺がんとは思えない元気さに驚いた。
ところが9/19の夜、奥さんから電話をもらい、Aさんが自宅でけいれんを起こして入院し、
2日間意識がなかったが戻ったので、本人が分かるうちに会いに来てあげてほしいと言われ、
すぐに駆けつけた。1ヶ月前とは別人のようにベッドで寝ていたAさんの姿…ショックだった。
9/23にお見舞いに行くと、車椅子に乗り始めたところで、一緒に1階まで散歩に行った。
10/7にお見舞いに行ったら、自分で歩くことが出来るようになっていて、だいぶ良くなった印象だった。
Aさんの回復力には驚くばかりだった。年齢的にも(68才)夫より進行のスピードが遅いのかも…と思った。
モルヒネの副作用か、幻の世界でタバコを吸っている様子のAさん。
奥さんが怖がっていたので、私も夫の幻覚や錯乱症状が怖かったことを思い出した。
10/17には外泊できるようになったと電話をもらい、すごい生命力だと思った。
11/22、外泊中に自宅にお邪魔したら、少し前、夫の一周忌の頃にお墓参りに行ってくれたそうで、
「あの頃はまだ元気だったのに…。」とAさんが力ない声で言った。
「頑張っても頑張っても良くならない。」と、気力も失せてしまったようなAさんに、
「本当に今まで頑張ってきたもんね。」「寒くなってきたから風邪ひかないように気をつけて。」
そんな言葉しかかけてあげられなかった。
12/25、次男の入院中に、Aさんが亡くなったことを娘さんがメールで知らせてくれた。
次男が退院してから子供達2人を連れてAさん宅に伺うと、お孫さんがたくさんいて賑やかだった。
「最期はバタバタして哀しみに浸る時間もなかった。
これから1人暮らしだから、思いっきり泣きたい。」と言っていた奥さん。
忙しさに紛れて未だに泣き足りない感じがしていた私には、奥さんの気持ちがよく理解できた。
闘病生活が夫より長かった分、体調が良くて楽しめた時間も多かったと思うけれど、
悩み、苦しむ時間も多かったのかもしれない。
Aさんは自分の病状(骨転移、脳転移)も知った上で、前向きに治療をしていた。
奥さんもそんなご主人を強く支えていて、お二人の周りはいつも優しい雰囲気に包まれていた。
1年4ヶ月の闘病を終えたAさんご夫婦に、心から「お疲れ様でした。」と言いたい。