年中行事みきのくち12




18 亥(い)の日の信仰

艶姿花の十二支の内

亥の日のしんこう

元治元年(1864)、七十九歳豊国 画。
         (三代豊国)
天明6年(1786)〜元治元年(1864)

 亥の日が縁日の祭りが摩利支天祭です。摩利支天は、高山の名前にもなっていますが、光や陽炎(かげろう)を神格化した女神で、念じれば護身、隠身、勝利、保財などを与えるとされ、中世、武士の守護神として信仰されて来ました。その後、商家など民間にも信仰が広がりました。画像の吉原遊郭の妓楼の床の間に掛けた掛け軸には、三面(顔)八臂(手)で、眷属の猪の背に乗っている摩利支天尊が描かれています。掛け軸の前にお供えしてあるみきのくちは、板製と思います。

御神君兜入麻利支天

光明山東雲寺奥之院
湖西市

 この麻利支天尊は、家康公が武田勝頼公との合戦の際、守護神として自らの兜の中に入れていた、弘法大師作の身の丈1寸2分(約3.6センチ)の像です。その後当時の和尚が家康公から、奥の院に合祀するように命じられ、徳川家代々の祈願所となりました。





18−2 炉開き
      猪の子餅

茶道では、旧暦10月の初亥の日に、炉開きを行います。それまで使用していた風炉(ふろ・湯を沸かす火鉢の様なもの)を止めて、炉(囲炉裏)を使います。流派によっては、床の間に神酒口を挿した瓶子を三方に乗せて飾り、炉に火を点けた後、皆で、お神酒や「猪の子餅」をいただくそうです。
猪の子餅は、褐色の餅皮でウグイス餅のような形に包餡し、
背中に、焼印で筋を入れます。




19 えびす講

みきのくち
江戸風俗十二ヶ月の内十月豪商恵比寿講祝の図
楊州 周延 画   明治22年(1890)

 10月20日に、商売繁盛を祈って、恵比寿神を祀るお祭りです。
みきのくちは、赤く着色されています。
 この絵は、天明9年(1789)刊の、「東都歳時記」掲載の挿絵「商家愛比寿講」を参考に描いたと思われます。

 この画像は、江戸の豪商(大店)の恵比寿講のお祝いの模様です。お得意様、知人、親戚などを招いての、飲み放題、食べ放題のドンちゃん騒ぎをやっています。画像1では、1階の恵比寿像の前で「夷講の売買」が、2階では、三味線の伴奏で裸踊りが行われています。画像2では、裸になった相撲取りが、大皿を杯代わりにして酒を飲んでいて、周りでは、ヤンヤの拍手をしています。画像3では、床の間を背に、お得意さまの旦那衆がいます。三味線を抱えた芸者衆も見えます。歓声や嬌声が聞こえて来るような、賑わいです。

 「商売の徒、西宮大神宮を祭る。この神、商売を護り給ふ故なり。この日、蛭子(えびす)の像に、神饌、神酒等を供す。また、必ず鯛を供するなり。また、別に酒宴を設けて年中出入りするところの得意、あるいは懇意の人を招きて饗応す。また、蛭子の像前において、主客相混じ、杯盤器物に至るまで、仮に価を定む。あるいは千両、あるいは万両。売る者諾する時は、必ず手締めをする。これを夷(えびす)講の売買といふ。一時酒興の戯れなり」俳諧歳時記(享和3年・1803)刊。

 「推古天皇9年(601)3月に、聖徳太子はじめて売買の手立てを教え、蛭子(ひるこ)の命を鎮護の神と崇め、西の宮に祀り給ふにより、商売の道始まりける。又、大黒、戎(えびす)の二神を祀ることは、大黒は大巳貴命(=大国主命)、ゑびす御子は事代主(=大国主命の子)の御事也。この二神は、日本地主の御神なるゆへ、繁盛を祈る也。」(註:神様の間柄は、諸説あり。)
寺子用文章宝箱 江戸中期刊。




20 誓文払い・恵比寿講

蛭子の命信心の図

商売往来 (★)

大坂 天満屋安兵衛板  江戸期刊

みきのくち(紙製)





 誓文払いのこと、あきんど(商人)は、空(そら)値(掛け値)を言いて、偽りなきとて誓言を立つる。この月に、年中の誓文をば払ふ(日ごろ嘘をついてした誓文を、神に祈って捨て去る)と言ふなり。誓文払いの神は、土佐坊正尊をまつることなり。正尊、義経の討手として来たり。弁慶に引き立てられ、堀川の御所にて、偽り空誓文を出したりゆへなりと言い伝ふ。正尊を神に斎(いは)ひて、都祇園御旅所の末社に祀り、冠者殿(かじゃでん)といふ社は、正尊をまつる所の神なり。


土佐坊正尊が、空誓文を出してる図

寺子用文章宝箱
(★)

江戸中期刊